19世紀後半から20世紀にかけての中国は、本当に大変な時代でした。当時の中国を治めていた清王朝は、政治が腐敗していて、おまけに外国からの圧力も強かったため、国民は毎日を生きるのに必死という状況でした。
この状況をどうにかしようと立ち上がったのが孫文という人物です。彼は清王朝を倒すための革命運動を起こしました。この革命は見事に成功し、ついに清王朝は滅亡しました。
しかし、これで中国が平和になったわけではありません。革命後も各地で力を持った軍閥が争い合うようになり、国内は大混乱に陥りました。さらに、日本も中国への進出を狙っており、中国の混乱はますます深まっていく一方でした。
この混乱は、第二次世界大戦が終わった後も収まることなく、最終的には中華人民共和国が成立するまで続きました。今回は、この辛亥革命から中華人民共和国成立まで続いた、長く激しい中国革命についてわかりやすく解説します。
中国革命とは

中国革命とは、清王朝が終わる頃から、現在の中国である中華人民共和国が成立するまでの一連の大きな変化のことです*1)。
この革命は、大きく分けて次の3つの段階で進みました。
- 辛亥革命と中華民国の成立
- 2度の国共合作と日中戦争
- 第二次国共内戦と中華人民共和国の成立
*1)
中国革命の始まりは孫文が指導した「辛亥革命」でした。この革命で清王朝が倒され、新しい国である「中華民国」が成立しました。しかし、中華民国では軍閥同士の争いが続いたため、 国内は分裂状態にありました*2)。
孫文の死後、リーダーとなった蒋介石は各地の軍閥を討伐しながら中国全土の統一を目指しました。蒋介石の率いる政党を国民党(中国国民党)といいます。しかし、蒋介石は毛沢東率いる共産党(中国共産党)と対立関係にありました。
国民党と共産党が手を組むことを「国共合作」といいます。特に、第二次国共合作は日本と対抗するために行われたもので、国民党と共産党は協力して日中戦争を戦い抜きました*5))。
日中戦争後、再び国民党と共産党が戦いました(国共内戦)。最終的に共産党が勝利し、新しい国「中華人民共和国」が誕生しました。この一連の流れを中国革命といいます。
目的
中国革命の目的は、時期によって大きく異なります。
1911年に始まった辛亥革命の目的は、中国を支配していた異民族(満州族)の王朝である清王朝(清)を打倒することでした。革命の指導者である孫文は、清を支えていた袁世凱を味方にすることで、清の打倒に成功したのです。
国共合作から日中戦争にかけての時期は、日本を含む外国勢力を追い出し、中華民族の完全な独立を目的としていました。日本降伏後の国共内戦の目的は、国民党と共産党のどちらが中国を支配するかが目的となっていました。
このように、中国革命の目的は時期によって大きく異なっていたのです。
中国革命が起きた背景

中国革命が起きた背景には、清王朝末期から中華民国初期の政治的・社会的混乱がありました。ここでは、中国の半植民地化から孫文死後の混乱、国共内戦までの流れを整理し、中国革命の背景を探ります。
半植民地化された中国
中国の半植民地化とは、19世紀後半から20世紀前半にかけて、中国が形の上では独立国だったものの、実際には外国の支配下にあった状態のことです。
具体的には、以下のようなことが起きていました。
- 国の力が弱かった
- お金を外国に握られた
- 外国の軍隊がいた
- 巨額の賠償金支払い
- 土地を奪われた
中国は完全に外国の植民地になったわけではありませんでした。しかし、実質的には植民地と変わらない状態で、外国の支配下にあったと言えます。外国からお金を借りたり、外国人が自国に有利なビジネスを始めたりして、中国の経済は外国の言いなりになっていました。
また、北京や天津などの重要な場所に外国の軍隊が駐留し、中国の自由を制限していました。加えて、アヘン戦争やアロー戦争、義和団事変などで敗れた中国は外国に多額のお金を払わされることになり、税金を集める権利も外国に奪われていました。
そればかりか、香港やマカオなど、中国の一部が外国に取られたり、貸し出されたりしたのです。この状態は、アヘン戦争(1840年)から始まり、義和団事件後の北京議定書(1901年)でさらに悪化しました。
孫文の活動と辛亥革命
