万博の歴史をわかりやすく解説!大阪万博の反響も

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岡本太郎の太陽の塔を強く記憶されている方は多いのではないでしょうか。1970年の大阪万博は、日本初めての万博とあって多くの人が熱狂していました。そして2025年2度目の大阪万博が開催されました。2005年愛知万博を含めて、3回の万博が日本で開かれています。その3回を見ただけでも、その時代の人類の価値観が比べられます。

さらに紐解いて世界の万博の歴史をおさらいしてみませんか。これからの方向も見えてきます。

万博とは

出典:加盟国

万博とは、国際博覧会条約という国際条約に基づいて、世界184か国が加盟する国際博覧会事務局 BIE: Bureou International des Expositions )に認定された博覧会です。万博という略称の他、「国際博」「万国博」「エキスポEXSPO=Exposition)などの通称で呼ばれています。

博覧会とは

では、博覧会とは一体どのような催しなのでしょうか。

国際博覧会条約は「博覧会」について次のように定義しています。

博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動一、若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門において将来の展望を示すものを言う “ 

加えて、「国際」をつけるためには、二か国以上の参加が必要と規定されています。       

引用:国際博覧会条約;第1条

少し難しい条文の文言ですが、万博とは「公衆の教育を主たる目的とした人類の知識・技能を公開しあう複数の国による催し」と把握してよいでしょう。

どのような人類の知識や技能が展示や演示されたのかは、万博の歴史を振り返りながら見ていきましょう。

万博の歴史➀:国際博覧会以前

博覧会の起源には、様々な説が唱えられています。その中のひとつに、古代エジプトなどの原始的な展示にまで遡る説があります。この説を取れば、博覧会はオリンピックより古い歴史をもつことになります。まず「国際」博覧会となるまでを振り返ってみましょう。

万博の起源

古代エジプトやペルシャそしてローマでは、王家の行事として宝物や衣類、戦利品が民衆に披露されたことが記録に残っています。これが原始的な博覧会といえるでしょう。さらに人口が集中する地域では「」が生まれ、物の売買から技術の展示までを含むようになりました。

近代の博覧会の形態に近づいたのは、15世紀になってからの「物産展」と言われています。

国内博覧会時代

18世紀から19世紀初めには、パリを筆頭にヨーロッパの各地で様々な物品を展示する国内博覧会が開催され、規模も大きくなっていきました。多くの国で開かれるようになると、「国際博覧会」が望まれるようになり、1849年にはフランスの提唱により国際化される見通しとなりました。

万博の歴史②:産業革命と戦争

国際博覧会としてスタートしたのは、1851年25か国が参加した「第1回ロンドン万国博覧会」です。英国のビクトリア女王とその夫君のアルバート公の尽力により大成功を収めました。鉄とガラスで造られたクリスタル・パレスで開かれたことで、パビリオンの建設にも新技術やデザインを取り入れていく万博のスタートとなりました。

その後も国際博覧会の人気は高まり、1800年代の開催数は13回を数えました。産業革命と相まって、新技術の公開が相次ぎ、訪れた人々の目を奪いました。

<1800年代の万国博覧会>

開催年開催地特筆事項・新技術(太字
1851ロンドン国際博覧会のスタート
1853ニューヨーク米国初参加
1855パリ初めて「万国博覧会」とする
1862ロンドン日本初視察
1867パリ日本(幕府・薩摩・鍋島)初出品
1873ウィーン日本政府公式初参加
1876フィラデルフィア
1878パリ蓄音機、自動車、冷蔵庫等出品
1880メルボルン
101888バルセロナ
111889パリエッフェル塔建設 白熱電球で夜間照明
121893シカゴ空中観覧車
131897ブリュッセル

1900年代前半:戦争と万博

出典:1900年第5回パリ万博 <動く歩道>(国立国会図書館)

1900年代前半には12回の万博が開かれました。1900年のパリ万博では動く歩道が披露され、益々新技術披露が盛んになるかと思われました。しかし、1915年のサンフランシスコ万博の前年には第一次世界大戦が勃発し、その次のバルセロナ万博開催は14年後1929年となりました。

