
19世紀後半は科学の世紀といってもよいほど、歴史的な発見が相次いでいた時期です。私たちの生活に欠かせないレントゲンのX線やペスト菌の発見、ディーゼル機関の発明など、歴史を動かす大発見が続きました。
そうした発見の一つが原子に関する研究の進展です。1938年に発見された核分裂は、強大なエネルギーを生み出せることから兵器として用いられます。そして、アメリカのマンハッタン計画で原子爆弾という形で結実してしまいました。
本記事では原爆の仕組みやマンハッタン計画を含む原爆ができるまでの歴史、長崎・広島という2つの被爆地の被害などについて解説します。
目次
原子爆弾とは?簡単に解説

原爆とは原子爆弾の略称で、核兵器の一種です。核兵器とは人為的に核分裂反応を引き起こし、そのエネルギーを利用した爆弾を指します。後に、原爆よりもはるかに強力な水素爆弾が開発されました。
核兵器は、これまでの兵器と比べ物にならない桁違いの威力の爆弾です。第二次世界大戦で主に使われたTNT火薬と比較すると、原爆でTNT火薬の100万倍、水素爆弾は原爆の1,000倍にも及びます。*1)
【子供向け】原子爆弾とは?
原子爆弾とは、とても強い力で大きな爆発をおこす特別な爆弾のことです。「原子」という、とても小さなつぶの力を使ってエネルギーを生み出します。普通の爆弾とちがって、一つの原子がわかれるときに出るたくさんのエネルギーを使って、一気に大きな爆発をおこします。
この爆発は、町を壊したり、火事を起こしたり、人の体に大きなダメージをあたえることがあります。1945年、戦争のときにアメリカが日本の広島と長崎に原子爆弾を落としました。たくさんの人が亡くなったり、けがをしたりして、今でもそのきずあとがのこっています。
原子爆弾の怖さを知ることで、これからは戦争をくり返さないようにすることが大切です。
原子爆弾の仕組み・作った人は誰?アインシュタイン?
ここでは原爆の仕組みについて解説します。
原爆に不可欠な核物質はウランとプルトニウムです。自然界に存在するウランのほとんどは核分裂が起きにくいウラン238ですが、わずか0.7%のウラン235は核分裂を起こしやすいという性質を持っています。
そこで、ウラン235だけを集めるウラン濃縮をおこない、高濃縮ウランをつくりだします。一方、プルトニウムは自然界に存在しない元素であるため、原子炉内でウランに中性子を当てることにより生成されます。
これらを踏まえて、原爆の仕組みを理解するには、原子力発電にも利用されている核分裂反応について理解する必要があります。ここでは、人工的に核分裂反応を起こす原子炉内で起こっている事柄を取り上げます。
【原子炉内の中で起こっている現象】

核分裂を起こしやすいウラン235に人為的に中性子をぶつけると、ウラン235が核分裂反応を起こし、大きなエネルギーと新たな中性子を生み出します。
新たに生まれた中性子が核分裂反応を繰り返すことでエネルギーを生み出し続けるのです。*2)
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そんな原子爆弾は第二次世界大戦中、アメリカで「マンハッタン計画」という極秘プロジェクトによって開発されました。作ったのは多くの科学者たちで、代表的な人物にはロバート・オッペンハイマーがいます。
アインシュタインは直接作ってはいませんが、原子力の理論に関係する手紙をアメリカ政府に送ったことで開発のきっかけを作ったとも言われています。
原子力発電と原子爆弾の違い
核分裂反応を利用しているという点では原子力発電と原爆の仕組みは似ています。しかし、両者は考え方が全く異なります。
【原子力発電と原爆の違い】

両者の違いは2点です。
1点目はウラン235の割合です。核分裂反応を制御する必要がある原子力発電所では、ウラン235の割合は数%に抑えられています。一方、核分裂のエネルギーを最大限利用して爆弾の威力を増したい原爆では、ウラン235の割合がほぼ100%です。
2点目は制御棒の有無です。原子力発電所の場合は核分裂を一定の範囲内で収束させる必要があるため、反応を抑える制御棒を用意します。原爆はその必要がないため、制御棒が用意されておらず、一度始まった核分裂反応が止まることはありません。
【歴史】なぜ原子爆弾(原爆)ができたのか
原爆の歴史は原子に関する研究の成果の中から生み出されました。そのため、原子力開発と原爆は表裏一体のものといえるでしょう。ここでは、原爆開発の歴史や原子力開発との関わりについて解説します。