1866年に生まれた孫文は、14歳のときにハワイの兄のもとにいたこともあって、西洋的な教養を身につけていました。彼は、外国に好き勝手にされている祖国を救うため、清を滅ぼす革命運動に身を投じました。
何度かの失敗ののち、孫文は中国同盟会を結成します。このころ、孫文が主張したのが「三民主義」です。
1911年、中国の武昌で革命派が蜂起したことがきっかけで、辛亥革命が始まりました。この革命はまたたく間に中国各地に広がり、清朝の支配を揺るがしました。
革命を成功させたいと考えていた孫文は、清朝の軍を率いていた袁世凱に、革命後に樹立する中華民国のトップである大総統の地位を譲るという条件を提示しました。これにより、袁世凱は清朝を見限り、結果として清軍は崩壊し、革命は成功しました。
辛亥革命後の混乱と日中戦争
袁世凱の死後、中国各地はいくつかの軍閥によって分割支配されました。孫文は、中国南部で再起し、軍閥や帝国主義の打倒を目指しました。しかし、1925年、孫文は北京で亡くなってしまいます。代わって孫文の後継者となったのが蒋介石でした。
蒋介石は「北伐」をおこなって各地の軍閥に勝利し、中国全土の統一に成功します。しかし、満州事変により中国東北部を失うと、これまで対立してきた共産党と「抗日民族統一戦線」を結成する国共合作を行って日本と戦いました。
一方、共産党では毛沢東が指導者となっていました。
毛沢東は、圧倒的多数を占める農民を味方につけて「農村によって都市を包囲する」作戦を実行して成功しました。抗日民族統一戦線に参加した毛沢東率いる共産党は、蒋介石の国民党軍とは距離を置きつつ、日本軍と戦います。
国共内戦と中華人民共和国の成立
1945年8月、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏しました。これにより、日本軍は中国から撤退することになります。毛沢東と蒋介石は「双十協定」を結び、内戦回避に合意します*10)。しかし、両者の溝は埋まらず、1946年から内戦が始まりました。この内戦を「国共内戦(第二次国共内戦)といいます。
内戦は、アメリカの支援を受けた国民党軍が優勢でした。しかし、1947年の夏以降、共産党が盛り返し、戦いの主導権を握りました。そして、1949年1月、毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言しました*11)。戦いに敗れた蒋介石と国民党は、海を渡って台湾に逃れます。
中国革命が与えた影響

中国革命は、中国の政治・社会の仕組みを大きく変化させました。ここでは、中国革命の影響について解説します。
2千年以上続いた皇帝支配が終わった
中国の歴史において、紀元前221年に秦の始皇帝が作り上げた皇帝による統治制度は、実に長い間続きました。その間、様々な王朝が興亡を繰り返しましたが、皇帝を頂点とする政治の仕組みは基本的に変わることなく受け継がれてきました。
しかし、1911年に起こった辛亥革命によって清朝が倒れると、それまで2千年以上も続いていた皇帝制度は完全に終わりを迎えました。この革命は、不変のものと考えられていた皇帝による支配体制に終止符を打つ、歴史的な出来事となったのです。
社会構造が大きく変化した
辛亥革命、国共内戦、そして中華人民共和国の成立は、中国社会のあり方を根本から変えました。特に大きな変化は、それまで農村で力を持っていた地主階級が打倒されたことです。広大な土地を所有し、地域社会を支配していた地主の力が、共産党による「土地革命戦争」によって奪われました。そして、その土地は農民に分け与えられました*12)。
中華人民共和国ができる前、わずか10%にも満たない地主や富農が、耕地の7割から8割を支配していました。貧しい農民や小作人は、地主らの土地を借りて高い小作料を払いながら生活していたため、常に貧困にあえいでいました。そこで、中華人民共和国は土地改革法を制定し、地主の土地を没収して貧しい農民に分配することで、社会の不平等を解消しようとしたのです*13)。
社会主義体制国家が成立した
1949年に終結した国共内戦では、毛沢東率いる共産党が勝利を収めました。アメリカをはじめとする資本主義陣営から支援を受けていた国民党の蒋介石は敗北し、台湾へと逃れることになりました。その結果、中国本土は共産党による一党支配体制が確立され、現在の中華人民共和国の礎が築かれたのです。
中国革命と日本の関わりは?

