弥生時代の特徴をわかりやすく解説!暮らしについても

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「米」が日本人の暮らしを一変させた時代があったことをご存じですか?それが弥生時代です。縄文の狩猟生活から農耕社会へと大転換した約2300年前、日本列島に稲作がもたらされ、人々の生活様式は劇的に変化しました。水田のそばに定住し、共同作業で稲を育てる文化が根付いていったのです。

しかし、農耕の発展は新たな課題も生み出しました。食料の安定確保は人口増加を促し、土地や水をめぐる争いが発生。次第に小さな集落同士が結びつき、やがて首長を中心とした「クニ」と呼ばれる政治単位が誕生していきます。

弥生人の「必要なものだけを作り、資源を無駄にしない」という生活哲学は、現代のSDGsの理念と重なる部分があります。彼らの知恵は2000年以上の時を超えて、持続可能な社会を模索する私たちへのヒントを投げかけているのかもしれません。

弥生時代とは?

弥生時代とは、弥生土器が使用された紀元前3世紀~紀元後3世紀までを指す時代区分です。鉄器や青銅器などの金属器や、石包丁などの石器が使用されました。*1)

弥生文化の特徴

弥生時代の特徴は、以下の3点です。

  • 稲作の始まりと技術の発展
  • 社会の仕組みの変化
  • 日本列島の大部分に広がった

弥生時代は、稲作を中心とした農業が日本に広まった時代です。中国や朝鮮から伝わった鉄や青銅でできた道具(金属器)が使われるようになり、布を織る技術も発達しました。

このような生活の変化に伴い、集落のリーダーが現れ、やがて小さな国のような組織ができ始めました。

最初に九州北部で始まったこの文化は、徐々に東へと広がっていき、日本各地(北海道を除く)に定着しました。地域によって独自の文化が発展し、土器の模様や形にも違いが見られるようになりました。*2)

中国の歴史書に記録された弥生時代の日本

弥生時代の日本では、まだ文字が使用されていませんでした。そのため、中国の歴史書で書かれた内容が参考となります。弥生時代の日本について記録した中国の歴史書は以下の3つです。

  • 『漢書』地理志
  • 『後漢書』東夷伝
  • 『魏志』倭人伝

『漢書』地理志では、日本(倭国)は100余りの小国に分かれていたと書かれています。『後漢書』東夷伝では、紀元後57年に倭の奴国の王が後漢に使者を送り、「漢委奴国王」の金印を授かったことが記載されています。

『魏志』倭人伝では、日本にあったとされる「邪馬台国」について記述があり、女王卑弥呼が納めていたことや30以上の国々が連合していたことなどが記録されています。

弥生時代の流れと特徴

弥生時代は、600~700年間続きました。1万年以上続いた縄文時代ほどではありませんが、長期間続いたことは確かです。ここでは、数百年に及ぶ弥生時代の時代区分や、弥生土器の特徴、道具・集落などについて解説します。

弥生時代の時代区分

弥生時代の時代区分には、複数の説があります。ここでは、最もシンプルな3区分を紹介します。

区分年代主な出来事
前期前400~前100稲作が北九州から全国に広がる環濠集落が出現した
中期前100~後100高地性集落が出現した『漢書』地理志『後漢書』東夷伝
後期後100~後300鉄製工具が普及した『魏志』倭人伝

縄文時代と弥生時代の境目はあいまいで、研究者によって考え方が異なっています。同様に、弥生時代と古墳時代の境目もあいまいです。その理由の一つは、日本で文字が使用されておらず、記録が残っていないからです。

弥生土器の特徴

弥生土器は弥生時代に広く使われた土器で、東北から九州南部まで分布していました。1884年に東京都弥生町遺跡で発見されたことから名付けられました。

主な形状として、食料を保存するための壺形、煮炊きに使う甕形、神様への供え物を置く高い脚付きの器があります。地域によっては水差しのような形や手を温める形の特殊なものも作られました。また、九州北部では大きな甕が棺として利用されていました。

製作方法は、粘土の紐を積み上げて形を作り、表面を整えて模様をつけ、約800度で焼き上げていました。地域ごとに特色があり、前期・中期・後期の時代によっても特徴が変化しています。後期になると模様が少なくなり、やがて古墳時代の土器(須恵器)へと移り変わっていきました。*3)