原子力開発と原爆投下までの歴史年表
原爆と切っても切り離せない関係にあるのが原子に関する研究です。原子に関する研究と原爆誕生までの流れを年表で整理します。
1895年 | レントゲンがエックス線の発見 |
1896年 | キュリー夫妻がポロニウムとラジウムを発見 |
1898~1900年 | アルファ線・ベータ線・ガンマ線の発見 |
1932年 | チャドウィックが中性子の発見 |
1938年 | オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが核分裂を発見 |
1942年 | 核分裂連鎖反応の実証実験開始 |
1942年 | マンハッタン計画始動 |
1945年 7月 | 原爆が完成 |
1945年 8月6日 | 広島に原爆投下 |
1945年 8月9日 | 長崎に原爆投下 |
これを見ると、19世紀末から20世紀前半にかけて、原子に関する研究が急速に進んだことがわかります。ダイナマイトの例でわかるように、突出した技術の多くが軍事分野に転用されてきました。
ダイナマイトを発明したのはノーベル賞を創設したノーベルです。ノーベルはニトログリセリンを安全に使用する技術を開発し、ダイナマイトとして製品化しました。石炭採掘や鉄道・道路のインフラ整備でダイナマイトは非常に役立ちます。
しかし、ノーベルはニトログリセリンを利用した軍用の火薬「バリスタイト」も開発しました。ノーベルが死去したという誤報が流れたとき、新聞は彼のことを「死の商人」として死を報じました。この記事を読んだノーベルは大きな衝撃を受けたといいます。*4)
このように、優れた技術は軍事用に転用することも可能なのです。
核分裂の発見
1932年、チャドウィックが中性子を発見したことで放射能の研究が一気に進みました。さらに、1938年にはオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーがウラン原子の核分裂を確認しました。
この発見は、アインシュタインの有名な公式「E=MC2」とも合致していたため、ウランの核分裂から大きなエネルギーが生み出せると期待されました。*5)
イギリスに亡命していたハンガリー生まれの物理学者シラードは中性子を原子に衝突させ、2個の中性子が飛び出せば、核分裂反応が連続すると考えました。*6)
【核分裂による中性子の放出】

アメリカに移ったシラードやイタリアからアメリカに移っていた研究者のフェルミは核分裂連鎖反応の実験を行い、着々と研究を進めました。*6)
マンハッタン計画
シラードはナチスドイツが核分裂連鎖反応を利用した兵器を手にすることを恐れ、旧知のアインシュタインやフランクリン・ルーズベルト大統領にアメリカ政府も研究に取り掛かるべきだと強く進言します。
ルーズベルトの決断を後押ししたのはアインシュタインの書簡でした。アインシュタインは書簡の中で核分裂の発見により人工的な核分裂連鎖反応を爆弾に応用できるかもしれないこと、ドイツでも研究が進められていることなどを述べています。*6)
シラードらの運動やアインシュタインの書簡を受け、ナチスが核爆弾を手にすることを危惧したアメリカ政府は、核分裂の研究に資金を拠出します。
そして研究が進み、ウランを使った強力な爆弾が製造可能とわかると、本格的な製造研究がスタートしました。*6)
1942年、ルーズベルト大統領は原爆の生産を目的とするマンハッタン計画をスタートさせます。オークリッジで高濃縮ウランの分離、ハンフォードでプルトニウムの生産、ロスアラモスで原爆の組み立てが行われました。*8)
1945年7月16日、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で行われた核実験の成功により、原爆製造のめどが立ちました。そして、ここで実験されたものと同じタイプの原爆「ファットマン」が同年8月9日に長崎に投下され多くの人の命を奪います。
日本に投下された広島と長崎の原子爆弾とその威力
マンハッタン計画では2つのタイプの原爆が研究されていました。1つはトリニティ実験場で使用されたものと同じプルトニウム型の原子爆弾です。
爆弾の中心にプルトニウムを配置し、その周辺にある爆薬を爆発させることでプルトニウムの核分裂連鎖反応を引き起こすタイプで、その見た目から「ファットマン(ふとっちょ)」とよばれました。*9)