ここでは、中国革命と日本の関わりについて見ていきます。
日本は中国の混乱に乗じて大陸進出を行った
第一次世界大戦後、日本政府は中国大陸への進出を強めていきました。特に有名なのが、当時の中国政府の代表だった袁世凱に突き付けた「二十一カ条要求」です。この要求には、ドイツが山東省で持っていた権利を日本が引き継ぐことや、満州での日本の権益である南満州鉄道の使用期限を延ばすことなどが含まれていました。
その後、蒋介石が中国の統一を目指して動き始めると、日本はこれを妨げるため、満州地域を支配していた軍閥の張作霖を支援しました。そして1931年、日本は満州事変を引き起こし、中国の東北部を切り離して満州国を作り上げました。
このような日本の行動に対する中国の反発は強まる一方でした。そして1937年に日中戦争が勃発し、両国の関係は完全に断絶することとなったのです。
中国革命に関してよくある疑問
ここでは、中国革命に関するよくある質問に答えます。
国民党と共産党は何が違うのですか?
国民党は孫文によって設立され、三民主義という理念を基本としました。この三民主義は、中国の独立と統一を目指す民族主義、国民の政治参加を重視する民権主義、そして国民の生活向上を目指す民生主義から成り立っています。この理念のもと、国民党は中華民国を建国することに成功しました。
これに対して共産党は、マルクス・レーニン主義の思想を取り入れ、平等な共産主義社会の実現を目標としました。
両党は一時期、反帝国主義という共通の目的のために協力関係を築きましたが、根本的な思想の違いから次第に対立が深まりました。その結果、激しい内戦へと発展し、最終的には共産党が勝利を収めました。この勝利により、現在の中華人民共和国が誕生したのです。
なぜ、中国共産党は台湾を攻撃しようとするのですか?
1949年、中国で内戦が起きた際、国民党は台湾に逃れ、共産党は中国本土を支配しました。それ以来、中国共産党は台湾を「まだ解放されていない土地」と考えています。台湾を統一することは国としての誇りを取り戻すことにつながります。その目的を達成するため、中国は、台湾に対して軍事的な圧力や経済的な圧力をかけることがあります。
中国革命とSDGs
中国革命は2千年以上続いた皇帝支配を覆し、中国の社会を大きく変化させました。ここでは、中国革命とSDGs目標10「人や国の平等をなくそう」との関わりについて解説します。
SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり
SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」と孫文が提唱した三民主義には関連があります。
三民主義の民族主義は、国内のすべての民族の平等を訴え、差別のない社会を目指すものです。民権主義は、民主制の実現を通じて、すべての人々が政治に参加する権利を持つことを主張しています。そして民生主義は、経済的な格差を是正し、国民生活の安定を図ることを目的としています。
一方、SDGs目標10.2は、年齢や性別、障害の有無、人種、宗教などによる差別をなくし、すべての人々が社会的、経済的、政治的に参加できる社会の実現を目指しています。
このように、約100年前に提唱された三民主義の理念は、現代のSDGsが目指す「誰一人取り残さない」という包摂的な社会づくりの考え方と、まったく同じではありませんが、共通する要素を持っているのです。
まとめ
今回は、中国革命を取り上げました。この革命は、清朝の崩壊から中華人民共和国の成立まで、中国社会を根底から変える大きな出来事でした。辛亥革命による清朝の打倒、その後の軍閥割拠、国共合作による日中戦争、そして国共内戦を経て、中国は社会主義国家へと変貌を遂げました。
この過程で、孫文、袁世凱、蒋介石、毛沢東といった人物が重要な役割を果たし、それぞれの目的や戦略が複雑に絡み合いました。
また、外国勢力の介入、特に日本との関係は、中国革命を大きく左右しました。中国革命は、2千年以上続いた皇帝支配を終わらせ、社会構造を根本から変え、今日の中国の姿を形作ったと言えるでしょう。中国革命を学ぶことは、現代の中国を理解する上で非常に重要です。
参考
*1)日本大百科全書(ニッポニカ)「中国革命」
*2)山川 世界史小辞典 改定新版「中華民国」
*3)山川 世界史小辞典 改定新版「孫文」
*4)デジタル大辞泉「軍閥」
*5)改定新版 世界大百科事典「国共合作」
*6)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「袁世凱」
*7)デジタル大辞泉「三民主義」
*8)山川 世界史小辞典 改定新版「蒋介石」
*9)山川 世界史小辞典 改定新版「毛沢東」
*10)旺文社世界史事典 三訂版「双十協定」
*11)山川 世界史小辞典 改定新版「国共内戦」
*12)改定新版 世界大百科事典「土地革命戦争」
*13)改定新版 世界大百科事典「土地革命」