1928年には冒頭で挙げた国際博覧会条約が採択され、再び毎年のように開かれるようになった万博ですが、第二次世界大戦により、1940年のニューヨーク万博以後18年間中断を余儀なくされます。

<1900年代前半の万国博覧会>

1900パリ1904セントルイス1905リエージュ
1906ミラノ1910ブリュッセル1913ゲント
1915サンフランシスコ<第一次世界大戦>
1929バルセロナ1933/34シカゴ1935ブリュッセル
1937パリ1939/40ニューヨーク<第二次世界大戦>

ここまでは、産業革命で大きな波に乗り、世界大戦に翻弄された万博の歴史と言えます。

万博の歴史③:再開された万博

大戦後、国際博覧会が再開されたのは1958年ブリュッセル万博でした。その後世界各地で開催されてきました。

1900年代後半以降:世界各地での開催

1933年シカゴ万博で初採用されたテーマが継続され、その文言から人類の知恵と技術の向かう先が見えてきます。

<1900年代後半の万国博覧会>

開催年開催地テーマ・特記事項
1958ブリュッセル科学文明とヒューマニズム
1962シアトル宇宙時代の人類
1964/1965ニューヨーク理解を通じての平和
1967モントリオール人間とその世界
1970大阪人類の進歩と調和 日本初の万博
1974スポーケン汚染なき進歩
1975沖縄海ーその望ましい未来
1982ノックスビルエネルギーは世界の原動力
1984ニューオーリンズ河の世界ー水は命の源 マスコット初採用
1985筑波人間、居住、環境と科学技術
1986バンクーバー動く世界、ふれあう世界
1988ブリスベン技術時代のレジャー
1990大阪花と緑と生活の関わりを捉え、21世紀へ向けて潤いのある社会の創造を目指す 園芸博
1992セビリア発見の時代
1992ジェノアクリストファー・コロンブスー船と海
1993テジョン発展のための新しい道への挑戦
1998リスボン海洋ー未来への遺産

1984年のニュー万博では、初めて公式マスコット「シーモア(セイモア)・D・フェアが登場し、着ぐるみステッカーマスコットが会を盛り上げました。

2000年代に入っても、テーマの設定とマスコットが活躍する中、万博は世界各地で開催されていますが課題も見え始めます。課題については次の章でふれていきます。

日本と万博

万博の歴史を「日本と万博」という視点で深堀りしてみましょう。日本が世界の中で奮闘している様子が見えてきます。

初めての参加:1967年パリ万博

日本が初めて万博に参加したのは、1967年パリ万博でした。幕末であり、幕府および薩摩藩と佐賀(鍋島)藩が参加しました。

それ以前から、万博の情報はオランダを通して入っており、1862年のロンドン万博には、遣欧使節団が視察したり、イギリスの駐日大使が日本で収集した品々を出品したりしており、参加への動きが加速されていたことが分かります。

それと同時に、幕府以外の藩の参加もあり、幕末から明治にかけての不安定な世情もうかがえます。

出品された浮世絵はパリで人気を博し、「ジャポニズム」を画壇に広めるきっかけとなりました。一方で日本の参加者は、水圧式エレベーターなどの近代技術に目を見張り、世界との工業技術との差を実感することになりました。

日本政府としての初参加:1873年ウィーン万博

初めて日本政府として公式参加したのは、1873年ウィーン万博です。

浮世絵だけでなく、日本の工芸品やパビリオンで見られた建築技術は、参加各国から高い評価を受け、現代も引き継がれている「技術立国」としての日本の礎がまず工芸・建築の領域で発揮されたと言えそうです。

日本での初開催:1970年大阪万博

ウィーン万博初参加以来、日本は多くの万博に出展してきました。国内博覧会も開催されるようになり、自国での万博開催の機運は高まっていきました。しかし数々の戦争の影響もあって実現できずにいました。初めて開催国となったのは1970年大阪万博、アジア初の開催でもありました。

<1970年大阪万博基本データ>

会 場日本・大阪
開催期間1970年 3月15日~9月13日 183日間
参加国76か国 4国際機関 116展示館
テーマ人類の進歩と調和
入場者数約6,400万人

