2022年2月から続くロシアのウクライナ侵攻は、世界に多大な混乱を引き起こすきっかけとなりました。そしてこの戦いによって、日本とロシアの関係も大きく損なわれています。
日本はこの強大な隣国とどのように向き合い、どのような関係を築いてきたのでしょうか。日露関係のこれまでを振り返りながら、改めて両国の関係を考えていきましょう。
目次
国際社会におけるロシアの立ち位置

近現代の世界において、ロシアは世界の動向を左右する大国であり続けてきました。
世界最大の領土を得て周辺国へ覇を唱えると同時に、厳しい気候条件ゆえに世界への窓口としての不凍港を求め、隣国と摩擦を起こし続けてきた歴史があります。
また、ロシアは1923年から1991年まで、ソビエト連邦(ソ連)として社会主義・共産主義国家の中心的存在として君臨し、第二次世界大戦後には資本主義国家と対立して世界を二分した東西冷戦の主役の一角でもあります。
日本との関係をたどる前に、そんな現在のロシアの立ち位置を確認していきましょう。
「貧しい大国」から超大国へ
帝政時代もソ連時代も、ロシアは強くとも貧しい国でした。
1991年にソ連が崩壊した後のロシアは、積極的な市場経済導入や外国投資の受け入れなどで国内経済の立て直しを図ります。
ロシアは旧体制の名残りや政治的混乱、開発の遅れなどの困難に見舞われながらも、2010年までの約20年で大きな変貌をとげました。現在ではロシアは
- エネルギー分野:天然ガス生産量世界第2位(1,757億㎥)/石油生産量世界第3位(1,108万バレル)を産出
- 宇宙産業:毎年20〜30件のロケット打ち上げや人工衛星の運用を行い、航空宇宙分野で主導的な役割を担う
- 原子力発電:世界市場の35%以上のシェアを占める
- 鉱物資源:パラジウムや工業用ダイヤモンドなどは世界一のシェア
- 農業:2022年の小麦の生産量は世界第4位、輸出量は世界1位
など、多岐にわたる産業分野で国際的な存在感を発揮しています。
対外貿易額も1992年の970億ドルから2018年には6,880億ドルに達し、経済・産業両面で大国に相応しい国力を得るまでになりました。
強権的権威主義国家

一方ロシアは、政治的には議院内閣制をとっているものの、実際には大統領に権力を集中させる半ば独裁的な権威主義体制となっています。
2000年に発足した現在のプーチン政権は、強い国家を復活させて経済改革を進めるには政治体制の集権化を復活させる必要があると考え、
- 中央の地方に対する統制を強化
- 首長公選制を廃止し、大統領が地方の行政首長を罷免可能に
などの制度改革を断行しました。
さらにプーチンは秘密警察の人脈を活用し、言論・報道の自由を求める声やウクライナ侵攻に反対する勢力などを、監視と抑圧、暴力と恐怖で抑え込む統治スタイルをとっています。こうしたやり方によって民主化が進まないロシアでは、首相時代も含め25年にわたりプーチン体制が続いています。2024年の選挙で5選されたプーチンは憲法改正によって、大統領の任期を最長で2036年まで継続する予定です。
リベラル国際秩序への脅威
上記のような権威主義体制によって、現在のロシアは欧州や北米諸国が掲げるリベラルな国際秩序を揺るがす脅威と見なされています。
ロシアは2014年に、ウクライナからクリミア半島の併合を強行したことでG8から追放されています。そして今回のウクライナ侵攻によって、ロシアが欧米主導による国際秩序に敵対する姿勢を見せていることが改めて浮き彫りになりました。
プーチン大統領らは現在、ウクライナ侵攻に関わる罪状によって国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を発付されています。
グローバル・サウスへの強い影響力

国際的な非難にも関わらず、ロシアは旧ソ連に属していた国や、中国、インド、北朝鮮の他、グローバル・サウスと呼ばれる途上国・新興国と連携を図り、影響力を強めています。
