
伊藤博文と聞くと、「初代内閣総理大臣」「明治憲法をつくった人」という堅いイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。日本の近代化を語るうえで欠かせない存在であることは、教科書でも強調されています。
しかし、その歩みは決して順風満帆なものではありませんでした。長州藩の下級武士として生まれ、若い頃は尊王攘夷の過激な行動に身を投じ、命の危険と隣り合わせの日々を送っていたのです。
転機となったのがイギリス留学でした。近代国家の制度や社会のあり方を目の当たりにした伊藤は、武力ではなく制度で国を動かす重要性に気づき、政治家としての道を大きく切り開いていきます。
初代内閣総理大臣として内閣制度を整え、大日本帝国憲法の制定を主導した伊藤博文。その生涯をたどることで、日本が近代国家へと歩み出した過程と、時代を動かした人物の決断と成長が見えてくるはずです。
目次
伊藤博文とは

伊藤博文は、明治時代に日本の政治の仕組みを整えた中心人物で、初代内閣総理大臣として近代国家の土台を築いた政治家です。1841年、周防国(山口県南東部)に生まれ、下級武士の家で育ちました。
若いころは吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に参加しますが、イギリス留学を通して欧米の進んだ社会制度を知り、日本にも近代的な政治の仕組みが必要だと考えるようになります。
明治維新後は、大蔵省や工部省、内務省などで重要な役割を担い、産業の育成や国づくりを進めました。1885年には日本で初めて内閣総理大臣に就任し、内閣制度を確立するとともに、大日本帝国憲法の制定を主導します。
さらに立憲政友会を結成し、政党による政治への道を開きました。晩年は元老として国政に影響力を持ち続けましたが、1909年、ハルビンで暗殺され、その生涯を閉じました。
*1)
伊藤博文の一生
ここでは、伊藤博文の一生を年表形式でまとめます。
| 年代 | できごと |
| 1841年 | 周防国(山口県南東部)で生まれる |
| 1857年 | 松下村塾に入り吉田松陰に学ぶ |
| 1863年 | 高杉晋作に従いイギリス公使館の焼き討ちを実行 |
| 同年 | イギリスに留学 |
| 1865年 | 高杉晋作のクーデタ(功山寺挙兵)に参加 |
| 1871年 | 岩倉使節団に参加 |
| 1885年 | 初代内閣総理大臣となる |
| 1889年 | 大日本帝国憲法の発布 |
| 1894年 | 日清戦争 |
| 1904年 | 日露戦争 |
| 1905年 | 韓国に統監府を設置 →伊藤博文が初代統監となる |
| 1909年 | 中国の黒竜江省にあるハルビンの駅で暗殺される |
松下村塾で学ぶ
伊藤博文が松下村塾で学んだのは、書物の知識以上に、国の行く末を自分の問題として考え行動する姿勢でした。松下村塾は、身分に関係なく下級武士の子弟が集まり、吉田松陰のもとで激しい議論を重ねる場でした。
伊藤博文は1857年に入塾し、人と人をつなぎ物事を動かす力(周旋力)があるとして、松陰から将来性を高く評価されます。松下村塾で培われた精神こそが、伊藤博文を近代日本の政治を担う人物へ成長させたといえるでしょう。
*3)*4)
若い頃は尊王攘夷運動の志士として活動
伊藤博文は、若き日に高杉晋作とともに尊王攘夷運動の志士として行動しました。長州藩の下級武士の出身で、松下村塾で学んだ伊藤は、高杉晋作らと思想を共有し、外国勢力を排し天皇を中心とする政治を実現しようと考えるようになります。*5)
1863年、伊藤は高杉や久坂玄瑞、井上馨らとともに、江戸・品川御殿山で建設中だったイギリス公使館を焼き討ちする行動に加わりました。この事件は、尊王攘夷派の強い決意を示すものであり、幕府が抱えていた外交と国内政治の矛盾を一気に表面化させました。*6)
イギリス留学で近代国家のしくみを知る
伊藤博文は、イギリス留学を通じて近代国家のしくみを現実として学びました。1863年、22歳のとき、長州藩の留学生として井上馨らとともに渡英します。上海を経由して約4か月をかけてロンドンに到着した伊藤は、懸命に英語を学び、短期間で日常会話や手紙が書けるほどの語学力を身につけました。
伊藤が現地で目にしたのは、産業や軍事、政治制度が整った近代国家の姿でした。伊藤はこの経験から、「外国と戦っても当時の日本は太刀打ちできない」と痛感します。そんな折、長州藩が外国船を砲撃したことを知り、無謀な戦争を止めるため急ぎ帰国しました。
