ミドハト憲法とは?歴史や特徴、停止・復活理由も

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ヨーロッパとアジアにまたがり、かつてはウィーンを包囲するほどの強さを持っていたオスマン帝国。しかし19世紀になると、ロシアをはじめとする周辺国からの圧力を受け、少しずつ領土と国力を失っていきました。

クリミア戦争ではイギリスやフランスの助けを得て勝利したものの、国の衰えははっきりしていました。こうした危機を乗りこえ、国を立て直すために進められた近代化改革の総仕上げとして生まれたのが「ミドハト憲法」です。

アジアで初めての近代的な憲法でありながら、わずか2年で止められ、その後に復活するという特異な道をたどりました。なぜ、こんなに短期間で停止されたにもかかわらず、後に復活したのでしょうか。

この記事では、ミドハト憲法とは何か、その特徴や歴史、なぜ停止され、なぜ再び動き出したのかをわかりやすく紹介します。

ミドハト憲法とは

ミドハト憲法とは、1876年12月にオスマン帝国で発布された憲法の通称です。正式名はカーヌーニ・エサーシーといい、改革派政治家のミドハト・パシャが中心となって起草しました。

この憲法は、オスマン帝国が近代的な法に基づく国家であることを内外に示す目的で作られました。内容には、個人の自由を守る考え方や、議会を設けて政治を行う仕組みなどが取り入れられています。

専制的な政治から脱し、立憲国家へ進もうとした点で、ミドハト憲法は大きな意味を持つ存在でした。*1)

制定者のミドハトはどんな人?

ミドハトは、19世紀後半のオスマン帝国で活躍した改革派の官僚です。ブルガリア地方の出身で、1860年代には地方の政治をまかされ、財政や治安を立て直す力を発揮しました。

当時のオスマン帝国では近代化は進められていましたが、自由や憲法にもとづく政治には消極的でした。ミドハトは、こうした政治のあり方に強い疑問を持ち、改革を求める若い官僚たちの中心人物として活躍します。

1876年にはアブデュルハミト2世を新しい皇帝(スルタン)として支え、自身は国のトップである大宰相に就きました。そして、立憲政治を目指すミドハト憲法の制定を進めます。

しかし、露土戦争が始まると、皇帝から危険な存在と見なされ、都を追われてしまいました。ミドハトは流刑先のメッカ近くで、1881年に命を落としています。

アブデュルハミト2世

19世紀後半のオスマン帝国を統治した第34代スルタン。1876年、列強からの圧力と国内の立憲運動の高まりを受け、ミドハト・パシャを宰相に任じてミドハト憲法を制定した。しかし1878年、露土戦争を理由に憲政を停止した。その後約30年にわたり専制体制を続けた。*2)

ミドハト憲法の特徴

ミドハト憲法には、当時としては新しい考え方が多く取り入れられていました。ここでは、その中でも特に重要な三つの特徴を整理します。

  • アジアで初めて制定された近代的な憲法
  • 立憲君主制を採用しつつ、皇帝に強い権限が残された点
  • 宗教のちがいに関わらず、法の下の平等を定めた点

これらの点から、ミドハト憲法が近代的な統治を目指した憲法であったことが分かります。

アジア初の近代的な憲法

ミドハト憲法は、1876年にオスマン帝国で制定された、アジアで最も早い時期の近代的な憲法です。日本で大日本帝国憲法が発布されたのは1889年であり、それと比べると十年以上も早く作られました。また、同じ時代のロシア帝国では、帝政が終わるまで本格的な憲法は定められていませんでした。

このような国際的な状況をふまえると、ミドハト憲法は当時としてはかなり先進的な取り組みだったといえます。専制的な政治が当たり前だったアジアの中で、議会制度や人びとの権利を法律として定めた点は、近代国家を目指す大きな試みでした。

立憲君主制だが皇帝に強い権限

ミドハト憲法は、議会を置く立憲君主制を定めた憲法ですが、その内容を見ると皇帝(スルタン)の権限が非常に強く保たれていました。ここでは、条文にもとづいて「皇帝に強い権限が与えられていた点」を整理します。

  • 皇帝の元首・カリフとしての地位(第4条)
  • 皇帝の神聖不可侵と無答責(第5条)
  • 国政全般に及ぶ皇帝大権(第7条)
  • 議会の召集・解散権(第7条)

まず第4条では、皇帝は全臣民の元首であると同時に、イスラーム教の最高指導者であるカリフの地位を持つと定められています。これにより、政治と宗教の両面で最高の権威を持つ存在とされました。

第5条では、皇帝の身体は神聖であり、責任を問われないと規定されています。このため、皇帝の行為は法的に追及されず、制度上も強く守られていました。

第7条では、国務大臣の任免、法律の裁可、軍の統率、宣戦や講和など、国の中枢に関わる権限が皇帝の大権として列挙されています。政治の最終決定権は皇帝に集中していました。

