徳川家康は何をした人?特徴やエピソードをわかりやすく解説!

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徳川家康は、戦国時代の混乱の中で三河の小大名として岡崎城に生まれました。幼いころは人質として今川家に預けられ、苦難の少年時代を過ごしましたが、その経験が後の忍耐強い性格を育てました。

やがて天下統一を目指して数々の戦を重ね、関ヶ原の戦いで勝利をおさめ、江戸幕府を開くことで日本に長い平和をもたらしました。晩年は大御所として政治の中心に立ち、武家諸法度や禁中並公家諸法度などの制度を整えて国の基盤を築きました。死後は日光東照宮にまつられ、神として崇められています。

戦の時代を終わらせ、約270年の平和を実現した家康の歩みは、現代のSDGsが掲げる「平和と公正をすべての人に」という目標にも通じるものがあります。この記事では、そんな家康の人物像と功績をわかりやすく紹介します。

徳川家康とは

徳川家康は、戦国の乱れた世を終わらせ、江戸幕府を開いた日本の戦国大名です。1542年に三河の岡崎城で生まれ、幼いころから人質として織田家や今川家で過ごし、忍耐強さを身につけました。今川義元の死後に独立し、織田信長と同盟を結んで三河を治め、のちに勢力を拡大します。

豊臣秀吉の死後には全国の実権を握り、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成らを破って天下を統一しました。1603年には征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いて約270年続く平和の時代の土台を築きます。

将軍職を子の秀忠に譲った後も政治の中心として活躍し、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしました。1616年に駿府城で亡くなり、のちに日光東照宮で神としてまつられました。

徳川家康の幼少期と今川氏からの独立

徳川家康は1542年、三河の岡崎城で生まれ、幼名を竹千代といいました。父は城主の松平広忠、母は刈谷城主・水野忠政の娘である於大の方です。

3歳で母と別れた家康は、幼いころから戦乱に翻弄されました。6歳のとき今川家へ人質として送られる途中に織田方に捕らえられ、尾張で過ごすことになります。その後、人質の交換で駿府に移され、今川義元のもとで少年期を過ごしました。

駿府では文化的に優れた今川氏のサロンで学び、やがて今川義元の信頼を得て元服し、元信と名を改めます。16歳で今川家の一族の女性と結婚し、初陣を果たしました。

1558年ごろには今川義元の元の字をもらって元康と名乗りを変え、今川家の家臣として戦に参加します。しかし、桶狭間の戦いで義元が討たれると、家康は自らの力で岡崎へ戻り、独立を果たしました。

家康の性格は?

徳川家康の性格は、「人を大切にする誠実さ」と「信念を貫く強い意志」を併せ持つ点に特徴があります。

一つ目は、豊臣秀吉に「お前の宝は何か」と問われたときのエピソードです。家康は、自分は田舎の美川出身であるため、秘蔵の宝は持っていないと述べたうえで、「我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり」と答えました。

自分のために命を惜しまないものが五百騎ばかりいることを述べ、之が自分の宝だと自慢したのです。

家康が家臣を単なる従者ではなく、自らの支えとして心から信頼していたことがわかります。彼は権力や財宝を誇るのではなく、人の忠義を何よりの財産と考え、家臣との絆を最も重んじました。この姿勢は、長く続く幕府の安定を築いた要因のひとつといえるでしょう。

一方、「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし」という言葉も残しています。家康にとって最も恐ろしい敵といえば武田信玄です。信玄が家康の居城である浜松城を無視して家康の本拠地である三河に攻め込もうとした時、出撃することを決めて述べた言葉でした。

この言葉には、逆境に屈せず信念を貫く強さが表れています。強敵・武田軍を前にしても退くことを拒み、領民を見捨てなかった家康の姿勢は、誇りと責任感に満ちています。たとえ敗戦を覚悟しても、自らの義を通す姿は、彼の粘り強さと覚悟の深さを示しています。

この二つの逸話から、家康は冷静でありながらも情に厚く、周囲への思いやりと揺るぎない信念を兼ね備えた人物だったことが伝わります。*4)

大御所としての晩年

徳川家康は1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲り、自らは「大御所」として政治の実権を握り続けました。この決断は、将軍職を徳川家が世襲する仕組みを世に示すとともに、自身の死後に起こり得る家中の争いを防ぐためのものでした。家康は2年後に駿府城へ移り、表向きは隠居の形を取りながらも、幕府の中心人物として全国の政治や外交を動かしました。

