
錦江湾にそびえる桜島の雄大な姿を望む薩摩の地で、西郷隆盛は生まれました。火山の噴煙と豊かな自然に囲まれたこの土地は、厳しさと温かさが同居する薩摩人気質を育む場所でもあります。
下級武士の家に生まれ、決して恵まれた環境ではなかった西郷は、若い頃から学びと行動を重ね、やがて時代の表舞台へと立っていきます。倒幕運動、薩長同盟、江戸城無血開城と、彼の選択は日本の行方を大きく左右しました。
明治維新後も政治の中枢で改革を進めますが、理想と現実のはざまで苦悩し、ついには政府を去ります。それでも人々の敬愛は失われませんでした。
西郷隆盛の生涯をたどることで、激動の時代を生き抜いた一人の人間の信念と、日本近代史の流れが重なって見えてくるでしょう。
目次
西郷隆盛とは

西郷隆盛は、幕末から明治初期にかけて活躍し、日本の歴史を大きく動かした政治家・軍人です。薩摩藩の下級武士に生まれ、島津斉彬に見いだされて藩政や国政の中枢に関わるようになりました。
斉彬の死後は実権を握った弟の島津久光と対立し、奄美・沖永良部への流罪を経験します。しかし、召還後は薩長同盟や王政復古に尽力しました。戊辰戦争では江戸城無血開城を実現し、新政府では参議として廃藩置県などの改革を推進したのです。
その後、征韓論をめぐる政変(明治六年の政変)で政府を去り、最終的には西南戦争に身を投じ、鹿児島城山で生涯を閉じました。理想と責任の間で揺れ動いたその生き方は、今なお人々を惹きつけています。*1)
西郷隆盛の生涯
ここでは、西郷隆盛の生涯を年表形式でまとめます。
| 年代 | できごと |
| 1828年 | 鹿児島城下の下鍛冶屋町に生まれる |
| 1844年 | 郡方書役助になる |
| 1850年 | 島津斉彬に農政に関する意見書を提出 |
| 1854年 | 島津斉彬の参勤交代に同行し江戸に向かう |
| 1858年 | 島津斉彬死去。前途に絶望し錦江湾で自殺をはかる →菊池源吾と変名させ、奄美大島に潜伏 |
| 1862年 | 鹿児島に帰還するも、島津久光と対立し島流しにされる |
| 1864年 | 鹿児島に呼び戻され、禁門の変で薩摩軍を指揮して勝利 |
| 1866年 | 坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結ぶ |
| 1868年 | 勝海舟と会談し、江戸城の無血開城に成功 |
| 1873年 | 朝鮮をめぐる外交で大久保利通らと対立して政府を去る |
| 1874年 | 鹿児島に私学校を建てる |
| 1877年 | 西南戦争で敗死 |
ここからは、西郷隆盛のエピソードを紹介します。
下級武士の家に生まれる
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、現在の鹿児島市加治屋町にあたる下加治屋町方限で育ちました。鶴丸城の近くには上級武士が住んでいましたが、甲突川沿いのこの地域には下級武士が多く、生活は決して豊かではありませんでした。
しかし、この一帯からは西郷をはじめ、大久保利通や大山巌、東郷平八郎など、のちに日本を動かす人物が数多く輩出されています。
西郷は藩校・造士館で学ぶとともに、郷中教育の中で人格と責任感を養いました。二十歳前後には下加治屋町郷中の二才頭(にせがしら)に選ばれ、誠意をもって後輩を指導します。後輩たちは西郷のもとに集まり、学問や生き方について教えを受けました。
さらに大久保利通らと論読会を開き、『近思録』や『伝習録』を学ぶなど、学びを共同体で深めました。こうした生い立ちと人との結びつきが、西郷の人望と指導力の土台となったのです。*2)
身長180センチの大柄な体格
西郷隆盛は、身長がおよそ180cmに近いとされる、当時としては非常に大柄な体格の人物でした。平均身長が160cm前後だった江戸末期において、その体つきはひときわ目立ち、写真や遺された衣服からも堂々とした体格であったことがうかがえます。
一方で、壮年期以降は肥満が進み、体重は100kgを超えていたともいわれています。こうした体調を心配した医師から減量を勧められ、西郷は食事量を控えたり、狩りや散歩などで体を動かしたりするなど、健康改善に努めました。
豪放磊落なイメージとは裏腹に、自身の体と向き合い、助言を素直に受け入れる姿勢もまた、西郷隆盛の人柄を示す一面といえるでしょう。*4)
島津斉彬に見出されて表舞台へ
西郷隆盛が歴史の表舞台へ踏み出す大きな転機となったのが、薩摩藩主島津斉彬に見いだされた出来事でした。1844年、西郷は郡方書役助、ついで郡方書役となります。
そのころ、西郷は藩主・島津斉彬に農政についての意見書を提出しました。重い税に苦しむ農民の実情を踏まえた内容であったため、その誠実な提案が斉彬の目に留まったのです。
こうして西郷は側近に抜擢され、一橋慶喜を将軍後継に推す政治運動でも活躍し、名を広く知られる存在となります。下級武士の出身でありながら才能と実行力を評価されたこの出会いが、西郷隆盛の人生を大きく動かしたのです。*6)
島津久光との対立で島流し