もう1つはウラン型の原子爆弾です。細長い金属の筒の両端にウラン235が配置され、爆発の力で2つのウラン235を合体させ、核分裂連鎖反応を発生させる仕組みです。こちらはファットマンよりも小さかったため「リトルボーイ」とよばれました。*9)
これらの爆弾は、1発で通常兵器の何千倍もの破壊力を持ち、放射線による被害も非常に深刻でした。生き残った人々も、放射線による病気や差別に長年苦しむことになりました。
原爆の投下は、日本の降伏を早めたとされていますが、同時に多くの命と未来を奪いました。
長崎に原子爆弾(原爆)が投下された理由と被害
長崎に原子爆弾が投下されたのは、第二次世界大戦の終盤に日本の降伏を早めるためだったとされています。1945年8月6日に広島に原爆を投下した後も日本がすぐに降伏しなかったため、アメリカは「より強い圧力」をかける目的で、8月9日に長崎にも原爆を投下しました。
当初の目標は小倉市でしたが、天候不良や煙の影響で視界が悪かったため、代替目標だった長崎に変更されました。長崎は造船や兵器工場などの軍需産業が発達していたことから、戦略的な意味もあったとされています。
1945年8月9日、長崎は快晴無風の状態でした。その中で、島原半島上空をB29が北進しているとの情報が入りました。そして午前11時2分、異様な閃光とすさまじい爆風が長崎市街を覆いつくしました。
閃光と爆風の原因は、アメリカ軍の爆撃機が長崎上空の高度9,600メートルで投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」でした。原爆が爆発したのは上空約500メートル付近と考えられています。
爆発と同時に数千℃もの高温の火球が発生し、瞬間的に膨張しました。爆発からわずか10,000分の1秒で火球の大きさは30メートル、温度は30万℃に達します。原爆直下の地表は3,000~4,000℃もの高温で焼き尽くされました。
爆発時に発生した巨大なエネルギーは地上のあらゆるものを吸い上げ、上空へと巻き上げました。その時生じたのが原爆の象徴ともいえるきのこ雲です。約8分30秒後、きのこ雲の高さは9,000メートルに達しました。*10)
長崎の原爆被害
長崎市の原爆による被害状況は以下のとおりです。
死者 | 73,884人 |
重軽傷者 | 74,909人 |
人口に対する被災者比 | 約62% |
たった1発の爆弾で都市が壊滅的打撃を受けました。このとき、核分裂反応を起こしたプルトニウムは使用量の約16%でした。*9)
広島に原子爆弾(原爆)が投下された理由と被害
広島に原子爆弾が投下されたのは、第二次世界大戦の終盤、アメリカが日本に早期降伏を促すためでした。1945年8月6日、アメリカは世界初の原爆「リトルボーイ」を広島に投下しました。
広島が選ばれた理由は、当時、軍の拠点や重要な工場が集中していたこと、地形が爆発の威力を最大限に広げやすかったこと、そしてこれまで大きな空襲を受けておらず、「爆弾の効果をはっきり観察できる」と判断されたためです。
1945年8月6日、広島市は快晴で気温がぐんぐんと上昇していきました。そして午前8時15分、爆撃機エノラ・ゲイによってウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が投下されました。投下された原爆は市の上空600メートルで爆発し、まるで小さな太陽のような火球を作り出しました。
中心温度は100万度を超え、見る見るうちに膨張して1秒後には200メートルもの巨大な火球となります。爆発は強烈な熱線と放射能、超高圧の爆風という3つの被害をもたらしました。*12)
広島の原爆被害
広島市の原爆による被害状況は以下のとおりです。
死者 | 約140,000人 |
重軽傷者 | 79,130人 |
人口に対する被災者比 | 約63% |
当時広島に住んでいた人は36万人いましたが、実に4割弱の人が原爆で亡くなり、死者・重軽傷者を合わせると6割もの人が原爆の被害にあった計算になります。
たった1発の爆弾で都市が壊滅的打撃を受けました。このとき、核分裂反応を起こしたプルトニウムは使用量の約16%でした。*9)
原爆に関するよくある質問
ここからは、原爆に関するいくつかの疑問についてQ&A形式で答えていきます。
原子爆弾はなぜ広島と長崎に落とされた?