さらに同じ第7条で、皇帝は議会を召集し、必要に応じて停会や解散を行う権利を持つとされています。そのため、議会が存在していても、その活動は皇帝の判断に大きく左右される仕組みでした。

このようにミドハト憲法は立憲君主制を掲げながらも、実態としては皇帝の権限が非常に強い憲法だったといえます。*3)

宗教の違いに関わらず平等

ミドハト憲法では、宗教のちがいによって人びとを区別しないという考え方が、条文の中ではっきりと示されました。

第8条では、オスマン帝国の国籍を持つ者は、信仰している宗教に関係なく、すべて「オスマン人」と呼ばれると定められています。これは、イスラーム教徒だけでなく、キリスト教徒やユダヤ教徒も同じ国民として扱うという意味でした。

さらに第17条では、宗教に関する事項を除き、すべてのオスマン人は法の下で平等であり、国に対する権利と義務も同じであるとされています。

多くの宗教と民族が共存していたオスマン帝国において、宗教による不平等をなくし、近代的な国家を目指した点は、ミドハト憲法の大きな特徴といえます。

ミドハト憲法の歴史

ミドハト憲法は、なぜ制定されたのでしょうか。背景には、ヨーロッパ列強からの強い圧力や、国を立て直すために進められた近代化改革がありました。オスマン帝国は、近代国家として生き残る道を模索する中で、憲法制定という選択に向かっていきます。

ヨーロッパ列強による圧力

ミドハト憲法が作られた背景には、ヨーロッパ列強からの強い圧力によって、オスマン帝国が大きな危機に直面していたことがあります。17世紀までは広い領土を持つ大帝国でしたが、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗をきっかけに、少しずつ力を失います。

18世紀以降は、ロシアやオーストリアなどの国々からたびたび攻められ、領土も次第に減りました。19世紀にはギリシア独立戦争に列強が介入し、帝国内の問題が国際的な問題となります。

その中で、オスマン帝国の近代化の遅れが目立ちました。このような状況の中で、オスマン帝国は、専制的な国ではなく、法と制度を持つ近代国家であることを外に示す必要に迫られました。ミドハト憲法は、国の信頼を取り戻す手段として制定が進められたのです。*4)

タンジマート(恩恵改革)の推進

ミドハト憲法は、タンジマートの集大成としての意味を持ちます。タンジマートとは、19世紀のオスマン帝国が国を立て直すために進めた一連の改革と、その時代を指します。

1839年に出されたギュルハネ勅令をきっかけに、国は大きな改革へと動き出しました。この改革では、宗教のちがいに関わらず人びとを法の下で平等に扱うことがうたわれ、西ヨーロッパの国を手本に、政治や裁判、軍、教育のしくみが改められました。

しかし、古い体制を守ろうとする人びとの反対や、戦争による財政の悪化、列強の干渉によって改革は思うように進みませんでした。こうした流れの中で、改革のまとめとして制定されたのがミドハト憲法です。*5)

ミドハト憲法が停止された理由

アジアで初の憲法であり、先進的な試みでもあったミドハト憲法は、わずか2年で停止されてしまいます。その口実となったのがロシアとの戦争である露土戦争でした。ここでは、露土戦争と戦争に伴う憲法停止・議会解散について解説します。

露土戦争の始まり

露土戦争とは、ロシアとオスマン帝国の間で18世紀から19世紀にかけて何度もくり返された戦争のことです。ロシアは南へ進出するため、長い間オスマン帝国に圧力をかけてきました。

ミドハト憲法の運命に大きく関わったのは、1877年に始まった露土戦争です。この戦争は、バルカン地方で起きた反乱をロシアが支援したことをきっかけに始まりました。戦争がはじまると皇帝アブデュルハミト2世はミドハトを追放してしまいました。*6)

皇帝がミドハト追放の口実としたのが、憲法に規定されていた国益に反する人物を追放できる規定でした。戦いはオスマン帝国にとって厳しいものとなり、最終的にオスマン帝国の敗戦で終結します。

ミドハト憲法の停止と議会の解散

ミドハトを追い出した皇帝アブデュルハミト2世は、ミドハト憲法によって作られた議会が、自分の政治を批判するのではないかと強く警戒していました。そのため1878年2月、議会を解散し、ミドハト憲法も止めてしまいます。

その後、オスマン帝国ではアブデュルハミト2世が一人で権力を握る政治が続き、こうした専制的な政治は約30年にわたって行われました。

ミドハト憲法が復活した理由

ミドハト憲法の停止から30年後の1908年、停止された憲法が息を吹き返しました。なぜ、一旦停止された憲法が復活できたのでしょうか。ここでは、復活の理由となった青年トルコ革命について解説します。

