
織田信長は、戦国時代から織豊期にかけて活躍し、天下統一を目前にまで進めた武将です。織田信長は、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破ったことで一躍名を高め、その後は美濃を制圧して岐阜に拠点を移し、「天下布武」を掲げて全国統一を目指します。織田信長の特徴や代表的なエピソードを交えながら、その人物像をわかりやすく解説。
目次
織田信長とは

織田信長は、戦国時代から織豊期にかけて活躍し、天下統一を目前にまで進めた武将です。1534年に生まれ、若くして家督を継ぐと、父の死後に一族の対立を乗り越えて尾張を統一しました。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破ったことで一躍名を高め、その後は美濃を制圧して岐阜に拠点を移し、「天下布武」を掲げて全国統一を目指します。足利義昭を将軍として京都に迎え入れた後は、各地の有力勢力や宗教勢力と戦いながら勢力を拡大し、室町幕府を滅ぼしました。
長篠の戦いでの勝利や安土城の築城、畿内の平定を経て、天下統一が目前に迫った1582年、本能寺の変で明智光秀の謀反に遭い、その生涯を終えました。*1)
「うつけ」と呼ばれた少年時代
織田信長は、尾張国(愛知県西部)の有力武将であった織田信秀の三男として生まれ、幼名を吉法師といいました。若いころの信長は、派手な服装や自由な振る舞いを好み、周囲の武士たちから「うつけ(愚か者)」と見られていました。
父の死後に家督を継いだ後も、その態度は家臣の反発を招き、重臣の平手政秀が命を懸けて諫める出来事も起こります。信長はこの出来事を深く受け止め、政秀の菩提を弔うために寺を建てました。
一見すると軽率に見える行動の裏には、既成概念にとらわれない考え方があり、それが後の大きな活躍へとつながっていきます。*2)
「即断即決」の武将:桶狭間の戦いの勝利
1560年の桶狭間の戦いは、信長の「即断即決」を象徴する出来事です。織田信長は、二万五千を超える大軍で侵攻してきた今川義元に対し、わずかな兵力で立ち向かいました。
今川軍の動向を探っていた信長は、敵が油断して大軍が展開しにくい桶狭間に本陣を構えた機会を逃さず、状況を素早く見極めて進路を変更し、奇襲を仕掛けます。
その結果、義元は討ち取られ、今川軍は総崩れとなりました。この勝利によって信長の名は一気に広まり、尾張の一大名から天下を目指す武将へと大きく歩みを進めることになります。*4)
能力主義で人材登用
織田信長の大きな特徴の一つが、家柄や譜代にとらわれず、実力を基準に人材を登用した点です。古くから織田家に仕えた人物でなくても、成果を上げれば重要な役割を任され、出世の道が開かれました。この能力主義の人事が、多様な才能を集め、急速な勢力拡大を可能にしたのです。
【織田信長が登用した代表的な人物】
| 人物名 | 立場・出自 | 信長に評価された能力 | 出世・役割 |
| 豊臣秀吉(木下藤吉郎) | 足軽 | 外交、調略、築城など | 城主・方面軍司令官 |
| 明智光秀 | 新参者の家臣 | 外交、内政、教養など | 城主・方面軍司令官 |
| 丹羽長秀 | 重臣 | 行政能力、実務能力 | 城主・方面軍司令官 |
| 柴田勝家 | 重臣 | 戦闘能力 | 城主・方面軍司令官 |
この表から分かるように、信長が重視したのは血筋ではなく「何ができるか」という点でした。秀吉のように低い立場から大出世した人物が現れたことは、家臣たちに強い刺激を与えます。結果を出せば評価されるという仕組みは、組織全体の士気を高め、信長政権の強さを支える大きな要因となりました。
信長の宗教政策とキリスト教の容認
織田信長の宗教政策は、「寛容だった」「弾圧した」という単純な評価では理解できません。信長は、仏教勢力(比叡山延暦寺や一向一揆)とキリスト教を同じ基準で見ていたわけではなく、政治への影響力という点で明確に区別していました。
【信長の宗教政策】
| 宗教名 | 信長の対応 | 具体的な行動 | 理由 |
| 仏教勢力 | 弾圧・戦い | 比叡山焼き討ち一向一揆との戦い | 仏教勢力が信長の支配に武力・政治力で対抗したため |
| キリスト教 | 容認 | セミナリオの建設許可南蛮寺の建設許可 | 信長の支配に反抗せず、南蛮貿易を通じて西洋の品物や文化を日本にもたらした |