弥生時代の道具

弥生時代には、土器以外にもさまざまな生活に関する道具が作られました。その一部を紹介します。

区分名称用途
木製農具鍬(くわ)水田の土を耕す
鋤(すき)土を深く掘り起こす
田下駄(たげた)ぬかるんだ田んぼで足が沈まないように履く下駄
武器石鏃(せきぞく)石で作られた鏃(やじり)
鉄器徐々に普及し、主力武器になる
青銅製祭器銅剣・銅矛・銅戈実用よりも儀式で使用されたと考えられる

稲作が普及すると、作業を効率化するための農具も発達しました。威力の高い鉄製武器の出現は、争いが激しかったことを示しています。

弥生時代の集落

弥生時代になると、縄文時代よりも集落の規模が大きくなりました。それにともない、集落の形も徐々に変化します。

弥生時代前期に登場したのが環濠集落でした。環濠集落とは、外敵の侵入を防ぐために集落の周りに濠を巡らせた集落で、広い地域で見られます。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は、代表的な環濠集落です。*4)

弥生時代の中期になると、高地性集落と呼ばれる集落が現れるようになりました。これは稲作に適さない高台に作られた集落です。

この高地性集落については、敵から身を守るための防御を重視した集落だという考え方がある一方で、畑作を行うための集落だったという見方もあります。高地性集落は香川県にある紫雲出山(しうでやま)遺跡をはじめ、瀬戸内海や大阪湾の周辺地域に多く見られます。

また、『魏志』倭人伝に記されている「倭国大乱」などの記述から、当時の集落同士の間で争いが激しくなっていたことも、人々が高台に集落を作るようになった理由の一つだったかもしれません。

弥生時代の暮らしについて

弥生時代の人は、どのような生活を送っていたのでしょうか。ここでは、彼らの生活を「衣・食・住」の3つのパートに分けて解説します。

【衣】どんな服を着ていた?

弥生時代の人々の装いは、身分によって大きく異なっていました。魏志倭人伝によれば、当時の一般的な人々は非常にシンプルな衣服を着用していたことがわかります。

一般庶民は、布の真ん中に穴を開けて頭を通す「貫頭衣」と呼ばれる衣装を身に着けていました。しかし、出土した織機から推測すると、当時の布の幅は約30センチ程度だったため、実際には二枚の布を脇で綴じ合わせた形態だったと考えられています。

また、男性は木綿の布で頭を巻き、女性は髪を結うか、おさげにしていました。履物については、多くの人々が裸足で生活していたようです。

一方、身分の高い人々はより洗練された装いをしていました。吉野ヶ里遺跡から出土した絹織物の研究から、上位階層の人々は袖付きの衣服を着用していたことが判明しています。これらの衣服は単なる実用品ではなく、華やかな染色が施された高級品でした。

特に正装として用いられた絹は、赤や紫に染められ、中には中国の影響を受けた繊細な「透目絹」と呼ばれる高級品も含まれていました。このことから、当時の支配層は国際的な交流を通じて入手した貴重な布で作られた服で自らの地位を表現していたと考えられます。*5)

【食】何を食べていた?

弥生時代の人々の食生活は、魏志倭人伝に記された記述や遺跡から出土した遺物から明らかになっています。この時代には稲作が本格的に始まり、米を中心とした穀物文化が広まりました。

主食として米の他に小麦やアワ、ヒエなどの雑穀も栽培され、水を加えて調理していたようです。食事の際には手で直接食べる習慣があったと記録されていますが、鳥取県の遺跡からは木製スプーンも発見されており、雑炊状にして口にしていたと考えられます。

副食物としては、シカやイノシシなどの野生動物や、海産物、野鳥類などが狩猟や漁によって確保されていました。特徴的なのはイヌを食用としていた点で、これは大陸からの影響と推測されています。植物性食品ではモモやウリ類の栽培が行われ、山菜や食用野草も利用されていました。

調味料としては瀬戸内海地方の遺跡から製塩土器が見つかっており、塩の使用が確認できます。また、魏志倭人伝には「人々は生来酒が好き」と記されており、穀物を噛んで発酵させた酒も楽しまれていたことがわかります。*6)

【住】どんな家に住んでいた?