こうした国々の中には欧州やアメリカに反発する国も多く、経済面や安全保障の面でロシアや中国と密接な関係を築き、独自の経済圏形成を目論んでいます。
その代表的なものがBRICSです。BRICSとはブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの5カ国のことを指し、南アフリカを除く4カ国は2050年にはGDPでトップ10に入るとも言われています。
現在ではエジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)が加盟し、10カ国体制となっています。
日本とロシアの関係に関する歴史

日本とロシアは、江戸時代後期に初めて交流を持って以来、隣国として互いを意識しながら現在に至っています。そして、日露(日ソ)関係の背景に一貫して存在してきたのは、経済やイデオロギーによるものではなく、国境と安全保障をめぐる争いと友好の歴史です。
【江戸時代末期】ロシアの接近と日本の拒絶姿勢
ロシアの古文書で確認できる最初の日本とロシアの交流は、デンベエという大坂商人のカムチャッカ漂着だと言われています。1695年に江戸へ向かう途中遭難したデンベエは、漂着後1702年にピョートル大帝に謁見し、現地で日本語学校の教師になったとされています。
本格的にロシアが日本と接触してきたのは18世紀末です。
1792年にロシアは漂流民の大黒屋光太夫を伴って根室を訪れ、幕府に通商を要求。これに対し、幕府は使節のラクスマンに長崎入港の許可証を与えて退去させます。
この許可証を持ったロシア船が1804年長崎に入港するものの、江戸幕府は拒絶して追い返したため、ロシアは樺太や択捉島を攻撃しました。
その後も、
- 1811年:ロシア船船長拘束=高田屋嘉兵衛の尽力で釈放
- 1853年:ロシア使節団来日
- 1859年:東シベリア提督が日本人武士に襲撃される(初の外国人殺傷事件)
など、ロシアは日本との通商を求めて接近してきますが、基本的に幕府は消極的あるいは敵対的な姿勢を崩しませんでした。
この間、アヘン戦争(1840〜42年)によるイギリスへの危機感からロシアとの提携を唱える声も上がりますが、幕末に攘夷論が高まるとそうした意見は下火になっていきます。
【明治時代】国交樹立から対立、日露戦争へ
日本では明治維新によって新政府が樹立され、ロシアとの外交も仕切り直しになります。
その最大の難問が、樺太をめぐるロシアとの国境交渉です。
日本側は初代駐露公使・榎本武揚のもと、1875年に樺太千島交換条約を締結し、
- 樺太全島がロシア領
- 千島列島全島が日本領
として国境を策定します。
その後は明治天皇と3代にわたるロシア皇室との親密な交流や、ロシア政策に奔走した伊藤博文の働きなどもあり、日露友好と協力の時代を迎えます。しかしその目的は、アジア進出を狙うイギリスを牽制するためのものであり、日露両国は水面下で朝鮮の支配権をめぐる駆け引きを繰り広げていました。
大津事件
1891年には、来日中のロシア皇太子ニコライが警備中の巡査に斬り付けられて負傷する事件が起こります。大津事件と呼ばれるこの事件は、日露関係が試された試練となりました。
明治天皇は事件発生後すぐに京都へ向かいニコライ皇太子を見舞っただけではなく、皇太子帰国の際にはロシアの船の中まで見送りに行きました。
日露両国の政府内では犯人の死刑を求める声が大きかったにも関わらず、大審院は無期懲役の判決を下します。それでもロシア皇帝と皇太子は「日本への好印象は変わらず」と答え結果を受け入れます。
大津事件は、明治天皇夫妻の皇室外交と伊藤・榎本らロシアと親交のある人々の奔走により、戦争の危機を回避して無事収束しました。
朝鮮半島の支配権をめぐる争い
しかしこの時期すでに、朝鮮半島での主導権をめぐる日露の対立が表面化し始めています。
大津事件が起きた1891年に敷設が決定したシベリア鉄道は、朝鮮の不凍港への進出の足掛かりになるものであり、日本としては脅威になります。
