東京都千代田区有楽町の第一生命館は、戦後にGHQの本部が置かれたことで知られています。第二次世界大戦後に日本にやってきたマッカーサーは、GHQのトップとして第一生命館で日本の占領政策を行います。
彼が日本政府に指示して行わせた政策は、その後の歴史に大きな影響を与えるものでした。
今回はGHQがどのような組織だったのか、具体的に出した指示はどのようなものだったのか、いつ廃止されたのかについて解説します。また、GHQについてのよくある質問やSDGsとの関わりについても解説しますので、ぜひ参考にしてください。
GHQとは

GHQとは、General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powersの略称です。日本語では、「連合国軍最高司令官総司令部」と訳されます。
アメリカのマッカーサー元帥が連合国軍最高司令官に任命され、GHQが東京に設置されました*1)。
基本方針は日本の非軍事化と民主化
戦後、日本を占領統治したGHQの一番大切な目標は、この国から戦争の力をなくす非軍事化と、国民が主役の政治に変える民主化でした。
戦争の力をなくすため、責任者を裁く裁判が開かれました。これが極東国際軍事裁判(東京裁判)です。さらに、戦時中に重要な役職についていた人たちを公の仕事から追い出す「公職追放」も行われました*3)。
また、国民が主役の政治にするため、戦前の考え方や仕組みを大きく変えました。たとえば、天皇は国の象徴となり、女性も選挙で投票できるようになりました。GHQは日本政府に対して、こうした新しい制度をつくるように指示し、実行させたのです*3)。
日本がGHQが設置された背景

GHQは、ポツダム宣言を受け入れた日本を統治するために設置されました。ここでは、なぜ、GHQが設置されたかについて解説します。
降伏した日本を占領統治するため
GHQの設置目的は日本を占領し、統治することです。
1945年8月14日、日本は戦争に負けて降伏しました。この時、日本はアメリカなどの国々が出した「ポツダム宣言」を受け入れ、長かった第二次世界大戦が終わりました。
戦後、アメリカを中心とする国々は日本を支配することになりました。そのために、GHQを作りました。しかし、GHQが一方的に命令するだけでは、日本を上手く占領することは困難です。そこで、日本政府や天皇には今までどおり存在してもらい、GHQが日本政府に指示するようにしたのです。
GHQは具体的に何をした?
GHQが日本政府に指示した政策は数多くあります。ここでは、極東国際軍事裁判所の設置と日本の民主化、日本国憲法の草案作成の3つについて解説します。
極東国際軍事裁判所の設置
先述したように、第二次世界大戦が終わった後、日本の戦争指導者たちを裁くための裁判が開かれました。これは「東京裁判」とも呼ばれています。
戦勝国のアメリカなどが中心となって、日本の戦争の責任を問う裁判を行いました。裁判の結果、25人が有罪と判断され、そのうち、戦時中に首相だった東条英機を含む7人に、最も重い刑である死刑が言い渡されました*。
日本の民主化を行った
GHQは、軍国主義的な要素や封建的体制を排除するため、数多くの政策を日本政府に指示しました。主なものは以下の通りです。
- 財閥解体
- 農地改革
- 労働組合法の制定
- 教育の民主化
それぞれの内容について詳しく見てみましょう。
財閥解体
財閥解体とは、第二次世界大戦後に、日本の巨大な会社グループである「財閥」をばらばらに分割した出来事です。戦前の日本では、三井、三菱、住友、安田といった財閥の一家が、たくさんの会社を持っていました*。
戦争に負けた日本を占領したアメリカ軍は、一部の会社や家族が強い力を持ちすぎているのはよくないと考えました。そこで1945年11月、これらの大きな会社をばらばらにするように命令しました。
財閥の家族が持っていた会社の株は、一般の人々に分けられました。また、会社同士が協力して値段を決めたり、商品の量を調整したりする「カルテル」も禁止されました。そのために「独占禁止法」という新しい法律もできました。
しかし、アメリカの考え方が変わったこともあり、財閥解体は途中で止まってしまいました。それでも、この改革によって日本の会社のしくみは大きく変わることになりました。
農地改革
農地改革とは、大地主から農地を取り上げ、実際にその土地で働いている人(小作人)に農地を分け与える改革です*7)。
戦前の日本では、多くの農地を持つ地主が農民から高い小作料を取っていました。そのため、農民は貧しい生活を強いられていたのです。そこでGHQは、この不公平な状況を改善するため、1945年に日本政府に農地改革を実施するよう指示しました。
