1960年代、世界を揺るがしたベトナム戦争は、テレビや新聞で連日報道されました。しかし、戦争から半世紀近く経過した現在、実際のところ、何がどのように起きたのか、深く理解している人は少ないかもしれません。
なぜ遠い異国の地で、アメリカはこれほどまでに大規模な戦争に介入することになったのか?そこには、複雑な歴史的背景と、冷戦という国際的なパワーバランスが深く関わっていました。
この戦争は、単にアメリカとベトナムが戦ったというだけでなく、東西陣営の対立、植民地支配からの解放、そしてイデオロギーの衝突が絡み合った、非常に複雑な出来事でした。
戦火はインドシナ半島全体に広がり、多くの人々が命を落とし、今もなお、その傷跡は深く残っています。さらに、この戦争はアメリカ国内に深い亀裂を生み出し、反戦運動を世界中に広げるきっかけともなりました。
今回は、ベトナム戦争の全体像を分かりやすく解説します。複雑な歴史的経緯から、具体的な戦いの様子、その後の影響まで、この戦争を多角的に捉えることで、現代社会にも通じる教訓を見出せるでしょう。
ベトナム戦争とは

ベトナム戦争とは、1954年のジュネーブ協定によって南北に分断されたベトナムで勃発した戦争で、北ベトナムと南ベトナムが戦いました。冷戦時代、共産主義の拡大を恐れたアメリカは南ベトナムを支援し、1964年から本格的に軍事介入を開始します*1)。
しかし、1968年のテト攻勢を転機に戦況が悪化し、1973年のパリ和平協定でアメリカ軍は撤退しました。1975年、北ベトナム軍がサイゴンを陥落させ、ベトナムは社会主義国として統一されました*1)。
ベトナム戦争の対立構図
ベトナム戦争は、大きく分けてアメリカと南ベトナムが、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線が対立した戦争でした。
この対立の背景には、東西冷戦という国際的な緊張関係があり、アメリカをはじめとする西側諸国と、ソ連や中国などの東側諸国が、世界各地で影響力を競い合っていました。ベトナム戦争においても、アメリカは南ベトナムを支援し、共産主義の拡大を阻止しようとしたのです*2)。
インドシナ半島の広い範囲が戦場となった
ベトナム戦争は、ベトナム国内に留まらずインドシナ半島全体を巻き込む広範な戦いとなりました。地上戦は主に南ベトナムで行われましたが、北ベトナムはアメリカ軍による激しい空爆にさらされました。
さらに、ラオスやカンボジアは、南ベトナム解放戦線への補給路として認識され、アメリカ軍の攻撃対象となりました。このように、ベトナム戦争は、インドシナ半島全体が戦火に包まれる結果となったのです*3)。
ベトナム戦争が起きた背景

ベトナム戦争が起きた背景には、フランスによる植民地支配、第二次世界大戦中の日本による占領、そしてその後の第一次インドシナ戦争といった歴史的経緯がありました。さらに、ベトナムが南北に分断され、社会主義を掲げる北ベトナムとアメリカが支援する南ベトナムが対立したことが、泥沼の戦争へと繋がっていきました。
ベトナム戦争以前の歴史
ベトナム戦争開始前の歴史について、簡単に説明します。
フランスによる植民地化
フランスは19世紀後半から約1世紀にわたり、ベトナムを含むインドシナ半島東部を植民地支配しました。この地域は「仏領インドシナ」と呼ばれ、フランス本国から派遣されたインドシナ総督が統治しました*4)。
特に、メコンデルタでの米やゴムのプランテーション経営は、フランスにとって大きな経済的利益をもたらしました。しかし、この支配に対してベトナムの人々は激しく反発し、様々な反仏運動を展開することになります*4)。
日本による占領
第二次世界大戦中の1940年、日本軍はフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)への進駐を開始しました。これは、中国の国民政府への物資補給路である援蒋ルートを遮断し、南方進出の前進基地を確保する目的がありました*5)。
本国がナチス・ドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権は、日本との交渉の末に進駐を認めます。当初は北部のみでしたが、1941年7月には南部にも進駐を拡大し、これによってABCD包囲網と呼ばれるアメリカ・イギリス・中国・オランダとの対立が決定的となりました*5)。
第一次インドシナ戦争
第一次インドシナ戦争は1946年から1954年まで続いた、フランスとベトミンの間の戦争です。*6)日本の敗戦後、フランスは仏領インドシナへの支配復活を目指しましたが、ホーチミンが率いるベトミンは独立を求めて抵抗しました。
フランスはアメリカの軍事・経済支援を受けて戦いましたが、1954年のディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗を喫しました。同年のジュネーブ協定により、ベトナムは北緯17度線で南北に分断され、フランスは完全撤退することとなりました。この戦争は後のベトナム戦争の序章となりました。
ベトナム戦争の流れ