大御所時代の家康のもとには、政治家の本多正信正純父子をはじめ、儒学者の林羅山、僧侶の金地院崇伝、大工棟梁の中井正清、商人の茶屋四郎次郎、外交顧問の三浦按針など、多様な人材が集まりました。家康は彼らを顧問として政策決定に活用し、学問や技術、経済の力を政治に取り入れた点が特徴です。

さらに、大坂の陣(1614~1615年)では、名目上は秀忠が総大将でしたが、実際の指揮と方針は家康が主導しました。こうして家康は、将軍を支える“陰の最高権力者”として、徳川体制の安定を確かなものにしていきました。*2)

家康の死因は胃がん?死後は神としてまつられる

徳川家康は、1616年(元和2年)に75歳で生涯を閉じました。最晩年の家康は、京都に滞在して武家諸法度や禁中並公家諸法度といった国の基本方針を定め、幕府の支配体制を固めたあと、駿府へ戻ります。

その後、病に倒れ、駿府城で静かに最期を迎えました。病の原因については、京都で食べた鯛の天ぷらが引き金となった急性の腹の病と伝えられています。しかし、近年の研究では胃や胆のうの腫瘍などの持病が悪化した可能性が高いと考えられています。

家康の死後、朝廷から「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号が贈られ、久能山に葬られたのち日光山に改葬されました。この神号は「国家を守る神」としての意味を持ち、家康が築いた政治体制を永続させる象徴となりました。

以後、江戸幕府の将軍たちは家康を「神」として敬い、家康の時代を理想とする政治を目指しました。とくに8代将軍徳川吉宗が唱えた「権現様の世を再び」という言葉は、家康の存在が死後も政治的・精神的支柱であり続けたことを示しています。

徳川家康が行ったこと

徳川家康は、戦国の混乱を終わらせ、日本に長い平和をもたらしました。天下統一を果たし、江戸幕府を開いて新しい政治の仕組みを整えたことで、約270年続く安定した時代の基礎を築きました。

関ヶ原の戦いに勝利

関ヶ原の戦いは、1600年に現在の岐阜県で起こった、日本の歴史を大きく変えた決戦です。豊臣秀吉の死後、政治の中心であった豊臣政権は不安定になり、徳川家康がその中で力を伸ばしていきました。

一方、秀吉に仕えていた石田三成は、家康の動きを危険視し、豊臣家を守るために反徳川勢力をまとめます。こうして、家康を中心とする東軍と、三成らの西軍が対立することになりました。

戦いは1600年9月15日、関ヶ原の地で始まりました。両軍の兵力はほぼ同じでしたが、西軍は統率がとれず、指揮官同士の意見もまとまりませんでした。さらに、戦いの途中で西軍の小早川秀秋が家康側に寝返ったことで形勢が一気に傾き、西軍は総崩れとなりました。

勝利した家康は、三成ら西軍の中心人物を処刑し、敵対した大名の領地を没収しました。その結果、家康の勢力は全国に及び、豊臣家の力は大きく弱まりました。この戦いをきっかけに、家康は実質的に日本の支配者となり、後の江戸幕府の開幕へとつながりました。*5)

江戸に幕府を開く

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。これによって、鎌倉の源頼朝以来となる武家政権の最高権力者となり、日本全国の大名をまとめる立場に立ちました。

家康は江戸の町づくりを進め、全国の諸大名に工事を命じて街を整備し、政治と経済の中心地として発展させていきます。また、3代将軍家光の時代には大名に江戸へ屋敷を構えさせ、定期的に将軍へ拝謁する「参勤」の制度を設けることで、幕府への忠誠を形として示させました。

さらに、全国の土地を調べさせ、地図や土地台帳を提出させたことで、統治の仕組みを全国に行き渡らせます。こうして家康は、戦乱の世を終わらせ、秩序と安定を重んじる政治を実現したのです。

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼす

大坂の陣は、徳川家康が豊臣家を滅ぼし、日本全国の支配を確立した戦いです。戦いは1614年の「冬の陣」と翌1615年の「夏の陣」の2度に分かれて行われました。豊臣秀吉の死後、家康は政治の実権を握り、やがて豊臣家の勢力を完全に排除しようと動きます。

きっかけとなったのは、方広寺の大仏の鐘に刻まれた文字が不吉だと家康が問題視した「方広寺鐘銘事件」でした。これを理由に家康は豊臣方を挑発し、両者の対立は決定的となります。