帰国後、長州藩は列強の四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊に敗れますが、伊藤はその講和交渉で通訳を務め、国際交渉の最前線に立ちます。イギリス留学で得た現実的な視点は、尊王攘夷から開国・近代化へと考えを転換させ、のちに日本の近代国家づくりを担う原点となりました。
高杉晋作のクーデタに参加
伊藤博文は、幕府による長州征伐に対抗するため、高杉晋作が主導したクーデタ、いわゆる功山寺決起に参加しました。1864年末から1865年初めにかけて、長州藩では幕府に屈して恭順する方針が強まりましたが、これに強く反発したのが高杉晋作でした。高杉は下関で挙兵し、奇兵隊などの諸隊を率いて藩内の主導権を奪回しました。*7)
伊藤博文もこの動きに加わり、高杉晋作らとともに行動しました。伊藤はイギリス留学を経験しており、外国勢力と再び衝突すれば長州藩が大きな打撃を受けることを理解していました。そのため、幕府に従うだけではなく、藩の体制を立て直した上で主体的に進路を決める必要があると考えていたのです。*5)
功山寺決起の成功により、長州藩は再び倒幕路線へと転じました。この経験は、伊藤博文が政治の現場で実力と決断の重要性を学ぶ大きな転機となりました。
明治天皇に深く信頼された
明治維新後、伊藤博文は、数ある政治家の中でも、明治天皇から特別に深い信任を受けた存在でした。伊藤が参内すると、天皇は椅子を与え、自らもくつろいだ様子で率直に意見を交わしたと伝えられています。明治天皇の御前で椅子に座ることを許されたのは伊藤らごく少数であり、その信頼の厚さがうかがえます。
日露戦争後、講和会議の全権委員として伊藤を派遣する案が出た際も、天皇は「重大な相談相手を失う」としてこれを許さず、伊藤を身近に留めました。
また、宮内大臣との意見対立が生じた場面では、「伊藤の意見を聞け」と判断を委ねています。伊藤は、理屈よりも天皇の御心を尊重すべきだと助言し、その姿勢に天皇は「さすがに伊藤はよくわかる」と深く満足されたといいます。*8)
伊藤博文が行ったこと

伊藤博文は、日本の近代国家づくりの中心人物として、政治制度の確立から外交・政党政治まで幅広く関わりました。ここでは、初代内閣総理大臣としての役割や憲法制定など、具体的な功績を整理して紹介します。
初代内閣総理大臣となった
1885年、日本ではそれまでの太政官制に代わり、国の行政を統括する新しい仕組みとして内閣制度が創設されました。これは近代国家として政治の責任体制を明確にするための改革であり、その中心となったのが伊藤博文です。*9)
伊藤は、欧米諸国の政治制度を調査した経験を踏まえ、行政の最高機関を内閣として一本化し、総理大臣を中心に各大臣が職務を分担する体制を整えました。これにより、天皇のもとで政治を担う行政府としての役割が明確になり、宮中と政府の区別もはっきりします。
内閣制度の発足と同時に、伊藤は初代内閣総理大臣に就任しました。これは単なる人事ではなく、彼自身が制度設計を主導し、その運用を担ったことを意味します。伊藤博文は、内閣制度を通じて日本の近代政治の土台を築いた人物だといえるでしょう。
大日本帝国憲法制定を主導した
大日本帝国憲法の制定は、明治政府が自由民権運動の高まりに直面する中で進められました。当初は元老院を中心に憲法草案づくりが行われましたが、民主的色彩の強い案は政府首脳の反対で採用されず、方向性は定まりませんでした。こうした状況を受け、憲法制定を主導する役割を担ったのが伊藤博文です。
伊藤は憲法の最終的な形を探るためにヨーロッパへ渡り、ドイツでプロイセン憲法を中心に立憲君主制を研究しました。帰国後は井上毅や金子堅太郎らとともに、天皇の権限を強く位置づけた憲法草案を秘密裏に作成します。
こうして1889年に発布された大日本帝国憲法は、伊藤博文が構想し、調整し、まとめ上げたものでした。彼は憲法制定の中心人物として、日本の近代国家体制の骨格を築いたのです。*11)
日清戦争・日露戦争に関与した
伊藤博文は、日清戦争・日露戦争の局面で日本の進路に深く関わった政治家です。1894年、第2次伊藤内閣の時代に日清戦争が勃発すると、日本は戦いを優位に進め、翌年に下関で講和会議が開かれました。
この講和会議で、日本側の全権代表を務めたのが伊藤博文と陸奥宗光です。下関条約によって、日本は台湾や澎湖諸島を獲得し、多額の賠償金を得ました。*5)
