エリザベス1世とは?特徴やエピソードをわかりやすく解説!

img

エリザベスと聞くと、つい近年まで在位したエリザベス2世を思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし、今回ご紹介するエリザベス1世は、今からおよそ400年前に活躍したイングランド女王です。

国王ヘンリー8世の娘として生まれ、生涯独身を貫いたことから「The Virgin Queen(処女女王)」、国を安定へ導いた功績から「Good Queen Bess(善き女王ベス)」と呼ばれました。

非嫡出子として不遇の幼少期を過ごしながらも、宗教対立や無敵艦隊の脅威といった数々の危機を乗り越え、イギリス黄金時代を築き上げた彼女。その生涯には、ドラマのようなエピソードや、現代にも通じるリーダー像が詰まっています。

この記事では、そんなエリザベス1世の人物像から功績、最期、そしてSDGs視点での魅力までをわかりやすく解説します。続きを読めば、彼女がなぜ “伝説の女王” と呼ばれるのかが見えてきます。

エリザベス1世とは

エリザベス1世とは、1533年に生まれ、1558〜1603年にイギリスを治めたテューダー朝最後の女王です。1559年の統一法でイギリス国教会を確立し、政治のしくみを整えて強い王権をつくりました。

また、重商主義によって産業や貿易を発展させ、東インド会社を設立して海外進出を進めました。1588年、エリザベス1世はスペインの無敵艦隊を破り、イギリスが海の強国へ成長するきっかけを作りました。

彼女の時代にはシェークスピアなど多くの文化人が活躍し、「黄金時代」と呼ばれます。生涯結婚せず、死後はジェームス1世が即位してステュアート朝が始まりました。

王位継承権を失った王女

父はヘンリー8世で、6人の后を次々と迎え、多くの側近を処刑したことで知られる人物です。母はアン・ブーリンで、ヘンリー8世の2番目の后でしたが、不義を疑われてロンドン塔で処刑されました。この出来事により、エリザベスは一時的に王位継承権を失ってしまいます。

のちに継承権は回復されましたが、幼い頃から王家の複雑な事情に巻き込まれ、宮廷内の争いにも関わらざるを得ませんでした。そのため、エリザベスの少女時代は不安や孤独がつきまとう、苦しいものとなりました。

父の死後に王位を継いだ弟のエドワード6世が亡くなった後は、姉のメアリーが王位を継ぎました。しかし、メアリーの死によってエリザベスが新たな王として選ばれ、ロンドンへ戻ることになりました。そして1559年に戴冠式が行われ、いよいよエリザベス1世の治世が始まったのです。*2)

”処女王”と呼ばれた理由

エリザベス1世が「処女王」と呼ばれたのは、生涯結婚しなかったためです。彼女が求婚に応じなかった主な理由は次の3点にまとめられます。

  • 政治的な安定を守るため
  • 宗教対立を避けるため
  • 自立した統治を貫くため

外国の王族と結婚すれば、その国の影響力がイングランドに及び、国内の勢力争いを激化させる危険がありました。また、当時のヨーロッパはカトリックとプロテスタントが激しく対立しており、誰と結婚するかが重大な宗教問題につながりました。

さらに、結婚によって王配が政治に関わることを避けたいという思いから、エリザベス1世は自らの判断で国を導く姿勢を貫きました。こうした理由から彼女は生涯独身を選び、「処女王」と呼ばれるようになりました。*1)

スペイン無敵艦隊を前に兵士を鼓舞した“ティルベリー演説”

エリザベス1世女王の「ティルベリー演説」とは、1588年にスペインの無敵艦隊(アルマダ)がイングランド侵攻を狙った際、兵士たちを鼓舞するために行った有名な演説です。場所はロンドン東部のティルベリーで、敵の上陸に備えて集結した軍を前に語られました。

とくに有名なのが次の趣旨の言葉です。

原文:

I know I have the body but of a weak, feeble woman. 

but I have the heart and stomach of a king, and of a king of England too.

訳文:

私は弱くかよわい女の身体をしていますが、心は国王、しかもイングランド王の心です

この言葉は、女王でありながら指導者としての強い覚悟を示し、兵士や国民に深い感動を与えました。

ティルベリー演説は、国を守る決意を表した歴史的演説であり、女王が自ら戦場に姿を見せた象徴的出来事として知られているのです。

そして、現在でもイギリス史上最も有名なスピーチの一つとして語り継がれています。

1.3cmの厚化粧は本当?