青年トルコ革命が起きたから

ミドハト憲法が復活した理由は、青年トルコが「専制政治こそがオスマン帝国衰退の原因」と考え、立憲政治による国の立て直しを目指したからです。

19世紀末のオスマン帝国では、皇帝アブデュルハミト2世による専制政治が長く続き、列強からの圧力や国内の不満が強まっていました。青年トルコは、この状況を打開するには、皇帝の権力を制限し、議会を中心とした政治に戻る必要があると考えました。そのため、すでに存在していたミドハト憲法を復活させることが最も現実的な方法だったのです。

青年トルコとは、タンジマート期の世俗教育を受け、西ヨーロッパの自由主義や立憲主義の影響を受けた若い知識人や軍人たちの集団です。1908年、エンヴェルら青年将校が反乱を起こし、皇帝にミドハト憲法の復活を認めさせたことで、議会政治が再開されました。

つまり、青年トルコは帝国を再生させる手段として立憲政治を選び、その具体的なよりどころとしてミドハト憲法を復活させたのです。*7)*8)

ミドハト憲法が世界に与えた影響

ミドハト憲法はアジア発であるだけではなく、イスラム圏でも初の近代的憲法です。憲法制定はイスラム世界にどのような影響を与えたのでしょうか。詳しく見てみましょう。

イスラム世界で初の近代的憲法

ミドハト憲法は、1876年に制定されたイスラム世界で初めての近代的な憲法です。この憲法は、国家の政治のしくみを文章で明確に定め、皇帝(スルタン)の権力を憲法によって制限しました。

また、議会制度を設け、人びとの権利を法律として示した点も大きな特徴です。これらは近代憲法に欠かせない要素であり、イスラム国家として初めて本格的に取り入れられました。

それ以前のイスラム世界では、政治は主にイスラム法や君主の命令によって行われ、近代的な憲法は存在していませんでした。ミドハト憲法は、イスラム法を国の土台としながらも、西ヨーロッパの立憲主義を制度として取り入れた点で、非常に画期的な試みだったといえます。

青年トルコ革命やムスタファ・ケマルの改革につながる

ミドハト憲法の制定は、その後の青年トルコ革命ムスタファ・ケマルの改革へとつながる重要な意味を持っていました。ミドハト憲法は、皇帝の専制をおさえ、議会を中心とする立憲政治を目指した最初の試みでした。

この経験は、専制政治に不満を持つ若い知識人や軍人たちに受け継がれ、帝国再建の手がかりとされます。彼らは「青年トルコ」と呼ばれ、1908年の青年トルコ革命によって憲法を復活させました。

この立憲主義の流れは、帝国崩壊後に登場したムスタファ・ケマルに引き継がれ、共和制の確立や世俗化などの改革へと発展していきます。ミドハト憲法は、近代トルコ国家形成の思想的な土台となったのです。*8)*9)

ミドハト憲法とSDGs

ミドハト憲法は19世紀に作られた憲法ですが、その考え方は現代のSDGsとも重なります。特に、法の支配や公正な政治を目指した点は、SDGs目標16「平和と公正」と深く関わっています。

SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」との関わり

ミドハト憲法は、SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」と深く関わっています。目標16は、法の支配を確立し、公正で説明責任のある制度をつくることを重視していますが、ミドハト憲法も同じ考え方を19世紀に示していました。

皇帝の権力を憲法で制限し、議会を設けた点は、権力の集中を防ごうとする試みでした。また、宗教のちがいに関わらず法の下での平等を定めたことは、だれ一人取り残さない社会を目指すSDGsの理念と重なります。

ミドハト憲法そのものは短命に終わりましたが、公正な政治を制度で実現しようとした点は、現代のSDGsにも通じる重要な考え方といえます。

>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

今回はミドハト憲法について解説しました。ミドハト憲法は、19世紀後半に衰退の危機にあったオスマン帝国が、近代国家として生き残るために制定したアジア初・イスラム世界初の近代的な憲法です。立憲君主制や法の下の平等といった先進的な考え方を取り入れましたが、露土戦争をきっかけにわずか2年で停止されました。

しかしその理念は消えず、青年トルコ革命によって復活し、のちのムスタファ・ケマルの改革へと受け継がれていきます。また、法の支配や公正な制度を重視する点は、現代のSDGs目標16にも通じています。

短命に終わった憲法でありながら、ミドハト憲法は世界史の中で大きな意味を持つ存在だったといえるでしょう。

参考
*1)山川 世界史小辞典 改定新版「ミドハト憲法
*2)山川 世界史小辞典 改定新版「アブデュルハミト2世
*3)東洋文庫リポジトリ「〔全訳〕オスマン帝国憲法
*4)旺文社世界史事典 三訂版「オスマン帝国
*5)山川 世界史小辞典 改定新版「タンジマート
*6)山川 世界史小辞典 改定新版「ロシアトルコ戦争
*7)山川 世界史小辞典 改定新版「青年トルコ人革命
*8)旺文社世界史事典 三訂版「青年トルコ
*9)日本大百科全書(ニッポニカ)「ケマル・アタチュルク
*10)

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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