はじめに、ベトナム戦争の流れを年表で確認します。
1955年 | ゴ・ディン・ジェム政権の成立 |
1960年 | 南ベトナム解放戦線ベトコンの結成→南ベトナム政府への武装闘争を開始 |
1964年 | トンキン湾事件→アメリカ軍による本格的な軍事介入の始まり |
1965年 | 北爆開始 |
1968年 | テト攻勢 |
1969年 | ニクソン大統領の就任 |
1970年以降 | 戦線がラオス・カンボジアに拡大 |
1972年 | ニクソン訪中 |
1973年 | パリ和平協定の締結→アメリカ軍がベトナムから撤退を開始 |
1975年 | サイゴン陥落→北ベトナムの勝利とベトナム統一 |
ベトナム戦争のポイントとなる出来事を見てみましょう。
南ベトナム国内の混乱
ベトナムは、ジュネーブ協定によってフランスの植民地支配から解放されました。しかし、その直後に北緯17度線を境界として、北にはベトナム民主共和国(北ベトナム)、南にはベトナム共和国(南ベトナム)という二つの国に分裂してしまいます。南ベトナムでは、その後、独裁的な政治が行われたため、国内の混乱がさらに深刻化していきました。
ゴ・ディン・ジェム政権の独裁
1955年、アメリカの支援を受けてベトナム共和国(南ベトナム)の初代大統領となったゴ・ディン・ジェムは、カトリック教徒の官僚出身でした。彼は親族を要職に据え、仏教徒が多数を占める国内で少数派のカトリック教徒を優遇する政策を進めました*8)。
また、反対勢力に対する強権的な統治を行い、言論の自由を制限するなど独裁色を強めていきました。こうした状況に対して、国内の反対勢力は1960年に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を結成し、武力による抵抗を開始しました*8)。
南ベトナム解放戦線(ベトコン)の結成
南ベトナム解放戦線とは、1960年にベトナム南部で結成された政治組織です。ゴ・ディン・ジェム政権による弾圧や土地政策への不満を持つ農民や知識人、仏教徒などの支持を集め、共産主義者と非共産主義者の統一戦線として活動しました*9)。
北ベトナムの支援を受けながら、ゲリラ戦を展開し、アメリカ軍や南ベトナム政府軍と戦いました。アメリカなどの西側諸国からは「ベトコン」と呼ばれ、1961年には軍事組織である南ベトナム解放人民軍を編成しました*10)。
アメリカ軍の直接介入
アメリカ軍は南ベトナム政府軍を支援していましたが、トンキン湾事件をきっかけに、本格的な軍事介入に踏み切ります。トンキン湾事件と北爆の開始について見てみましょう。
トンキン湾事件と北爆
1964年8月、ベトナム戦争の転換点となったトンキン湾事件が発生しました。アメリカ政府は、北ベトナムの魚雷艇がトンキン湾の公海上でアメリカ軍の駆逐艦を攻撃したと主張しました*11)。
この事件を受けて、アメリカのジョンソン大統領は北ベトナムへの報復爆撃を命じ、議会から軍事行動の全権を得ました。トンキン湾事件の翌年から北ベトナムを空爆する北爆が始まります。これによりアメリカは本格的にベトナム戦争へ介入することになりました*11)。
しかし、後に国防総省のベトナム秘密報告によって、この事件はアメリカ側が仕組んだ謀略であったことが明らかになり、ベトナム戦争介入の口実として利用されたことが判明しました*11)。
南ベトナム解放戦線の反撃
1968年1月、南ベトナム解放戦線はベトナムの旧正月「テト」に、各地で奇襲攻撃を仕掛けました。特に、首都サイゴンではアメリカ大使館が一時的に占拠されるという事態が発生し、アメリカ軍に大きな動揺が走りました*12)。
両軍はなんとか解放戦線の攻撃を退けましたが、これを受けて、アメリカのジョンソン大統領は北爆の停止と和平会談を検討せざるを得なくなりました。テト攻勢は、その後のベトナム戦争の展開を大きく左右する出来事となりました*12)。
ベトナム反戦運動の盛り上がり
ベトナム戦争が長引くにつれ、アメリカを中心に世界中で反戦運動が広がりました。これを「ベトナム反戦運動」と呼びます。アメリカでは特に大学が運動の中心となり、学生たちは教授や知識人と協力して集会やデモを行い、徴兵カードを焼くなどの行動もしました。
政府が1969年に撤退政策を始めると、運動は一時的に沈静化しましたが、1970年のカンボジア侵攻をきっかけに再び激化しました。その中でオハイオ州立ケント大学では、州兵の発砲により学生が亡くなるという悲劇も起きました。
和平協定
ベトナム和平協定は、パリ和平協定とも呼ばれ、1973年1月27日にベトナム戦争の終結に向けて、ベトナム民主共和国、南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国、ベトナム共和国の四者によって締結されました。
この協定では、停戦とアメリカ軍の撤退が定められ、さらに南ベトナムにおける対立の政治的な解決を目指すことが合意されました。これにより、長きにわたるベトナム戦争に一つの区切りがつけられました。
アメリカ軍の支援を失った南ベトナム政府は、北ベトナムとの戦いを続けられなくなり、1975年4月30日に北ベトナム軍へ無条件降伏しました。これにより、ベトナム戦争は終結しました。
ベトナム戦争のその後

