クリミア戦争とは?原因や結果、日本への影響も

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19世紀半ば、ヨーロッパとアジアの歴史を大きく変えたのがクリミア戦争でした。「なぜロシアが敗北したのか?」「日本の開国とどう関係しているの?」と疑問に思われている方もいるかもしれません。

クリミア戦争は、ロシアの南下政策とオスマン帝国の衰退を背景に、聖地の管理権をめぐる対立から発生しました。ナイチンゲールが近代看護の基礎を築いたことでも知られるこの戦争は、ロシアの敗北で終わりました。

この敗北がロシアの国内改革のきっかけとなりましたが、同時にロシアの関心をアジア方面へ向けさせる転機ともなりました。日本にとっては、ロシアの東アジア進出と欧米列強の開国圧力が強まる重要な背景となったのです。

この記事では、クリミア戦争の原因から結果まで、そして幕末日本への影響を詳しく解説します。

クリミア戦争とは

クリミア戦争とは、1853年から1856年にかけて、ロシア帝国とオスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国の連合軍との間で行われた大規模な戦争です。*1)

最大の激戦地となった場所がクリミア半島のセバストボリ要塞であったため、クリミア戦争と呼ばれます。

ロシアが敗北

クリミア戦争の主な戦いはクリミア半島のセバストポリ要塞で行われました。イギリスやフランスなどの連合軍が長い間ロシア軍を取り囲み、激しい戦いが続きましたが、最終的には、連合軍の物量の前にロシアは敗北します。

1856年にパリで結ばれた条約で黒海を軍事的に使わないことなどの条件を受け入れました。この戦争に負けたことで、ロシアの南方への勢力拡大計画は失敗し、国の技術や制度が遅れていることが明らかになりました。そのため、ロシアは国内の仕組みを大きく変える改革を進めなければならなくなりました。

ナイチンゲールが活躍

クリミア戦争において活躍した有名人に、ナイチンゲールとトルストイがいます。

ナイチンゲールは、イギリスの富豪の家に生まれた人物です。クリミア戦争中の野戦病院で改革を行いました。患者の立場に立った看護と衛生管理を実践し、わずか数か月で死亡率を大きく低下させたのです。

この献身的な活動から「クリミアの天使」と呼ばれて賞賛されました。彼女の功績は、のちの赤十字設立にも影響を与え、帰国後は看護学校を設立して、現代の看護教育の基礎を築きました。

クリミア戦争はなぜ起きたのか

クリミア戦争はロシアや東ヨーロッパ、トルコの歴史に大きな影響を与えた戦争です。ロシアとオスマン帝国の対立が基本ですが、オスマン帝国にイギリス・フランスなどが味方したことで大戦争に発展しました。ここでは、クリミア戦争の流れや戦争に至る流れについて解説します。

クリミア戦争の流れ

年代できごと
1774年第一次露土戦争で勝利したロシアがオスマン帝国内のギリシア正教徒の保護権を得る
1783年ロシアがクリム=ハン国を滅ぼし、クリミア半島を支配
1853年7月ロシアのニコライ1世がオスマン帝国に宣戦布告
1854年3月イギリス・フランスがロシアに宣戦布告
1854年9月イギリス・フランスがセバストポリ要塞を包囲
1855年1月サルデーニャ王国がイギリス・フランスに味方する
1855年9月セバストポリ要塞が陥落
1856年3月パリ条約締結でロシアの敗北が確定

オスマン帝国の衰退

19世紀のオスマン帝国は、長年にわたる対外戦争での敗北や内部の混乱によって徐々に衰退していました。特に、バルカン半島など支配下の諸民族による独立運動が活発化し、領土の分離や縮小が進みました。

こうした状況を「東方問題」と呼び、イギリス、フランス、ロシア、オーストリアなどヨーロッパ列強がオスマン帝国の弱体化に乗じて中東やバルカン地域への進出や介入を強め、国際的な争いの舞台となりました。*3)

ロシアの南下政策

クリミア戦争の背景には、ロシアの伝統的な国策である「南下政策」がありました。南下政策とは、帝政ロシアが17世紀末から進めた南方への勢力拡大計画のことです。エカチェリーナ2世の時代に2回のトルコとの戦争に勝利し、クリミア半島周辺を併合して黒海に進出しました。

19世紀にも黒海やバルカン半島への拡大を続け、1828年から29年のトルコとの戦いでドナウ川沿いや黒海沿岸の土地を手に入れました。しかし、クリミア戦争での敗北とパリ条約によって、ロシアの南下政策はストップすることになりました。*4)