改革の内容は以下の通りです。
- 地主の農地を政府が買い取り、実際に耕している農民に安い価格で売り渡す
- 農地を所有していても自分で耕さない地主(不在地主)からは、全農地を買い取る
- 自分で耕している地主でも、一定の広さを超える土地は政府が買い取る
政府は、買い取った土地を小作人たちに安く販売しました。
農地改革により、日本全国の小作地のほとんどが農民の所有する土地となりました。その結果、それまで農村で強い力を持っていた地主の力は弱まり、多くの農民が自分の土地で農業ができるようになりました。
労働組合法の制定
GHQは労働組合の結成も奨励しました。
第二次世界大戦の間、日本の労働組合は政府に活動を押さえつけられていました。しかし、戦争が終わった後、アメリカを中心とする連合国軍(GHQ)が、労働者の権利を守るため、労働組合の活動を認めました*9)。
そして「労働三法」という、働く人たちの権利を守る3つの法律ができたことで、労働組合は再び活動できるようになりました。
教育の民主化
GHQは、戦争を良いものとする「軍国主義教育」を改めようとしました。そのために、教科書の中で戦争をほめたたえるような文章を、黒く塗りつぶした「黒塗り教科書」が使われました*10)。
神道(神社の宗教)についての勉強や、道徳にあたる修身、そして日本史と地理の授業も、一時的に行うことができなくなりました。その後、日本史と地理の授業は、GHQの許可を受けて復活しました。
また、現在の学校教育の仕組みである小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の仕組み(六・三・三・四制)の土台が作られたのもGHQの指示によるものでした*11)。
日本国憲法の草案作成
1945年10月、連合国軍最高司令官のマッカーサーは、日本政府に「もっと自由な新しい憲法をつくりなさい」と指示しました。
当時の首相だった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を中心に新しい憲法案を作り、連合国軍(GHQ)に提出しました。しかし、この案はGHQに認められませんでした。
それだけではなく、GHQは、自分たちで新しい憲法の案(マッカーサー草案)を作り、日本政府に渡しました。この案には、次の3つの大切な内容が含まれていました。
- 天皇は日本の象徴として残すけれど、国の主人公は国民とすること(国民主権)
- 戦争をしないこと(戦争放棄)
- 古い身分制度をなくすこと(封建制の廃止)
*12)
日本政府は、このGHQの案をもとに新しい憲法案を作り、国会で話し合って決めました。これが今の日本国憲法になったのです。
GHQが廃止された理由
日本の占領を行っていたGHQは、1952年に廃止されます。GHQの廃止は占領の終了を意味していました。ここでは、日本占領を終わらせ、GHQの廃止につながったサンフランシスコ平和条約について解説します。
サンフランシスコ平和条約が発効したから
サンフランシスコ平和条約とは、1951年9月8日に日本と連合国が結んだ第二次世界大戦の講和条約です。この条約では、以下のことが決められました。
- 朝鮮の独立を認める
- 台湾や千島列島、南樺太を放棄する
- 沖縄と小笠原諸島はアメリカが支配する
- 占領軍の撤退
- 連合国に対する賠償
*13)
GHQに直接かかわるのは、4つ目の占領軍の撤退です。この条約で、アメリカを中心とする占領軍は1952年4月28日に撤退することが正式に決定しました*13)。そのため、GHQも廃止されることが決まったのです。
GHQに関してよくある疑問
ここからは、GHQに関するよくある質問を3つとりあげます。
GHQがいなければ日本は良くならなかった?
GHQの影響には、良かった点と悪かった点の両方がありました。
【良かった点】
- 戦争を起こさない国づくりを進めた
- 民主主義の国にするための改革を行った
- 経済を立て直すのを手伝った
- 新しい教育制度を作った
- 農家の人々が自分の田んぼや畑を持てるようになった
- 大きな会社(財閥)の力を弱めた
- 女性も選挙で投票できるようになった
【悪かった点】
- アメリカのやり方を日本に押しつけすぎた面があった
- 日本の伝統や文化と合わないこともあった
- 新聞やラジオなどの報道を厳しく管理した
このように、GHQの政策は日本に大きな変化をもたらしましたが、その全てが良いものだったとは言えないのです。
GHQが禁止したものって何?