ベトナム戦争終結後、統一されたベトナムは社会主義国として再出発します。一方、迫害を恐れた人々は難民となって国外に逃れました。ここでは、統一後のベトナムについて解説します。
南北ベトナムの統一と社会主義化
1976年、ベトナムは南北統一を果たし、社会主義共和国として新たなスタートを切りました。その後、1986年には「ドイモイ政策」が導入され、社会主義体制を維持しつつも市場経済を取り入れるという大胆な転換を遂げました。
1995年にはASEANに加盟し、国際社会への貢献を目指す中で社会主義的な政策を緩和する動きも見られました。しかし、ベトナム戦争の傷跡は深く、枯葉剤の後遺症など、いまだに多くの人々がその影響に苦しんでいます。
ベトナム戦争が日本に与えた影響

ベトナム戦争は、アメリカ軍基地を多く抱える日本にも大きな影響を与えました。ここでは、沖縄がアメリカ軍の後方基地となったことや日本のベトナム反戦運動について解説します。
沖縄がアメリカ軍の後方支援基地となった
沖縄は、ベトナム戦争においてアメリカ軍にとって重要な後方支援基地となりました。特に嘉手納基地は、大型爆撃機B52の補給や出撃拠点として活用され、1965年頃から頻繁に飛来し、1968年には常駐が開始されました。
これにより、住民は沖縄が直接戦場に巻き込まれるのではないかという強い不安を感じ、駐留に反対する声が高まりました。
その不安は、1968年に嘉手納基地でB52が離陸に失敗し爆発・炎上した事故によって現実のものとなり、近隣住民に大きな被害をもたらしました。この事故は、基地の存在に対する住民の反発を一層強める出来事となりました*14)。
日本でもベトナム反戦運動がおこった
ベトナム戦争の長期化に伴い、日本でも反戦運動が活発化しました。「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」は、知識人や市民を結集し、徹夜での討論会や新聞広告、デモ、脱走兵支援など多様な活動を展開し、最盛期には全国に300以上のグループが生まれました。
1960年代末には労働者や学生も加わり、大規模なデモも行われました。ベ平連は1974年に解散しました。
ベトナム戦争とSDGs

ベトナム戦争は、アメリカにとって初めての敗北であり、世界に大きな衝撃を与えました。それだけではなく、多くの人が戦争の犠牲となった戦いでもあります。ここでは、ベトナム戦争とSDGs目標16との関わりについて解説します。
SDGs目標16「平和と公平をすべての人に」との関わり
ベトナム戦争は、平和と公平を掲げるSDGs目標16に反する典型的な事例として考えることができます。この戦争では、イデオロギーの対立から、北ベトナムと南ベトナム、そして米国をはじめとする諸外国を巻き込む大規模な紛争へと発展しました。
その結果、民間人を含む数百万人もの人々が命を落とし、枯葉剤による環境破壊や後遺症に今日も苦しむ人々が存在します。
また、この戦争は政治的対立による武力衝突が、いかに多くの人々の人権を侵害し、持続可能な発展を阻害するかを示しています。
まとめ
今回は、ベトナム戦争について解説しました。1954年のジュネーブ協定による南北分断から始まったこの戦争は、冷戦構造の中で東西対立の代理戦争として激化し、アメリカの軍事介入によって泥沼化しました。
1968年のテト攻勢を転機として戦況が変化し、1973年のパリ和平協定でアメリカ軍が撤退。1975年には北ベトナム軍がサイゴンを陥落させ、ベトナムは社会主義国として統一されました。この戦争は多くの犠牲者を出し、枯葉剤による環境破壊や後遺症など、今日まで続く爪痕を残した戦争だったのです。
参考
*1)山川 日本史小辞典 改定新版「ベトナム戦争」
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「ベトナム戦争」
*3)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ホー・チ・ミン・ルート」
*4)改定新版 世界大百科事典「フランス領インドシナ」
*5)改定新版 世界大百科事典「仏印進駐」
*6)百科事典マイペディア「インドシナ戦争」
*7)デジタル大辞泉「ベトミン」
*8)改定新版 世界史大百科事典「ゴディンジェム」
*9)日本大百科全書(ニッポニカ)「南ベトナム解放戦線」
*10)山川 世界史小辞典 改定新版「南ベトナム解放戦線」
*11)日本大百科全書(ニッポニカ)「トンキン湾事件」
*12)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「テト攻勢」
*13)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「枯葉剤」
*14)沖縄県公文書館「1968年11月19日 嘉手納基地でB52大爆発事故」