日本は世界の仲間入りを目指し、早くから万博の開催を望んできました。この大阪万博の40年前1940年にも「紀元2600年記念万博」を企画していました。しかし日中戦争の影響で「幻の万博」となってしまっていたのです。

念願の開催となり、太陽の塔(上の画像)や月の石動く歩道リニアモーターカー等、高度成長の集大成とも言える多くの展示・イベントを実施したものとなりました。

2005年には愛知でも開催されました。「自然の叡智」をテーマとした「愛知万博:愛・地球博」です。

テーマに見られるように、2000年代に入ってからの万博は、技術や製品の披露から社会の課題解決を目指す場に変化していきました。環境問題に焦点を当てた愛知万博は、その流れを象徴するものでした。

大阪万博の反響

先ごろ閉幕した「大阪万博2025」は最新の万博です。公式マスコット「ミャクミャク」や「大屋根リング」が話題を集めました。反響を振り返り整理してみましょう。

まず基本データから確認してみます。

<2025年大阪・関西万博基本データ>

会 場日本・大阪 (人口島での開催)
開催期間2025年年 4月13日~10月13日 184日間
参加国158か国・地域 7国際機関
テーマいのち輝く未来社会ののデザイン<サブテーマ>・いのちをつなぐ  ・いのちを救う  ・いのちに力を与える
入場者数約2,902万人

データからは、1970年の大阪万博と比べて、開催期間はほぼ同じであるのに、

  • 参加国は大幅増
  • 入場者数は大幅限

といった違いが目に入ります。

2025年大阪万博の反響を、効果と問題点そしてその克服法などの視点から整理していきましょう。

当初の逆風

参加国は日本開催史上最多を記録しましたが、開催前にはパビリオン建設が遅れる国や、費用負担に問題を抱える国などがあり、開催を不安視する報道もあったほどでした。

何とか開催にこぎつけても、当初は入場者数は伸び悩んでいました。

  • 入場チケット入手の複雑さ
  • 会場内のキャッシュレス・システムになじめない
  • 狭い会場での混雑と暑さ
  • キャラクターの姿と意味が分かりにくい

などが原因と言われています。

たくさんの入場者が見込めなければ、赤字を生んでしまいます。万博の総費用は、国と大阪府市・経済界で賄う予定でしたが、会場設置費用は円安の影響も大きく、計画スタート時より大幅に増やさざるを得なくなり「運営し続けられないのでは」という「逆風」が吹いていました。

入場者数目標達成

しかし、ふたを開けて見ると、入場者数は目標の2,820万人を上回る2,900万人という結果となりました。

逆風を跳ね返せた要因はいくつか考えられますが、

  • SNSを利用したチケット販売戦略及び修正
  • イベントやサービスの工夫
  • インバウンド来場者が多かった
  • 関係者をカウント

などが挙げられます。

ブルーインパルスのパフォーマンスや花火などのイベント開催日は特に入場者数が多かったことがグラフからも見てとれます。また、円安が進み外国からの来場者が多かったことも要因となっています。

経済効果は?

入場者数が多いということは、チケットの売り上げに留まらず、会場内での飲食を始めとする消費も増えることに繋がっています。最終的に230億円を超える額となりました。

SNSを通してのチケット販売はこれまでより経費を抑えることに繋がり、イベント内容の工夫やきめ細かなサービスは、リピーターを増やしました。外国からの来場者が多いということは、空港や宿泊施設での消費活動もあり万博の収支以外の収益も増えたことが考えられます。

1970年の大阪万博に比べて入場者こそ及びませんが、黒字規模は当時の2倍近くになり、大きな経済効果がもたらされたといえるでしょう。

残された課題:どうなる大屋根リング?