さらに東学党の乱(1894年)鎮圧をきっかけに起きた日清戦争の終結後には、ロシアは中立の立場から三国干渉へと方針を転換しました。これによって
- 日本は遼東半島の割譲を全て放棄
- ロシアは旅順と大連を租借し、満州を横断する中東鉄道を敷設
- 日本は朝鮮半島での商工業の優越を保証される代わりにロシアの旅順・大連占領を黙認
という合意がなされ、日露は朝鮮半島での影響力を折半することになります。
しかし諦めきれないロシア軍部は、その後も朝鮮改め韓国で利権を拡大する動きを続け、
日本との軋轢を深めていきました。
日露戦争
日清戦争の終結後、日露関係は朝鮮半島のほかに満州問題も加わり複雑化していきます。
清で起きた義和団事件の鎮圧後もロシア軍は満州を占領し続けたことで、日本と西欧列強は警戒を強めます。日英同盟の圧力でロシアは満州撤退を決めるものの、途中で撤退をやめるばかりか、韓国の土地を租借するなど影響力の拡大は止まりません。
日本とロシアの内部では衝突回避を模索する動きもありましたが実らず、決裂が不可避となった両国は日露戦争の開戦へと至ります。
国力・戦力とも、日本は当初から不利と見られていましたが、
- 韓国・漢城占領
- 旅順陥落
- 奉天会戦に辛勝
- 日本海海戦の勝利
など戦況を有利に進め、伊藤博文らの主導で講和へと持ち込まれました。
ポーツマスでの講和会議(1905年)で日本は、
- 韓国での政治・経済・軍事の優越
- 遼東半島の租借権
- 旅順から長春までの鉄道利権の獲得(南満州鉄道株式会社:満鉄)
などを勝ち取ります。その一方樺太の獲得は南半分に留まり、不十分な賠償金しか得られなかったことで、国民から大きな不満が噴出することになりました。
【明治〜大正時代】日露関係の改善とシベリア出兵
日本とロシアは1906年に国交回復を果たすも、友好関係の修復はなおも困難でした。
それでも、ロシアはバルカン半島やヨーロッパに注力するため日本との友好を希望し、日本もロシアが韓国の問題に干渉しないことを確認したことで、1907年に第一次日露協約/日露通商航海条約と漁業協約が締結されます。
この時期に満鉄総裁の職に就いていた後藤新平は、伊藤博文との協力のもとでロシアとの関係強化を目指していました。伊藤が暗殺された後も後藤は桂太郎首相との連携により、
- 1910年:第二次日露協約/締結後韓国併合
- 1912年:第三次日露協約/内モンゴルでも日露は勢力範囲を線引き
など、満州をめぐる日露の利害関係を整えることに尽力します。
ロシア革命とシベリア派兵
1914年に第一次世界大戦が起こると、日本は連合国側としてロシア支援に回ります。
後藤や山県有朋らは日英仏露の四国同盟の必要性を訴え、1916年に事実上の日露同盟となる第四次日露協約が締結されました。しかし翌1917年にロシア革命が起きたことで国の体制が転換、革命政府がドイツと講和したことで日露の同盟は事実上消滅します。
ロシアとドイツの講和は、シベリア鉄道とウラジオストクの軍事物資がドイツに渡る危険があることを意味します。そのため英仏は、チェコ兵救出を名目に日本にシベリア派兵を要請します。日本はアメリカからの圧力もあって派兵に踏みきりますが、これは大量の戦病死者を出して失敗に終わったばかりか、国内からも大きな非難にさらされました。
【大正〜昭和前期】協調と衝突

ソビエト連邦となったロシアとの国交交渉は難航しました。共産主義国との国交樹立には国内からの抵抗が大きかっただけでなく、1923年に起きた関東大震災の影響で内政に集中せざるを得なかったためです。
それでも日中ソの三国連携を画策する後藤らの働きにより、1925年には日ソ基本条約が調印されます。ただし日ソは国交こそ結んだものの、
- 田中義一首相がソ連との提携に消極的
- 日本共産党への弾圧(三・一五事件)
- 中国への日本の軍事干渉
といった理由から、友好的な提携関係には至りませんでした。
国際連盟脱退とソ連への接近