1614年、家康は全国の大名を動員して大坂城を包囲しましたが、攻め落とせず、いったん和睦が結ばれます。しかし家康は約束を破り、城の堀を埋めて防御力を奪いました。

翌年、再び戦が始まり、豊臣軍は城外での決戦を選びますが、徳川軍の圧倒的な兵力の前に次第に劣勢となります。1615年5月7日、大坂城はついに落城し、秀頼と母の淀殿は自害しました。これによって豊臣家は滅び、家康の天下統一が完全に実現しました。この戦いを境に、日本は約270年にわたる平和の時代へと進んでいきます。*6)*7)

武家諸法度を制定

徳川家康は1615年、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした直後に「武家諸法度」を制定しました。これは全国の大名を統制し、平和な世の中を保つための基本的なきまりです。伏見城に諸大名を集めて発布されたこの法は、家康の命により僧侶の金地院崇伝がまとめたもので、13か条から成り立っていました。

その内容は、学問や武芸の修行を怠らないこと、城を修理するときは幕府に報告すること、他家との婚姻は将軍の許可を得ることなど、政治と秩序を守るための具体的な指示が中心です。

これにより、大名が勝手に軍を起こしたり同盟を結んだりすることを防ぎ、幕府の支配を安定させました。この法度はその後の将軍にも受け継がれ、時代に合わせて改訂されながら、江戸時代を通じて武家社会の基本的なルールとなりました。*8)*9)

禁中並公家諸法度を制定

徳川家康は1615年、大坂の陣の直後に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定しました。これは、朝廷や貴族の行動を定め、幕府が政治の主導権を確立するための法令です。

家康は京都の二条城で将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実と連名で発布し、朝廷の代表者に読み聞かせて施行しました。

全17か条からなり、第一条では「天皇は学問を第一とすべき」と定め、知と徳を重んじる理想を示しました。さらに、公家の昇進基準や親王・大臣の序列、関白や伝奏の役割を明確にし、朝廷運営の仕組みを整えました。

この法令によって、天皇の役割が文化や儀式の分野に限定され、幕府が国家の政治を統制する体制が完成しました。

徳川家康とSDGs

徳川家康は「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる戦のない時代を実現し、長く続く平和を築きました。これは、現代のSDGs目標16「平和と公正をすべての人に」に通じる取り組みといえます。

SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」との関わり

徳川家康は、1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる戦のない時代を実現しました。「偃武」とは武器をおさめることを意味し、長く続いた戦国の混乱を終わらせた出来事です。

この戦いののち、家康は全国の大名を統制する仕組みを整え、「一国一城令」や「武家諸法度」を制定して、再び戦が起こらないようにしました。これにより、武力ではなく法と秩序による統治が確立され、約270年にわたる平和な江戸時代が始まりました。

このような家康の平和政策は、現代のSDGs目標16「平和と公正をすべての人に」が掲げる理念と重なります。争いを終わらせ、公正で安定した社会を築こうとした家康の政治は、持続可能な平和の実現を目指す現代の取り組みに通じるものです。

>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

今回は、徳川家康が何をしたかを中心に解説しました。家康は、戦乱の時代を終わらせ、約270年にわたる平和な世を築いた人物です。関ヶ原の戦いで天下を統一し、江戸幕府を開いて新しい政治の仕組みを整えました。

また、武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定し、武士や朝廷の秩序を定めることで安定した統治を実現しました。さらに、大坂の陣を経て戦のない時代「元和偃武」を実現し、日本に長い平和をもたらしました。

家康の築いた社会は、法と秩序を重んじ、人々が安心して暮らせる仕組みを整えた点で、現代のSDGs目標16「平和と公正をすべての人に」と深く通じるものがあります。家康の政治理念は、時代を超えて「持続可能な平和」の原点として学ぶ価値があるといえるでしょう。

参考
*1)山川 日本小史事典 改定新版「徳川家康
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「徳川家康
*3)百科事典マイペディア「徳川家康
*4)浜松市公式ページ「浜松時代の家康公を学ぶ
*5)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「関ヶ原の戦い
*6)改定新版 世界大百科事典「大坂の陣
*7)山川 日本史小辞典 改定新版「大坂の陣
*8)山川 日本史小辞典 改定新版「武家諸法度
*9)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「武家諸法度

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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