1.3cmもの厚化粧は、実話です。

しかし、見た目を隠すための厚化粧ではなかったようです。エリザベスは結婚しませんでしたが、モテなかったわけではなく、人生の中で何人かの愛人がいたことが知られているからです。年を重ねるほど、選ぶ相手が若くなる傾向が見られました。

また、彼女は肌にハチミツを塗った上から、1.3cmものおしろいを重ね塗りしていたと言われています。笑うと化粧が割れてしまうためか、肖像画では表情が硬く、まるで仮面のように見えるものが多く残っています。

なぜそこまで厚塗りしたのかというと、当時のおしろいが鉛を含んでおり、有毒性のため肌荒れを悪化させてしまったからです。肌のダメージを隠すために、さらにおしろいを重ねる悪循環が生まれていたのです。*3)

エリザベス1世が行ったこと

エリザベス1世は、混乱していた宗教や国際情勢の中で強い指導力を発揮しました。イギリス国教会を確立して国内の統一を進め、スペインの無敵艦隊を撃破して国威を高めたのです。さらに海洋進出を推し進め、後の大英帝国へとつながる海洋国家としての土台を築いた女王でした。

英国国教会の確立

ヘンリー8世からエリザベス1世まで、イギリスは宗教政策が大きく揺れ動きましたが、最終的に国教会を確立したのがエリザベス1世です。

【イギリスの宗教政策の変化】

年代国王できごと
1534年ヘンリー8世*4)首長法を制定し、ローマ教会と決別イギリス国教会が誕生
1549年エドワード6世*5)一般祈祷書を制定し、プロテスタント化を推進
1553年メアリー1世*6)カトリックを復活させ、ローマ教会と再び結びつく
1559年エリザベス1世統一法を制定し、国教会を確立

ヘンリー8世は、離婚問題をきっかけにローマ教会と決別し、国王を教会の頂点とするイギリス国教会を創設しました。息子のエドワード6世はこれをさらにプロテスタント寄りに改革します。しかし、次に即位したメアリー1世は政策を逆転させ、カトリックを復活させます。このように宗教政策は短期間で何度も変わり、国内に大きな混乱をもたらしました。

1558年に即位したエリザベス1世は、宗教対立を終わらせ国家を安定させる必要がありました。そこで1559年に首長法を復活させ、女王を宗教を含む国家の最高権威と定め、統一法でプロテスタント方式の礼拝を確定しました。

これは父ヘンリー8世以来の宗教改革を完成させるもので、国内の混乱を収めるための現実的な選択でした。

また、教義はプロテスタント寄りにしつつ、組織はカトリックに近い主教制を残すなど、両派の対立を和らげる工夫も行いました。こうしてエリザベス1世は国教会を安定した制度として確立したのです。*2)

無敵艦隊を撃破

無敵艦隊(アルマダ)とは、スペイン王フェリペ2世が1588年にイギリス征服を目的として派遣した大艦隊のことです。スペインでは「大艦隊(Gran Armada)」と呼ばれ、約130隻・3万人規模の当時世界最大級の艦隊でした。「無敵艦隊」という呼び名は後世のイギリス側が付けたものです。

エリザベス1世が無敵艦隊と戦うことになったのは、主に次33つの理由があったためです。

  • イギリス船がスペインのカリブ海交易を妨害した
  • イギリスがオランダの反スペイン独立運動を支援した
  • エリザベスがカトリック派の希望だったメアリー・スチュアートを処刑した

これらの出来事で両国の関係は決定的に悪化し、カトリックの指導者だったフェリペ2世はイギリス制圧を決断しました。

イギリス軍が勝った理由として、以下の4つが考えられます。

  • 機動力の高い小型ガレオン船を使用したこと
  • 長距離砲撃を中心とした海戦術を採用したこと
  • カレー沖で火船作戦を行い、敵隊形を大きく乱したこと
  • ドーバー海峡の荒天がスペイン側に不利に働いたこと

スペインの旧式で接近戦重視の戦術は、イギリスの新しい砲撃中心の戦法に対応できなかったのです。

敗北したスペイン艦隊は大敗し、帰還できた船は半数以下に減少しました。スペインの威信は大きく揺らぎ、国内の世論にも深刻な動揺を与えました。一方で、イングランドは制海権を大きく伸ばし、海洋進出が加速します。