日本は1931年に満州事変と呼ばれる軍事行動を起こし、関東軍によって満州を制圧、後に満州国を建国します。満州の支配権をめぐって日本と争うソ連も、ここでは中立の立場をとります。
満州事変によって国際的に孤立する日本は自らの正当性を訴えるべく、国際連盟総会へ松岡洋右全権委員を派遣しました。
松岡はスイスの総会出席の前にモスクワへ寄り、数少ない外交の切り札であるソ連に満州国の承認を要求して日本の立場を強めようとしますが、すでに中ソ国交回復の動きが始まっていたこともあって失敗に終わります。
結局、国際連盟総会では日本の満州撤退や中国の主権を認める決議がなされますが、松岡はこれを拒否。日本は国際連盟を脱退することになりました。
ノモンハン事件~日ソ中立条約へ
満州をめぐりソ連との緊張関係が続く日本は、広田弘毅内閣のもとソ連との関係改善を図ります。しかし、満州での関東軍の行動を非難するソ連に対し、日本も国境の備えを強めるソ連を非難するなど、かえって関係は悪化するばかりでした。
それに加えて、
- 日独防共協定:共産主義勢力を抑えるためのソ連包囲網
- 日中戦争(1937年)開始
などの日本の一連の行動はソ連の猛反発を招き、ソ連は満州での中国の対日抗戦を支援していくことになります。
そしてついに、日ソ両国は満州国南端・張鼓峯での軍事衝突(張鼓峯事件)を経て、満州と内モンゴルの国境・ノモンハンで大規模な戦闘に発展します。このノモンハン事件は、ソ連側25,655人、日本側18,000〜20,000人の死傷者を出すなど、戦争と呼んでもいいほどの大きな戦いでした。
この時期の日ソ関係を左右したのはドイツの動きです。
ソ連包囲網のパートナーだったはずのドイツは、日本に何の相談もなくソ連と不可侵条約を結びます。イギリスとの戦争に苦戦していたドイツは、アメリカの参戦を防ぐため日本にソ連との連携を勧めました。
外務大臣の松岡洋右も日独ソの同盟を提唱し、日ソ不可侵条約または中立条約の締結を目指してベルリン、ローマ、モスクワを訪れます。
日本は日独伊三国同盟を締結しましたが、この頃からドイツとソ連の関係が急激に悪化し始めたことで日ソの連携は非常に困難な状況でした。
しかし、対ドイツに集中し東で日本を抑えておきたいソ連は、松岡の帰国直前に急遽方針を転換。1941年4月に日ソ中立条約が結ばれます。この条約では、
- 双方の領土保全・不可侵
- 第三国による攻撃には中立を守る
- モンゴルと満州の領土保全・不可侵=満州国の承認
- 日本の北樺太での利権解消を約束
などが約束されました。
ヤルタ会談~ソ連対日参戦へ
1941年6月に、ドイツは不可侵条約を破ってソ連に侵攻します。
一方ドイツの同盟国である日本が米英との太平洋戦争に突入したことで、ソ連は米英中の陣営に加わることになります。
日ソ中立条約は有効であったものの、ソ連はドイツに対し勝利が濃厚になるにつれ、日本との戦争準備を進めていきました。
1945年には、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンがヤルタ会談を行い、ドイツ降伏から2、3ヶ月以内にソ連が対日参戦するという秘密協定がここで結ばれました。
7月には、日本の降伏を求めるポツダム宣言が米英中から発せられます。日本はソ連が署名をしていないことからポツダム宣言を無視してソ連による和平交渉に望みを託しますが、返ってきた返答は宣戦布告でした。
8月9日にソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州へ侵攻します。これによって日本は翌日ポツダム宣言を受諾。最終的には8月15日の昭和天皇が玉音放送で降伏を宣言し、太平洋戦争は終戦を迎えるのです。
シベリア抑留
日本が降伏した後も、ソ連は政治的空白を利用して侵攻を継続します。ソ連軍の占領下に置かれた満州などに取り残された多くの日本兵は武装解除され、日本に帰されずにソ連へと移送されました。