聖地管理権問題を口実にロシアが宣戦布告

ロシア帝国は、エルサレムなどの聖地管理権をめぐる問題を口実にオスマン帝国と対立しました。もともと聖地の管理権はフランスが持っていましたが、ナポレオン3世がオスマン帝国に圧力をかけてカトリック側の管理権を回復させたことにロシアが反発しました。

ロシア皇帝ニコライ1世は「ギリシア正教徒の保護」を名目にオスマン帝国に同盟を申し入れましたが拒否され、1853年、ロシアはこの聖地管理権問題を口実としてオスマン帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が始まりました。*5)

イギリス・フランスがロシアの南下政策を阻止するため参戦

クリミア戦争では、ロシア帝国が黒海から地中海へ勢力を広げようとする動きに対し、イギリスとフランスがオスマン帝国(トルコ)の味方として戦いに加わりました。

イギリスは、ロシアが南へ進出するとインドへの重要な航路が危険にさらされることを心配していました。一方フランスも、ロシアの力が強くなりすぎることを防ぎ、国際社会での発言力を高めたいという思惑がありました。

このように両国は、ロシアの南下政策を止めるためにオスマン帝国を支援し、自国の利益を守るために連合軍として参戦したのです。中東やバルカン地域での影響力争いが、この戦争の背景にありました。*6)

サルデーニャ王国の参戦

サルデーニャ王国がクリミア戦争に参加した理由は、イタリア統一を目指すうえで国際的な地位を高め、イギリスやフランスとの関係を強化するためでした。

首相カヴールは、クリミア戦争への参戦によって英仏に接近し、イタリア統一運動への支援を取り付けることを狙いました。その結果、サルデーニャ王国は国際社会での発言力を高め、後のイタリア統一戦争においてフランスの協力を得る土台を築くことに成功しました。

パリ条約締結

クリミア半島の重要拠点であるセバストポリ要塞が陥落したことで、ロシア軍は戦争継続が困難となりました。そのため、1856年にパリ条約が締結され戦争が終結します。

この条約では、オスマン帝国(トルコ)の独立と領土が守られ、他国による内政干渉が禁止されました。その代わりトルコは国内の全ての人々に平等な権利を与える約束をしました。

ロシアは一部の領土をトルコやモルドバに譲り、黒海は軍事活動のない中立地帯となりました。また、海峡の通行規制が維持され、ドナウ川の自由航行のための国際委員会が設けられました。これにより、ロシアの南方への勢力拡大は一時的に食い止められました。

クリミア戦争の影響

クリミア戦争の影響は、敗北したロシアにおいて農奴解放を含む近代化のための国内改革が始まるきっかけとなりました。一方、フランスと共に戦ったサルデーニャ王国は国際的な存在感を高め、後のイタリア統一運動において重要な役割を果たすことになります。この戦争は、欧州の政治地図を大きく塗り替える転換点となりました。

ロシアで国内改革がスタート

クリミア戦争で敗北した後、ロシアでは「大改革」と呼ばれる一連の国内改革が始まりました。これは1860年代前半、皇帝アレクサンドル2世のもとで進められたもので、中心となったのは1861年の農奴解放令や1864年の地方制度改革(ゼムストボ)などです。さらに、司法制度や教育制度、軍制度、都市制度など幅広い分野で近代化が図られました。

この改革は、専制的な身分制度を解体し、自由主義的な原則に基づく近代国家への転換を目指したものでした。しかし、こうした改革に国内の貴族らが反発したため、改革は不徹底に終わりました。*7)

サルデーニャ王国の国威が高まった

クリミア戦争で勝利したサルデーニャ王国は、新たな領土は得られませんでしたが、イギリスやフランスとの関係が良くなり、国際的な評価が上がるという大きな成果を得ました。

特にフランスとの関係改善は、イタリア統一を目指していたサルデーニャ王国にとって重要な支えとなりました。これによって、サルデーニャ王国はその後のイタリア統一戦争の準備を整え、ヨーロッパでの発言力も強くなりました。

クリミア戦争は日本にどのような影響を与えたか

クリミア戦争は、日本にも大きな影響を与えました。この戦争でヨーロッパ方面での拡大が阻まれたロシアは、代わりに日本を含むアジア地域への進出を強めました。

また、世界情勢の変化により、アメリカやイギリスなど西洋諸国からの日本開国を求める外交的な圧力も一層強くなりました。これらの動きは、江戸時代末期の日本の鎖国政策の見直しを促すことになります。