内容を随時修正・工夫し、物価高騰や人手不足を克服しながら結果的に「経済効果があった」とされる2025年大阪万博です。その経済効果が国民に実感できるような形にできるかが、今後の大きな課題です。

1870年大阪万博の象徴ともなった太陽の塔は、今でも「万博記念公園」として利用されています。

国・大阪府市は委員会を起ち上げ、大屋根リングの保全と活用について審議しています。パビリオンなど他の施設のリユースも検討されています。活用しやすくするための改修費用もかかります。万博開催の負の反響を生まないよう、経済効果を長く実感できる活用が望まれます。

<大屋根リングの活用に関する検討会当時に検討していた残置場所>

万博とSDGs

最後に2025年大阪万博とSDGsとの関わりをお話しします。

SDGs目標17「パートナーシップで目標を達成しよう」との関わり

国連が掲げるSDGsの目標達成年は2030年、あと5年です。国際博覧会協会は、2025年大阪万博を「SDGsを2030年までに達成するためのプラットホーム」と位置付けています。これは、広い領域・視野で各目標の実現を目指そうとするもので、目標17「パートナーシップで目標を実現しよう」を具現化するものです。

特に参加国の交流は投資の拡大にもつながり、二次的な経済効果も生むことが期待されます。

SDGs目標8「産業と技術革新の基盤をつくろう」との関わり

2025年大阪万博では、IoT、AI などのテクノロジーによって地球規模の課題が解決される社会の実現を目標に挙げられていました。

テクノロジーの開発は、今回ばかりではなく初期の万博から披露されてきたもので、歴代の万博は、産業と技術の革新を発信し続けてきたと言えます。エッフェル塔を始め各時代の新しい技術を象徴する施設やシステムは、今でも私たちに今後を見つめる後押しをしてくれています。

>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

出典:Expo 2030 Riyadh

万博の歴史について時代を区切って解説してきました。さらに大阪万博の反響やSDGsとの関わりもまとめてきました。

科学技術の披露会が、国内から世界へと舞台を移し、人類の課題を解決するための方法を提案する意図が加わってきたことがご理解いただけたのではないでしょうか。

地球温暖化、人口と食糧、科学の発展と暮らし・・・等々、グローバルに取り組まなければならない人類です。万博をどのように位置づけるかは、今後も注視すべきこととなるでしょう。次回は2030年リヤドです。よりよい開催になるよう期待しつつ見守っていきましょう。

<参考資料・文献>
*1) 万博とは
大屋根リング | EXPO 2025 大阪・関西万博公式Webサイト
加盟国
国際博覧会条約
国際博覧会局
万国博覧会について
*2) 万博の歴史
万国博覧会
過去の万国博覧会
エキスポ1851 ロンドン
1900年第5回パリ万博 <動く歩道>(国立国会図書館)
セイモア・D・フェア – ウィキペディア
Who is Seymore D’Fair? — Seymore’s Foundation
【日本館HISTORY -前編-】世界とつながる。世界に伝える。「万博と日本」、158年の歩み丨大阪・関西万博 日本館公式サイト
日本庭園・神社(標準画像) | 博覧会―近代技術の展示場
L. Edouxの水圧式エレベータ(標準画像) | 博覧会―近代技術の展示場
万国博覧会【万博】の歴史と日本の博覧会
*3) 大阪万博の反響
EXPO 2025 大阪・関西万博公式Webサイト
2025年日本国際博覧会 – Wikipedia
大阪万博:数字で見る大阪・関西万博…来場者数・外国人の割合・中央線の利用、どれも想定外の結果に : 読売新聞
大阪万博:動くグラフでみる大阪万博1000万人への道…花火やブルーインパルスで伸び : 読売新聞
2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)/大阪府(おおさかふ)ホームページ [Osaka Prefectural Government]
大阪・関西万博(METI/経済産業省)
大阪・関西万博2025特設ページ | 環境省
2025年日本国際博覧会 – Wikipedia
大阪万博入場者数最終発表と2900万人突破の全記録 – expo2025-osaka-japan.jp
日本国際博覧会協会臨時理事会会議資料
*4) 万博とSDGs
SDGs:蟹江憲史(中公新書)
開催目的 | EXPO 2025 大阪・関西万博公式Webサイト
*5) まとめ
Expo 2030 Riyadh

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この記事を書いた人

くりきんとん ライター

教師・介護士を経た、古希間近のバァちゃん新米ライターです。大好きなのはお酒と旅。いくつになっても視野を広めていきたいです。

教師・介護士を経た、古希間近のバァちゃん新米ライターです。大好きなのはお酒と旅。いくつになっても視野を広めていきたいです。

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