このシベリア抑留によって捕虜となった日本人・朝鮮人は実に約61万人に上り、シベリアでの飢えと極寒、重労働によって約6万人が死亡したとも言われています。
日本はアメリカを通して抑留者の早期帰還を求めますが、ソ連はこれを全て無視し続けます。結局、最後の抑留者が日本に帰国するまでには、1956年まで待たなければなりませんでした。
【戦後〜現在】ソ連からロシアへ
日本はサンフランシスコ講和条約(1951年)で国際社会に復帰します。
この条約に参加していなかったソ連とは交戦状態が継続していましたが、1956年に日本とソ連はようやく国交を回復します。
第二次世界大戦が終わると同時に世界は米ソの東西冷戦に入り、日本はアメリカを中心とする西側の勢力下にあったものの、
- 1973年10月の田中角栄のソ連訪問で、ブレジネフ書記長との共同声明
- 1991年4月のゴルバチョフ訪日での共同声明
など、後述する北方領土を中心とする、第二次世界大戦からの未解決問題についての話し合いを長年にわたって続けてきました。
1991年12月にソ連を継承したロシアは、共産主義からの脱却と自由主義経済による国の立て直しを図るため、日本と積極的な交流を続けてきました。
このように、日本とロシアはその初期から現在に至るまで、国境と領土に関する問題をめぐって時には敵対し、時には手を携えながら交流を深めてきたのです。
【政治】日本とロシアの現在の関係

21世紀に入ってからは決して悪いものではなかった日本とロシアの関係ですが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻で事態は一変しました。
G7のメンバーとして厳しい対露制裁

ウクライナ侵攻に対しては、日本も民主主義国家の一員として厳しく非難しています。
同時に日本はG7の一員として、ロシアによる侵略を一日も早くやめさせるために、
- プーチン大統領以下各議員など個人・団体への制裁
- 銀行の資産凍結など金融分野での制裁
- 輸出入禁止措置
などの対露制裁措置を行いました。一方のロシアも日本側の制裁措置に対し、
- 日本とのビザなし交流、共同経済活動を停止
- 漁業、墓参などの活動停止
- 日本政府、有識者多数の入国禁止措置
などの報復措置をとっています。日本は2023年の広島サミットでもウクライナのゼレンスキー大統領を招待して全面的な支持を表明するなど、ロシアに対する厳しい姿勢は変わりません。
日本側は両国民の間で感情的な対立をあおることのないよう、適切に対応することをロシアに求めていますが、政府間の交渉はほぼとられておらず、現在日露両国の関係は完全に停滞しています。
北方領土と平和条約交渉

日露関係にとって最大の問題は北方領土問題です。そしてこの問題が解決されない故に、日本とロシアは現在に至るまで平和条約を締結できていません。
北方領土とは、北海道の北東に位置する北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)のことをいいます。この地では日本人がロシアより先に渡航、統治を行っており、1855年の日魯通好条約で国境を確認して以降、
- 1875年の樺太千島交換条約
- 1905年のポーツマス講和条約
- 1925年の日ソ基本法則条約
のいずれの条約でも、これらの島々が日本に帰属することに異論は唱えられていません。
しかし、1945年に日ソ中立条約を破棄したソ連は、9月初めまでに北方四島を占領し一方的に編入してしまいます。 1948年までには全ての日本人が強制的に追い出され、今日に至るまで北方四島ではソ連およびロシアによる占拠が続いている状況です。
現在も未解決の問題
サンフランシスコ講和条約では、日本が北方四島を含むクリル諸島及び南樺太などを放棄することを規定していたものの、
- 帰属先については規定していない
- ソ連がサンフランシスコ講和条約に署名しなかった
などの理由から、北方領土問題は日ソ間での個別交渉となります。