*2)
信長は宗教そのものを基準に対応を分けていたわけではありません。政治権力に挑戦する勢力かどうか、統治にとって脅威か利益かという点で判断していました。
本能寺の変で死去
1582年6月、天下統一を目前にしていた織田信長は、毛利氏と戦う準備を進めていました。備中高松城を包囲していた豊臣秀吉から戦況の報告を受け、信長は自らも出陣することを決め、京都へ向かいます。5月末に安土城を出発し、京都の本能寺に宿泊しました。
一方、毛利攻めへの出陣を命じられていた家臣の明智光秀は、途中で進路を変え、密かに謀反を決意します。6月2日の明け方、光秀は大軍を率いて本能寺を包囲しました。
信長は森蘭丸らわずかな近臣とともに応戦しますが、数の差は大きく、最終的に自ら命を絶ちます。嫡男の信忠も二条御所で奮戦の末に自刃しています。天下統一を目前にした突然の最期は、戦国の流れを大きく変える出来事となりました。
織田信長が行ったこと

織田信長の生涯について、年表でまとめます。
| 年代 | 出来事 |
| 1534年 | 織田信秀の子として生まれる |
| 1546年 | 元服 |
| 1549年 | 斎藤道三の娘(濃姫)を妻に迎える |
| 1554年 | 織田信秀の死去に伴い、織田家の家督を相続 |
| 1558年 | 弟の織田信行を殺害 |
| 1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る |
| 1567年 | 美濃の稲葉山城を攻め落とす |
| 1568年 | 足利義昭を奉じて上洛し、義昭を将軍に就ける |
| 1571年 | 比叡山延暦寺を攻撃 |
| 1573年 | 足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼす |
| 1575年 | 長篠の戦いに勝利 |
| 1576年 | 琵琶湖東岸に安土城を築城 |
| 1580年 | 石山本願寺と和睦 |
| 1582年 | 本能寺の変で死去 |
次章では、織田信長が行った代表的な事柄を整理します。
美濃を制圧し「天下布武」の印を使用
1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、勢力を安定させるため1562年に徳川家康と同盟を結びました。その後、美濃攻略に本格的に乗り出し、1565年には墨俣に砦を築いて斎藤氏への圧力を強めます。1567年、ついに斎藤龍興を追放して美濃を制圧すると、拠点であった井之口を「岐阜」と改めました。*7)
そしてこの頃から、「天下布武」と刻まれた印を使い始めます。この言葉には、武力によって天下に号令し、新しい秩序を築くという強い意思が込められていました。岐阜を手に入れた段階で、信長がすでに天下統一を見据えていたことがうかがえます。*8)
楽市楽座の実施
戦国時代は戦が続き、領地を安定して治めるためには強い経済力が欠かせない状況でした。多くの戦国大名が商人を集めようと工夫する中で、織田信長も経済力の強化に取り組みます。その施策として行われたのが楽市楽座でした。
信長は、特権を持つ商人組合である「座」を廃止し、市場の税を免除することで、誰もが自由に商売できる環境を整えます。1577年に安土城下で実施されたこの政策によって、商人や職人が集まり、城下町の経済は大きく活性化しました。*9)
楽市楽座そのものは他の戦国大名も実施していましたが、経済の先進地域である畿内や伊勢湾周辺を支配していた信長が実施することで高い効果が得られたと考えられます。
その結果、信長は豊かな財源を手に入れます。こうして得た経済力をもとに、鉄砲を大量に購入し、軍事力を強化することが可能となりました。楽市楽座は、経済政策が戦いの強さへと直結した、信長の合理的な統治を象徴する取り組みだったといえるでしょう。
足利義昭を奉じて上洛
1568年、織田信長は13代将軍足利義輝の弟であった足利義昭を伴い、京都へ進軍しました。信長はすでに尾張と美濃を支配下に置き、天下布武を掲げて勢力を広げていましたが、将軍を立てることで自らの行動に正当性を持たせようとします。
上洛の途中で近江の六角氏を退け、京都に入った信長は義昭を将軍に就け、畿内の秩序回復に取り組みました。この結果、信長は政治の実権を握る立場となります。