原爆の投下目標都市は、以下の基準で定められました。
- 直径3マイル(約4.82キロメートル)以上の大規模市街地を有する重要な目標であること
- 爆風で効果的な損害を与えられること
- 8月までに攻撃を受ける可能性が低いこと
上記の条件に当てはまる都市として17都市が選定され、1945年5月11日に京都・広島・横浜・小倉が選ばれました。*13)
1945年7月25日、トルーマン大統領が出した原爆投下命令書によって、最終的に広島・小倉・長崎・新潟が目標とされました。*14)
これらの都市が選ばれたのは造船所をはじめとする軍の重要施設がある場所で、空襲による被害が少なく原爆の効果が確かめやすいからでした。
原子爆弾によって人間やモノはどうなってしまうのか
原爆の被害は爆心地からの距離によって概ね決まります。長崎の事例で説明します。
1キロ以内 | 人間や動物は爆発圧力や熱気で即死 家屋その他の建物は粉砕 爆心地付近は焼失 植物はなぎ倒され炎上 |
2キロ以内 | 人間や動物は一部即死、大部分は重軽傷 建物の80%は倒壊し、各所で火災 コンクリート柱や鉄柱は倒壊しない 植物は一部炎上 |
2~4キロ以内 | 人間や動物は爆風による飛散物で負傷 輻射熱線で一部やけど 家屋半壊、木柱の一部は焼失 |
4~8キロ以内 | 人間や動物は飛散物で負傷 家屋は半壊または一部損壊 |
8~15キロ以内 | 相当な爆風により、家屋の窓ガラスや扉、障子などが破壊 |
また、爆心地に近い広島市の旧住友銀行広島支店の入口階段には腰かけていた人が原爆の強烈な熱線によって焼かれて亡くなったことを示す「人影の石」がありました。
現在は広島平和記念資料館に寄贈されていますが、原爆の威力のすさまじさを物語っています。*16)
原子爆弾の投下場所として小倉が避けられた理由は?
アメリカ軍の九州における目標は小倉に設定されていました。しかし、爆撃機が到達したとき、小倉上空は雲に覆われていました。目視での爆撃を命じられていたため、目視できない小倉は目標から外されました。
長崎も小倉と同じく曇り空でしたが、ほんの少し雲の切れ間がありました。これにより爆撃機は町を目視できたため、原爆を投下したのです。*10)
ただ、天候次第では小倉に投下されていてもおかしくありませんでした。戦争が長引いていた場合に小倉や新潟に第3・第4の原爆が投下される可能性もありました。
原子爆弾の被害を受けた人たちの今は?
原爆の被害を受けた人は「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の対象となり、健康診断や手当の支給などが行われています。*17)被爆者健康手帳が交付されるのは以下の条件を満たした人です。
- 原爆投下時に広島市・長崎市の一定の区域内にいた人
- 原爆投下後2週間以内に一定の区域内に立ち入った人
- 原爆投下時やその後に、身体に放射能の影響を受ける事情にあった人
- 1~3にあてはまる人の胎児だった人
*17)
被爆者健康手帳の所有者のうち、原爆症認定を受けた人は医療特別手当が受けられます。しかし、原爆症の認定基準が厳しいとして複数の裁判が提訴され、そのいくつかで国が敗訴しています。*17)
原子爆弾は現在、禁止されているのか
戦後、原爆の圧倒的な力を知った各国は核兵器開発競争を始めます。こうした状況に危機感を抱いた哲学者のラッセルとアインシュタインは、1955年に核戦争絶滅を訴えるラッセル=アインシュタイン宣言を発します。
1957年には科学者たちがパグウォッシュ会議を開催して核兵器の廃絶を訴えました。1968年の核拡散防止条約(NPT)、1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)などが結ばれますが、原爆がもととなった核兵器は残念ながら禁止されていません。
なぜ原子爆弾は作られた?
原子爆弾が作られたきっかけは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが核兵器の開発を進めているという情報があったことです。これに対抗するため、アメリカは「マンハッタン計画」と呼ばれる極秘プロジェクトを立ち上げ、世界中の優秀な科学者が集められました。
戦争を早く終わらせる目的もあり、日本への投下が決定されました。1945年、広島と長崎に原爆が投下され、数多くの命が失われました。
原爆の開発は科学の力を示した一方で、甚大な被害をもたらし、核兵器の使用に対する倫理的な議論も続いています。
核爆弾と原子爆弾の違いは?