島津斉彬が1858年に急死すると、異母弟・島津久光の子である島津忠義が藩主となりました。幼い藩主に代わって実権を握ったのが久光で、彼は「国父」として藩政を動かします。
西郷隆盛は、久光の政治方針をずさんだとして批判的でした。両者の対立が決定的になったのは、西郷が久光の命令に従わず、独断で上京したことがきっかけです。怒った久光は、西郷を徳之島、続いて沖永良部島へと流しました。
重罪人として送られた沖永良部島では、広さ約2坪、戸も壁もない格子牢に入れられ、西郷の体調は次第に悪化します。これを見かねた島の役人が私費で牢を建て直したことで、西郷はようやく回復に向かいました。*8)
西郷の写真は現存していない
西郷隆盛の写真は、現在一枚も残っていないとされています。これは、西郷自身が強い写真嫌いだったためです。明治時代には写真撮影が広まりつつありましたが、西郷は生前、写真に写ることを好まず、正式な肖像写真を残しませんでした。
そのため、1898年に上野公園に建てられた西郷隆盛像も、本人の写真をもとにしたものではありません。原画はイタリア人画家キヨソーネによって描かれましたが、参考にされたのは弟・西郷従道や従弟・大山巌の写真でした。完成した銅像を見た妻のイトが「こんな姿ではなかった」と語ったという逸話は、像が実際の西郷とは異なる印象だったことを物語っています。
このように、西郷隆盛の姿は写真ではなく、人々の記憶や後世の想像によって伝えられてきたのです。*9)
西郷隆盛が行ったこと

西郷隆盛は、明治維新の中心人物として、倒幕から新政府の成立、そしてその後の政治改革まで深く関わりました。ここでは、薩長同盟や江戸無血開城など、西郷が果たした主要な役割を整理します。
薩長同盟を結んだ
西郷隆盛は、倒幕を進めるうえで重要な薩長同盟の成立に深く関わりました。1863年以降、長州藩は列国艦隊の砲撃や幕府の征討を受けて苦しい立場に置かれ、薩摩藩とも激しく対立していました。
しかし、幕府の力が弱まるにつれ、薩摩藩内では討幕を目指す動きが強まり、両藩が協力する必要性が高まります。こうした流れの中、坂本龍馬らの仲介によって、慶応2年1月、京都の薩摩藩邸で会談が行われました。
西郷隆盛は薩摩側の代表として出席し、長州側の桂小五郎と直接話し合います。西郷は過去の因縁よりも日本の将来を重視し、手を結ぶ決断を下しました。その結果、薩長同盟が成立し、明治維新への道が大きく開かれたのです。*10)
江戸無血開城を実現した
西郷隆盛は、事態の推移を冷静に見極め、武力ではなく交渉によって江戸無血開城を実現しました。
1868年、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利すると、徳川慶喜追討のため東征軍が江戸へ進軍し、3月15日には江戸城総攻撃が予定されます。しかし当時の江戸では一揆や打ちこわしが頻発しており、戦闘になれば市民を巻き込む大きな被害が避けられない状況でした。
このまま攻撃を強行すれば、政権交代の名の下に多くの命が失われる――そう判断した西郷は、旧幕府側の代表である勝海舟との交渉を選びます。江戸薩摩藩邸での会談では、徳川慶喜の謹慎と江戸城・軍艦・兵器の引き渡しで合意に達し、総攻撃は中止されました。
その結果、4月11日、江戸城は戦わずして新政府に引き渡され、江戸の町は戦火を免れます。西郷隆盛の判断は、内戦の拡大を防ぎ、日本史上まれな平和的政権移行を実現した重要な転換点となりました。*11)
廃藩置県を断行した
1871年(明治4年)、明治政府が廃藩置県を断行した背景には、版籍奉還後も各藩が実質的な権力を保ち、近代国家としての統一が進まなかったという課題がありました。国を一つの仕組みで治めるには、封建的な藩体制を根本から改める必要があったのです。
そこで政府中枢を担っていた西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、板垣退助らは、強い政治決断を下します。彼らは薩摩・長州・土佐の兵からなる御親兵を背景に、反対を抑えつつ改革を実行しました。
その結果、全国の藩は廃止され、府県制度が整えられ、地方行政は中央から派遣される知事が担う体制へと転換します。廃藩置県は、日本を中央集権国家へ導き、近代化を大きく前進させた歴史的改革だったのです。*12)
明治六年の政変で下野した
1873年(明治6年)、西郷隆盛は朝鮮との国交問題をめぐる対立から、政府の中枢を去りました。この一件を明治六年の政変といいます。朝鮮が日本の開国要求に応じない状況の中で、西郷はまず平和的に事態を解決すべきだと考え、自ら使節として交渉にあたる案を示します。交渉が決裂した場合にのみ武力を用いるという判断でした。
しかし、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らは、対外問題よりも国内改革を優先すべきだとして、西郷の案に反対します。議論の末、西郷の朝鮮派遣は中止されました。
この決定に抗議する形で、西郷は板垣退助らとともに参議を辞任します。こうして西郷は政界を離れ、明治政府は大久保を中心に内政改革を進める体制へと移行していきました。*13)