弥生時代の人々は主に二種類の建物を作っていました。一つは地面を掘り下げて作る「竪穴住居」で、もう一つは地上に柱を立てて建てる「掘立柱建物」です。

竪穴住居は主に、生活の場として使われていました。掘立柱建物には、床を高く設置する「高床式」と地面をそのまま使う「平地式」があり、前者は主に食料を保管する倉庫として利用されていました。

集落の中心部には、宗教的な儀式を行うための大きな建物も存在しました。吉野ヶ里遺跡で発見された「主祭殿」はその代表例です。

このような重要な建物は、出土した土器に描かれた絵からも確認できます。鳥取県の遺跡からは、太陽や動物とともに高い柱を持つ見張り台のような建物が描かれた土器が、奈良県からは複数階建ての建物が描かれた土器が見つかっています。

近年の研究によって、当時の建築技術は従来考えられていたよりも高度だったことがわかってきました。建物を支える柱と柱を強固に連結する「貫」という技法も使われていたようです。*7)

弥生時代が終わった理由

600年以上にわたって続いた弥生時代は、3世紀末で終わりを迎えます。なぜ、弥生時代は終わってしまったのでしょうか。

小さな「ムラ」が「クニ」に統合されたから

弥生時代が終わった理由ははっきりとはわかっていません。その中で、小さな集落が次第に一つにまとまり、大きな地域集団ができていったことが、古墳時代への変化につながったと考えられています。

弥生時代には、お米づくりが広まって農業を中心とした生活が定着しました。しかし、田んぼを作るための土地や水の取り合いから、争いも増えていきました

このような状況の中で、力の強い集落が周りの集落をまとめるようになり、より大きな地域のまとまり(クニ)が各地に生まれていきました。このまとまりによって、大きな力を持つリーダーが現れ、社会の仕組みが変わっていきました。

こうした「小さな集落から地域のまとまりへ」という変化が進むことで、弥生時代の社会のあり方が大きく変わり、やがて前方後円墳などの大きな墓(古墳)を作る新しい時代に移っていったのです。古墳時代には、強い力を持つ王様のような人々が現れ、弥生時代とは違う社会の仕組みができあがりました。

弥生時代とSDGs

弥生時代は、現代に比べると利用できる技術や資源が限られていました。そのため、食べ物や道具を無駄なく使用していたと考えられます。ここでは、弥生時代の人々の生活と現代のSDGs目標12「つくる責任つかう責任」との関わりについて考えていきます。

SDGs目標12「つくる責任 つかう責任」との関わり

弥生時代の人々は、現代のSDGs目標12「つくる責任つかう責任」に通じる生活を自然と実践していました。

稲作中心の農耕生活では、収穫後の稲わらを生活道具や肥料として活用し、資源を循環させていました。日常で使う土器や木製品が壊れても捨てずに修理したり、別の用途に作り変えたりして長く大切に利用する工夫がなされていました。

また、住居や生活道具は周辺の自然から得られる木材や石、粘土などを材料として作られ、地域資源を最大限に活かす知恵が発達していました。さらに、当時の生活から出る廃棄物は少なく、ほとんどが自然に還るものだったため、環境への負担が小さい循環型の社会が形成されていました。

このように弥生時代の人々の暮らしには、限られた資源を無駄なく使い、自然と調和した持続可能な生産・消費の知恵が息づいており、現代の私たちが見直すべき価値観が詰まっています。


>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

今回は、弥生時代の流れやSDGsとの関わりについて解説しました。弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀にかけて続いた時代で、稲作の始まりが最大の特徴です。

この時代、人々は米を中心とした農耕生活を送り、水田のそばに定住して共同作業で稲を育てていました。住居は竪穴住居や高床式建物が主流で、環濠集落や高地性集落などの特徴的な集落形態も見られました。

衣服は貫頭衣と呼ばれるシンプルなものが一般的でしたが、身分の高い人は絹の衣服を身につけていました。食生活では米を主食としながらも、狩猟や漁で得た肉や魚も食べていました。時代が進むにつれ、小さな集落が統合されて「クニ」と呼ばれる政治単位が形成され、やがて古墳時代へと移行しました。

弥生時代の人々の「必要なものだけを作り、資源を無駄にしない」という生活様式は、現代のSDGsの「つくる責任 つかう責任」の理念と重なる部分が多く、持続可能な社会を考える上で参考になるものです。

参考
*1)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「弥生時代
*2)百科事典マイペディア「弥生時代
*3)山川 日本史小辞典 改定新版「弥生土器
*4)デジタル大辞泉「環濠集落
*5)吉野ヶ里歴史公園「第4章 弥生時代の生活 3.身なり
*6)吉野ヶ里歴史公園「第4章 弥生時代の生活 2.食料
*7)吉野ケ里歴史公園「第4章 弥生時代の生活 1.住まいと建築

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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