*7)*8)*9)

海洋国家イギリスの土台を作った

エリザベス1世は、海外進出を積極的に進め、海軍力の強化や航海事業の支援を通して海洋国家イギリスの基礎を築いた女王です。

彼女は東インド会社を設立して遠洋貿易への道を開き、探検家たちの航海を後押しすることで新たな交易圏の開拓を進めました。東インド会社はアフリカの喜望峰からマゼラン海峡に至るまでの貿易独占権を与えられたイギリスの会社です。*10)

東南アジアではオランダとの争いに敗れて撤退しましたが、インド支配の中心となり、イギリスの繁栄に寄与します。こうして、イギリスはアジア・アメリカへと本格的に海外進出を進め、大英帝国へと発展していきました。

エリザベス1世の最期

エリザベス1世の最期は、長い栄光の治世の後に静かに訪れ、テューダー朝の終わりを告げる出来事となりました。

女王の死因は不明

エリザベス1世の死因は、当時の記録に明確な記述がないためはっきりとは分かっていません。1602年までは健康でしたが、親しい友人たちの相次ぐ死によって深い憂鬱状態に陥りました。

その後、女王は体調を崩し、3月には「座り込み、拭いがたい憂鬱」に包まれたまま動かなくなったと伝えられています。4日間座り続けた後、1603年3月24日未明、リッチモンド宮殿で静かに息を引き取りました。69歳でした。

病名などの詳細は記録に残されておらず、憂鬱による衰弱や老衰などさまざまな説がありますが、確証はなく、女王の死は今も不明のままです。

エリザベス1世とSDGs

エリザベス1世は、女性であっても男性と同等以上のリーダーシップを発揮し、国を力強く導けることを示した歴史的な存在です。

SDGs目標5「ジェンダー平等を実現しよう」との関わり

エリザベス1世は、16世紀に女性でありながら強いリーダーシップを発揮したことで知られています。彼女は結婚によって政治的影響力を他国に奪われることを避け、自らの判断で国家を導く道を選びました。

私は弱くかよわい女の身体を持つが、心は王の心である」という有名な言葉は、性別に関わらず指導者としての能力を示す象徴的な表現です。

また、宗教政策や対スペイン政策など重要な決断を自ら下し、国の安定と発展を実現しました。これは、女性であっても国家の運営を任される能力が十分にあることを歴史的に証明するものです。

SDGs目標5の「ジェンダー平等」は、女性が意思決定の場に参画し、リーダーとして活躍できる社会を目指します。エリザベス1世の統治は、女性リーダーの可能性と力を具体的に示した例だと言えます。

>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

今回は、エリザベス1世について解説しました。彼女の生涯は、非嫡出子としての不遇な出発点から、国教会の確立、無敵艦隊撃破、海洋国家の基盤づくりまで、まさに波乱と栄光に満ちたものでした。

政治的判断を自ら行い、“処女王”として国家の安定を守り抜いた姿は、現代にも通じる強いリーダー像といえます。また、ティルベリーでの鼓舞演説や厚化粧の逸話など、人物像を形づくるエピソードも豊富でした。

最期は静かに幕を閉じましたが、その死因は今も謎のままです。エリザベス1世の統治は、イギリスを黄金時代へと導いただけでなく、女性も国を率いられることを示した歴史的証明でもありました。彼女が“良きの女王”と呼ばれる理由が、より深く理解できたのではないでしょうか。

参考:
*1)旺文社世界史事典 三訂版「エリザベス1世
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「エリザベス1世
*3)ダイヤモンド社「東大教授が教えるやばい世界史」
*4)百科事典マイペディア「ヘンリー8世
*5)旺文社世界史事典 三訂版「エドワード6世
*6)旺文社世界史事典 三訂版「メアリ1世
*7)改定新版 世界史大百科事典「無敵艦隊
*8)山川 世界史小辞典 改定新版「無敵艦隊
*9)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「無敵艦隊
*10)山川 日本史小辞典 改定新版「イギリス東インド会社

通知設定
通知は
0 Comments
Oldest
Newest Most Voted
Inline Feedbacks
View all comments

SHARE

この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

前の記事へ 次の記事へ

関連記事