しかし、やがて義昭との考えの違いが表面化し、両者の関係は悪化していきました。足利義昭を奉じた上洛は、信長が戦国の武将から全国を動かす政治の中心人物へと進み出た重要な出来事だったといえるでしょう。*2)
反信長包囲網との戦い
信長が京都で実権を握るようになると、将軍権力の回復を目指す足利義昭を中心に、各地の有力勢力が結集し、「反信長包囲網」が形成されました。義昭に味方し、信長に対抗した主な戦国武将・勢力は次のとおりです。
- 浅井長政
- 朝倉義景
- 武田信玄
- 比叡山延暦寺の僧兵
- 石山本願寺を中心とする一向一揆
- 毛利氏(中国地方の大勢力)
これらの勢力は、信長の急速な台頭に危機感を抱き、将軍義昭の権威を旗印として結束しました。
しかし織田信長は、浅井・朝倉氏を滅ぼし、宗教勢力を制圧するなど、各個撃破で包囲網を崩していきます。1573年には義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させました。反信長包囲網との戦いは、信長が全国支配へと大きく前進する転換点となったのです。*10)
安土城の築城
安土城は、織田信長が目指した新しい時代の政治と秩序を象徴する城でした。信長にとって安土城は、戦のための拠点ではなく、天下を治める中心としての意味を持っていたのです。
1576年から築かれた安土城には、五層七階とされる壮大な天守がそびえ、内部は狩野永徳による豪華な障壁画で彩られていました。また、高い石垣や工夫された城門、山麓に広がる城下町の整備など、当時最先端の技術と構想が取り入れられています。城下では商工業者を集め、政治と経済を一体化した都市づくりも進められました。
こうした点から、安土城は単なる城ではなく、織田信長が武力だけに頼らない新しい統治の形を示そうとした象徴的な存在だったといえるでしょう。*11)
織田信長とSDGs

織田信長の政策は、戦国時代でありながら経済の活性化と人の働き方を重視していました。楽市楽座や能力主義の人材登用は、SDGs目標8「働きがいも経済成長も」に通じる考え方といえます。
SDGs目標8「働きがいも経済成長も」との関わり
織田信長の政策には、SDGs目標8「働きがいも経済成長も」と重なる考え方が見られます。信長は楽市楽座を実施し、特権商人以外にもビジネスチャンスを広げる効果がありました。
また、家柄ではなく能力を重視して人材を登用し、成果を上げた者が正当に評価される仕組みを築きます。こうした方針は、人々の意欲を高め、生産性の向上につながりました。
信長は経済成長を軍事力や統治力の強化へ結びつけました。強化した軍事力により両国に平和をもたらしたことにより、多くの人が働きやすい環境を作ったといえるでしょう。
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まとめ
織田信長は、戦国時代の常識にとらわれず、戦・政治・経済の在り方を大きく変えた武将でした。「うつけ」と呼ばれた少年時代を経て、桶狭間の戦いでの決断力、能力主義による人材登用、宗教や経済を政治の視点で捉える合理的な判断を重ね、天下統一へと突き進みます。
楽市楽座による経済活性化や安土城の築城は、その象徴的な取り組みでした。本能寺の変によって志半ばで生涯を終えましたが、信長が示した「働く仕組みを整え、成長を力に変える」という考え方は、現代のSDGs目標8にも通じます。信長の生き方は、時代を超えて社会の在り方を考える手がかりを与えてくれるでしょう。
参考
*1)山川 日本史小辞典 改定新版「織田信長」
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「織田信長」
*3)日本大百科全書(ニッポニカ)「桶狭間の戦い」
*4)デジタル大辞泉「セミナリオ」
*5)デジタル大辞泉「南蛮寺」
*6)山川 日本史小辞典 改定新版「本能寺の変」
*7)改定新版 世界大百科事典「織田信長」
*8)兵庫県立歴史博物館「天下布武の朱印」
*9)旺文社日本史事典 三訂版「楽市楽座」
*10)改定新版 世界史大百科事典「足利義昭」
*11)山川 日本史小辞典 改定新版「安土城」
*12)
この記事を書いた人
馬場正裕 ライター
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。