しかし戦後、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が行われ、伊藤は国力差を冷静に判断し、遼東半島を返還する決断を受け入れました。この出来事は国内でロシアへの反感を強め、日露対立が激化するきっかけとなります。
その後、伊藤は国力差のあるロシアとの戦争回避を目指して交渉に動きますが、交渉は成功せず、日本では主戦論が強まりました。伊藤博文は、戦争と外交のはざまで国の将来を見据えた判断を重ねた人物だったといえます。*12)
立憲政友会をつくった
伊藤博文は、政治を安定させるために政党と政府を結びつける必要があると考え、1900年に立憲政友会を結成しました。立憲政友会は、憲政党と伊藤系の官僚が合流して生まれた政党で、伊藤博文が初代総裁を務めました。
当時は、政府を動かす藩閥と、国会で力を持つ政党が激しく対立していましたが、伊藤は対立を続けるよりも協力する道を選びます。政党と手を組むことで、国会の支持を得ながら政治を進めようとしたのです。
その結果、立憲政友会を基盤とする内閣が誕生し、政党が内閣を支える体制が整いました。
伊藤博文とSDGs

世間一般ではあまり広く知られていないかもしれませんが、伊藤博文は女子教育に力を入れたことでも有名です。ここでは、伊藤博文とSDGs目標4「質の高い教育をみんなに」との関わりについて解説します。
SDGs目標4「質の高い教育をみんなに」との関わり
SDGs目標4「質の高い教育をみんなに」は、すべての人が公平に質の高い教育を受けられる社会を目指す目標です。この考え方は、明治時代に伊藤博文が取り組んだ女子教育の推進とも深く結びついています。
伊藤博文は1886年、女子高等教育の必要性を強く感じ、「女子教育奨励会」の創立委員長となりました。当時の日本では、女性が高等教育を受ける機会は限られていましたが、伊藤は近代国家を築くためには、男性だけでなく女性の教育も不可欠だと考えていました。その思いは、1888年に設立された東京女学館に結実します。
東京女学館は、欧米の女性と対等に交際できる教養と国際性を備えた女性の育成を目的とし、知性と品性を重んじる教育を行ってきました。
性別による教育格差を是正し、社会に貢献できる人材を育てようとした伊藤博文の姿勢は、まさにSDGs目標4が掲げる「質の高い教育をみんなに」という教育の先駆けといえるでしょう。
>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから
まとめ
伊藤博文は、激動の幕末から明治にかけて日本の近代化を主導した政治家です。松下村塾で培った行動力をもとに尊王攘夷運動に身を投じ、イギリス留学を経て制度による国づくりの重要性に目覚めました。
明治維新後は内閣制度を創設して初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の制定を主導します。さらに外交や政党政治にも関与し、日本の政治基盤を整えました。
また、女子教育の推進にも力を注ぎ、その姿勢はSDGs目標4「質の高い教育をみんなに」に通じます。伊藤博文の生涯は、日本が近代国家へ歩む過程そのものを映し出しています。
参考
*1)山川 日本史小辞典 改定新版「伊藤博文」
*2)国立国会図書館「伊藤 博文(いとう ひろぶみ) | 人物編 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」
*3)萩市観光協会公式サイト「伊藤博文旧宅」
*4)百科事典マイペディア「松下村塾」
*5)改定新版 世界大百科全書「伊藤博文」
*6)改定新版 世界大百科全書「イギリス公使館焼打事件」
*7)改定新版 世界大百科事典「長州征伐」
*8)明治神宮「ご逸話であおぐ」
*9)旺文社日本史事典「内閣制度」
*10)改定新版 世界史大百科事典「宮中」
*11)日本大百科全書(ニッポニカ)「大日本帝国憲法」
*12)防衛研究所「日露戦争と日本外交」
*13)日本大百科全書「立憲政友会」
*14)東京女学館 中学 高等学校「歴史と伝統」
この記事を書いた人
馬場正裕 ライター
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。
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