GHQは、新聞や出版活動を制限する規則(プレスコード)を出して、連合国や占領軍についての不利な報道を制限しました*14)。たとえば、原爆の被害に関する報道や原爆に関する医療の研究なども制限されます*15)。
また、「大東亜戦争」という言葉がGHQによって禁じられたり*16)、明治時代に天皇家と神社の信仰(神社神道)を結びつけた「国家神道」なども禁止されたりしました*17)。
GHQの組織図が知りたい
GHQは、日本政府に指示を出す組織でしたが、単独で存在したわけではありません。
【GHQの位置づけ】

日本の占領方針を決めていたのは「極東委員会」という組織で、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの代表が集まっていました。極東委員会の基本方針がアメリカ政府に伝えられ、そこからGHQに指令が出されたのです*18)。
また、最高司令官であるマッカーサーが意見を聞く組織として「対日理事会」がつくられました。しかし、実際にはマッカーサーが対日理事会を重視していなかったため、あまり機能していませんでした*19)。事実上、日本の占領政策はアメリカ政府とGHQによって決められていたのです。
GHQとSDGs
GHQが行った政策の中には、SDGsと深くかかわるものもあります。ここでは、GHQの政策とSDGs目標5「ジェンダー平等を実現しよう」との関わりを解説します。
SDGs目標5「ジェンダー平等を実現しよう」との関わり
第二次世界大戦が終わった1945年、日本を占領していたGHQは、日本政府に「五大改革指令」を出しました。その中の一つが「女性の解放」です。
当時、日本では女性は選挙で投票することができませんでした。つまり、政治に参加する権利がなかったのです。しかし、市川房枝ら日本の女性たちは、「女性にも政治に参加する権利を!」と長年訴えていました。
GHQの指示と、市川らの活動が実を結び、1945年12月に法律が変わりました。その結果、20歳以上の女性も男性と同じように選挙で投票できるようになりました。これは、男女平等への大きな一歩となったのです*20)。
ジェンダー平等というSDGs目標5の考え方に照らし合わせても、画期的な出来事だったといえるでしょう。
まとめ
今回はGHQがどのような組織だったのかについて解説しました。GHQは、日本が二度と戦争を起こさないように、軍隊を持たない国にする「非軍事化」と、国民が政治に参加できるような「民主化」を進めました。
例えば、戦争犯罪者を裁く東京裁判を開いたり、大きな力を持っていた財閥を解体したりしました。また、農民が自分の土地を持てるように農地改革を行ったり、働く人の権利を守る法律を作ったり、みんなが平等に教育を受けられるように教育を改革したりしました。そして、今の日本の土台となる日本国憲法を作るのにもGHQは関わりました。
GHQの政策には、もちろん良い面ばかりではなく、問題点もありました。しかし、今の日本の姿は、GHQの影響を大きく受けていると言えるでしょう。
参考
*1)国立国会図書館「用語解説 | 日本国憲法の誕生」
*2)デジタル大辞泉「マッカーサー」
*3)改定新版 世界大百科事典「対日占領政策」
*4)デジタル大辞泉「極東国際軍事裁判」
*5)旺文社日本史事典 三訂版「財閥解体」
*6)デジタル絵大辞泉「独占禁止法」
*7)山川 日本史小辞典 改定新版「農地改革」
*8)デジタル大辞泉「労働組合」
*9)浜松市中央図書館 浜松市デジタルアーカイブ「労働組合運動 労働三法」
*10)デジタル大辞泉「黒塗教科書」
*11)デジタル大辞泉「学校教育法」
*12)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「マッカーサー草案」
*13)内閣官房「サンフランシスコ平和条約と日本の領土」
*14)デジタル大辞泉「プレスコード」
*15)広島平和記念資料館「苦しい生活に耐える」
*16)防衛研究所「「あの戦争」を何と呼ぶべきか」
*17)デジタル大辞泉「神道指令」
*18)デジタル大辞泉「極東委員会」
*19)改定新版 世界大百科事典「対日理事会」
*20)男女共同参画局「日本国憲法の制定」