1956年の日ソ共同宣言で両国は国交を回復させますが、北方領土問題はさらに
- 平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を日本に引き渡すことに同意
- 1960年の新日米安保条約を受け、歯舞群島・色丹島返還には日本からの全外国軍隊(つまり米軍)の撤退という条件を追加→日本政府は反論
といった展開になっていき、双方の合意点は得られていません。しまいにはソ連側は「領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みで、そもそも存在しない」という立場を取るようになります。
日本の歴代政権はその後も北方領土についてロシアとの交渉を継続してきましたが、今回のウクライナ侵攻で全てが断ち切られます。
ロシアに対して日本が厳しい制裁措置をとったことで、逆にロシアは
- 平和条約交渉を継続しない
- 自由訪問及び北方墓参などの四島交流中止
- 北方四島における共同経済活動に関する対話から離脱
などあらゆる交渉を打ち切る決定をしており、北方領土問題は解決の糸口を完全に失っている状態です。
さらに近年では、北方四島でロシアが軍事演習を行うなどの動きも見られるなど、北方領土をめぐる日露関係は政治的に厳しい状況が続いています。
【経済】日本とロシアの現在の関係

ソ連からロシアへの移行後、日本とロシアは経済分野において積極的な連携を行ってきました。近年では、
- 健康寿命の伸長
- 快適・清潔で住みやすく、活動しやすい都市作り
- 中小企業交流・協力の抜本的拡大
- エネルギー
- ロシアの産業多様化・生産性向上
- 極東の産業振興・輸出基地化
- 先端技術協力
- 人的交流の抜本的拡大
からなる8項目の「協力プラン」に基づいた官民あげてのプロジェクトが進行中でした。
それ以外でも、
- 漁業分野における政府間協定
- 互いの相互理解を目的とした日露青年交流事業
などの取り組みも行われています。しかし、こうした協力関係も2020年からのコロナ禍、さらには2022年のウクライナ侵攻を機に、そのほとんどが中断を余儀なくされています。
ウクライナ侵攻後の経済関係
現在、日本のロシアとの経済分野での協力は、全て中止または見合わせの状態です。
ウクライナ侵攻後日本が課した対露制裁と、ロシアからの報復措置によって、両国の貿易も大幅に落ち込んでいます。
日露貿易総額の推移
2023年の日露間の貿易は
- 貿易額:対前年比44.3%減少
- ロシアから日本への輸出額:対前年比で47.2%減少(特に原油、石炭)
- 日本からロシアへの輸出額も対前年比で34.5%減少
と激減し、さらに翌2024年には
- 対前年比16.8%減少
- ロシアから日本への輸出額:対前年比で16.7%減少(特に石炭)
- 日本からロシアへの輸出額:対前年比で17.2%減少
にまで落ち込むなど、その影響は深刻です。それでもこうした経済的な損失をロシアに与えることで、国際社会からの制裁の実効性を確保するという点で、日本とG7諸国の見解は一致しています。
エネルギー分野
ウクライナ侵攻を機に、日本政府は石炭・石油などエネルギー資源のロシアからの依存度を減らす方針で動いており、ロシア産石油の輸入を段階的に禁止する方針です。
とはいえ、ロシアは日本が輸入する原油の3.6%(第5位)を占めています。昨今の不安定な世界情勢を考慮すると、エネルギー安全保障上、中長期的に資源を安定して確保することは不可欠です。
そのため日本は、ロシアの石油・天然ガス開発事業「サハリン1」「サハリン2」については引き続き国内の商社が持つ権益を維持する方針ですが、いずれにせよ今後の動向は不透明な状況です。
日本とロシアの関係とSDGs

武力によって国際的な秩序を脅かす国が現れることは、SDGs(持続可能な開発目標)の達成には大きな障壁となります。それが世界屈指の大国であればなおさらです。
特に大きな問題となるのが、目標17「パートナーシップで目標を達成しよう」の達成です。