鹿児島に帰郷し私学校を開いた
明治六年の政変で政府を去った西郷隆盛は、1873年に鹿児島へ帰りました。政界から離れた西郷が心配したのは、仕事や役割を失い、不満を募らせる士族たちが暴発してしまうことでした。そこで翌1874年、西郷は彼らの学びと心の拠り所となる場として「私学校」を開きます。
私学校では、銃や砲の扱いを学ぶ実践的な教育が行われ、市内だけでなく県内各地にも分校が設けられました。県の協力を受けて運営され、多くの士族が集まります。
当初は士族の教育と秩序維持を目的としていましたが、次第に政府に不満をもつ人々の結集点となり、やがて西南戦争へとつながる重要な舞台となっていきました。*14)
西南戦争で敗死した
明治六年の政変で政府を去った西郷隆盛は鹿児島に戻り、私学校を開いて士族の教育にあたりました。しかし、廃刀令や秩禄処分によって士族の生活は不安定となり、全国的に不満が高まっていきます。とくに鹿児島では、西郷への信望のもと反政府的な空気が強まりました。
こうした中、政府が鹿児島にあった武器や弾薬を移送しようとしたことが引き金となり、私学校側は西郷暗殺や弾圧を疑います。不信と緊張が頂点に達し、1877年、西郷は制止しきれないまま挙兵に踏み切りました。
西郷軍は約1万3,000人を率いて熊本城へ進軍しますが、近代的装備を備えた政府軍との戦いは次第に不利となります。田原坂などで激戦が続いた末、劣勢となった西郷軍は鹿児島へ退却し、同年9月、城山で西郷は自決しました。
西南戦争は、士族による最後の大規模な反乱であり、武士の時代の終焉と近代国家日本の成立を決定づけた出来事だったのです。*15)
西郷隆盛とSDGs

西郷隆盛は幕末の偉人として有名ですが、同時に教育に熱心に取り組んだ人物でもあります。ここでは、彼の沖永良部島での活動を取り上げ、SDGs目標4「質の高い教育をみんなに」との関わりについて解説します。
SDGs目標4「質の高い教育をみんなに」との関わり
SDGs目標4「質の高い教育をみんなに」は、立場や環境に左右されず、誰もが学びを通して生きる力を身につけられる社会を目指す考え方です。この視点から見ると、西郷隆盛の行動は、時代を超えて共通する価値をもっていたことが分かります。
西郷は流罪先の沖永良部島で、当初は過酷な環境に置かれましたが、待遇が改善されると、島の若者に読み書きや学問を教え始めました。身分や境遇に関係なく学びの機会を与えた点は、「誰一人取り残さない教育」というSDGs目標4の理念と重なります。
さらに、飢饉に備える社倉法を広め、知識を生活に生かす実践的な学びを伝えました。また、川口雪篷との交流を通じて書や漢詩に親しみ、文化的教養も育んでいます。
西郷の姿勢は、教育が個人だけでなく地域全体を支える力になることを示しており、SDGs目標4を歴史の中から考える手がかりとなるでしょう。*16)
>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから
まとめ
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士として生まれながら、倒幕から明治国家の形成までを支えた人物です。島津斉彬に才能を見いだされて活躍の場を広げ、薩長同盟や江戸無血開城では対立を超えた決断で時代を動かしました。
維新後は廃藩置県などの改革に携わる一方、明治六年の政変で政府を去り、私学校を通じて人材育成に力を注ぎます。西南戦争で敗死するまで、理想と現実の間で苦悩し続けた生涯でした。
その行動や思想は、平和や教育を重んじる姿勢として現代にも通じ、西郷隆盛という人物像を立体的に理解する手がかりを与えてくれます。
参考
*1)山川 日本史小辞典 改定新版「西郷隆盛」
*2)西郷南洲顕彰館「斉彬公との出会い編 saigo’s_episode – 鹿児島市」
*3)日本大百科全書(ニッポニカ)「鹿児島」
*4)鹿児島県大隅加工技術研究センター「薩摩人の身長と健康 ~薩摩隼人・おごじょは大きかった?~ 」
*5)山川 日本史小辞典 改定新版「島津斉彬」
*6)改定新版 世界大百科事典「西郷隆盛」
*7)旺文社日本史事典 三訂版「島津久光」
*8)西郷南洲顕彰館「沖永良部島流罪編」
*9)国立国会図書館「西郷隆盛」
*10)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「薩長同盟」
*11)山川 日本史小辞典 改定新版「江戸開城」
*12)旺文社日本史事典 三訂版「廃藩置県」
*13)山川 日本史小辞典 改定新版「明治6年の政変」
*14)山川 日本史小辞典 改定新版「私学校」
*15)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「西南戦争」
*16)鹿児島県観光連盟「西郷どんの島暮らし」
この記事を書いた人
馬場正裕 ライター
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。