ロシアがアジア方面で南下した

クリミア戦争で負けたロシア帝国は、ヨーロッパでの拡大が難しくなったため、アジアへの進出を強めるようになりました。

1858年と1860年に清朝(中国)と結んだ条約によって、ロシアはアムール川より北の土地や日本海に面した地域を手に入れました。そして日本海沿岸にウラジヴォストーク(ウラジオストク)という港町を建設し、中国東北部や朝鮮半島への影響力も拡大していきました。*8)*9)

このロシアの動きは、江戸時代末期の日本にも大きな影響を与えました。日本はロシアが南へ勢力を広げることに強い警戒感を持つことになったのです。

また、明治維新後は朝鮮半島や中国東北部をめぐってロシアとの対立が深まり、これが後の日露戦争につながる原因の一つとなりました。このように、クリミア戦争の結果は、遠く離れた日本の外交にも大きな影響を及ぼしたのです。

欧米による開国圧力が強まった

クリミア戦争後、ヨーロッパでの拡大を断念したロシアは東アジアへの進出を強め、これが日本への開国圧力の高まりにつながりました。

実はロシアによる日本への接触は早くから始まっており、1853年にアメリカのペリー提督が浦賀に来航する前年には、ロシアのプチャーチン提督が長崎に来航して開国を求めていました。さらにアメリカからはビットル艦長も日本を訪れており、欧米列強による日本開国への競争が激化していたのです。

クリミア戦争後、ロシアの東アジア進出はさらに過激になり、1861年には「対馬占拠事件」が起きました。ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に勝手に上陸し、拠点化しようとしたのです。この事件はイギリスの介入で解決しましたが、日本にとっては外国の脅威を直接感じる衝撃的な出来事でした。*10)

このように、クリミア戦争はロシアの東アジア政策を変化させたのです。各国は自国の利益を守るため、競うように日本に接近し、結果として幕末日本への開国圧力は一層強まったのです。この国際情勢の変化が、日本の鎖国政策終焉の重要な背景となりました。

クリミア戦争とSDGs

クリミア戦争でナイチンゲールが取り組んだ野戦病院の衛生環境改善や看護ケアの確立は、当時の兵士の命を救っただけでなく、近代看護の基礎を築きました。ここでは、ナイチンゲールの活動とSDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」との関わりについて解説します。

目標3「すべての人に健康と福祉を」との関わり

ナイチンゲールのクリミア戦争での活動は、今日のSDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」と関連があるものです。

1854年、彼女は看護師たちを率いてトルコの軍病院に赴き、不衛生な環境を改善しました。病院の掃除や換気の確保、清潔な下着や石鹸の提供など、基本的な衛生管理を徹底したのです。

この取り組みにより、病院の死亡率は大幅に下がり、多くの兵士の命が救われました。また、ナイチンゲールは数字を使って医療現場の問題を明らかにし、証拠に基づく医療の重要性を示しました。

彼女の活動は戦争だけにとどまらず、その後の病院設計や看護教育の発展につながり、世界中の医療の質を高めました。

「すべての人が適切な医療を受けられるべき」という彼女の信念は、まさに今日のSDGs目標3が目指す「誰もが健康で幸せに暮らせる社会」と深くかかわっているのです。


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まとめ

今回はクリミア戦争について解説しました。19世紀半ばに起きたこの戦争は、ロシアの南への勢力拡大政策とオスマン帝国の弱体化を背景に、宗教的な聖地の管理権をめぐる対立から始まりました。

イギリスやフランスがオスマン帝国側に立ち、ロシアは敗北しました。この戦いではナイチンゲールが病院環境を改善し、多くの兵士の命を救った功績が有名です。

敗北したロシアは国内の近代化改革を始める一方、東アジアへの進出を強め、日本への開国圧力が高まりました。クリミア戦争は、ヨーロッパの勢力図を変えただけでなく、遠い日本の歴史にも大きな影響を与えた重要な出来事です。

<参考文献>
*1)デジタル大辞泉「クリミア戦争
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「クリミア戦争
*3)改定新版 世界大百科事典「東方問題
*4)山川 世界史小辞典 改定新版「南下政策
*5)旺文社世界史事典 三訂版「聖地管理権問題
*6)改定新版 世界大百科事典「クリミア戦争
*7)改定新版 世界大百科事典「大改革
*8)日本大百科全書「アイグン条約
*9)山川 世界史小辞典 改定新版「北京条約
*10)改定新版 世界大百科事典「ロシア軍艦対馬占領事件

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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