この目標では「持続可能な開発のための実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する」ことを目指しています。
しかし、世界情勢に大きな影響力を持つロシアとロシアに歩調を合わせる国々が、欧米諸国と対立して政治的にも分断を広げている現在の状況は、目標達成のためのグローバル・パートナーシップを妨げるものです。
また日本とロシアはウクライナ侵攻以前、8項目の「協力プラン」によるプロジェクトや、日露青年交流事業、漁業協定などの取り組みを積極的に行ってきました。
ロシアが侵攻をやめて国際社会と和解し、日露関係が修復されれば、
- 目標9「産業と技術革新の基盤をつくろう」
- 目標10「人や国の不平等をなくそう」
- 目標14「海の豊かさを守ろう」
- 目標16「平和と公正をすべての人に」
などの目標達成にも近づくことが期待されるのですが、残念ながらその道筋はいまだ見えていません。
>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから
まとめ

日本とロシアは、海を挟んで隣り合う位置関係によって約300年の間に何度も対立と友好を繰り返してきました。そして過去の対立の背景にあるのは一貫して国境と領土の問題であり、人種や民族、政治思想の違いによるわだかまりではありません。
現在の日本は昔のような領土拡大の野心はありません。再びロシアと外交関係を復活させて北方領土の問題を解決できれば、将来的にはきっと互いに最良のパートナーとなり得る可能性を秘めています。
そのためには、何をおいてもロシアは一日も早くウクライナ侵攻をやめなければなりません。貴い人命がこれ以上失われないためにも、そしてグローバルなパートナーシップ実現のためにも、日本や国際社会はその力がいま問われています。
参考文献・資料
日露近代史 戦争と平和の百年/麻田雅文 ; 講談社, 2018.
日本とロシアの近現代史/PHP研究所 , 2022.
地図で見るロシアハンドブック. 新版/パスカル・マルシャン著 ; 太田佐絵子訳 ; シリル・シュス地図製作.原書房, 2021.
日露関係|外務省
ロシア基礎データ|外務省
2023年の天然ガス生産量は世界で4兆2,829億立方メートル、OPEC加盟国合計はシェア15.7%|JETRO
2023年の中東での石油生産、前年比1.6%減の日量3036万バレル|JETRO
ロシアのウクライナ侵攻 穀物生産、食料貿易へ影響懸念 2022年2月25日|農業協同組合新聞
大統領選挙後のロシア:プーチン独裁体制の展望と総括 | 一般社団法人平和政策研究所
BRICS│SMBC日興証券
どうするエネルギー調達 脱ロシアで…商社の“正念場”【WBS】|テレ東BIZ
日ソ・日露関係を振り返る | 一般社団法人平和政策研究所
在ロシア日本国大使館 Посольство Японии в России
第7節 ロシア・中央アジア・コーカサス:通商白書2024年版 (METI/経済産業省)
第7節 ロシア:通商白書2021年版 (METI/経済産業省)
プーチン・ロシアとその対外政策|戦略年次報告 2019 日本国際問題研究所
外交青書 2024 | 2 ロシア・ベラルーシ | 外務省
令和7年版外交青書(外交青書2025)
北方領土問題とは?|外務省
この記事を書いた人

shishido ライター
自転車、特にロードバイクを愛する図書館司書です。現在は大学図書館に勤務。農業系の学校ということで自然や環境に関心を持つようになりました。誰もが身近にSDGsについて考えたくなるような記事を書いていきたいと思います。
自転車、特にロードバイクを愛する図書館司書です。現在は大学図書館に勤務。農業系の学校ということで自然や環境に関心を持つようになりました。誰もが身近にSDGsについて考えたくなるような記事を書いていきたいと思います。