「核爆弾」とは、核エネルギーを使った爆弾の総称であり、「原子爆弾」はその一種です。原子爆弾は、ウランやプルトニウムといった物質の「核分裂」によって大きな爆発を起こします。
一方、「水素爆弾(熱核兵器)」と呼ばれるもう一つのタイプは、「核融合」を使い、原爆よりもはるかに大きな破壊力を持ちます。つまり、すべての原子爆弾は核爆弾ですが、すべての核爆弾が原子爆弾とは限りません。
現在では、水素爆弾のようなより強力な核兵器も存在しており、「核爆弾」という言葉はそれらを含む広い意味で使われています。
原爆とSDGs
広島と長崎に投下された原爆は、両市あわせて21万人以上の人の命を奪いました。しかも、生き残った人々も原爆による健康被害である原爆症によって苦しんでいます。SDGsと原爆のかかわりについて考えてみましょう。
目標16「平和と公正をすべての人に」との関わり
SDGs目標16は、戦争や紛争などの暴力や暴力による死を減らすことを目指しています。
【SDGs目標16の概要】

第二次世界大戦は、日本を含む世界各地で多くの人の命を奪う凄惨な戦いでした。中でも、広島や長崎の原爆投下はたった1発の爆弾で直接戦闘に関わっていない20万人以上の市民が一瞬にして虐殺されたという点で特異な出来事だったといえます。
核兵器がいかに人の命をたやすく奪うものかは、広島や長崎の事例を見れば明らかです。にもかかわらず、世界の大国は核兵器を保有し続けています。そればかりではなく、ロシアのウクライナ侵攻では核兵器使用の可能性まで言及されました。
かつてのように、核兵器を持つ国がアメリカだけではなくなったからには、核兵器の使用は相手からの報復を呼び、互いの国家消滅に結びつきかねません。今一度、日本を含む各国が核兵器の廃絶を目指す動きを起こすべきではないでしょうか。
まとめ
今回は原爆(原子爆弾)をテーマに、原爆の仕組みや歴史、原爆に関する疑問への回答などについてまとめました。
核兵器の保有は自国の安全保障のために必要という考え方もありますが、制御不能になった核兵器の応酬は相手国だけではなく自国も滅亡させてしまいます。
核兵器の使用やそれにつながりかねない地域紛争が激化しないよう、各国の自重が必要なのではないでしょうか。
参考
*1)長崎大学「核兵器/核物質の解説」
*2)エネ百科「原子力発電のしくみ」
*3)エネ百科「【5-1-09】原子力発電と原子爆弾の違い」
*4)NHK「なんでノーベル賞をあげることにしたの?」
*5)日本原子力文化財団「原子力開発の歴史 | 原子力開発と発電への利用」
*6)京都大学複合原子力研究所「放射線ȷ放射能の発見から原爆開発のはじまりまで」
*7)原子力百科事典「核分裂 – ATOMICA –」
*8)原子力百科事典「マンハッタン計画 – ATOMICA –」
*9)京都大学複合原子力科学研究所「ウランとプルトニウム」
*10)ながさきの平和「11時2分」
*11)ながさきの平和「原子爆弾による長崎・広島被害の比較」
*12)広島市「原爆被害の概要」
*13)広島平和記念資料館「5-1-3 広島への投下 | 5-1-3-1 投下目標の検討」
*14)東洋経済オンライン「京都や横浜も原爆投下の有力候補地だった 東京湾や川崎もリストアップされていた」
*15)ながさきの平和「原爆の威力」
*16)広島平和記念資料館「広島平和記念資料館 | 展示を見る | 常設展示 | 2 8月6日のヒロシマ | 2-2 8月6日の惨状 | 2-2-5 人影の石」
*17)参議院「原爆被爆者援護の現状と課題」
*18)スペースシップアース「SDGs16「平和と公正をすべての人に」の現状と日本の取り組み事例、私たちにできること」
この記事を書いた人

馬場正裕 ライター
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。
元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。