ナポレオン戦争とは?原因や勝敗、日本への影響も

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パリのアンヴァリッド(廃兵院)に安置された赤い斑岩でできた荘厳な棺には、かつてヨーロッパ全土を震撼させた男が眠っています。彼の名は、ナポレオン・ボナパルト。皇帝ナポレオン1世としても知られています。

18世紀末から19世紀初頭にかけて、ナポレオンが指揮したフランス軍は、ヨーロッパの秩序を根底から覆す大規模な戦争を繰り広げました。当初はフランス革命の理念を守るという崇高な目的で始まったこの戦いは、次第にナポレオン個人の野望と結びつき、ヨーロッパ征服へと変質していきます。

最終的にはナポレオンの敗北で幕を閉じたこの戦争ですが、ウィーン体制の成立や民族主義の高揚など、その後の世界に大きな影響を与えました。驚くべきことに、この戦争の影響は遠く日本にも及び、鎖国体制下の江戸幕府にも大きな衝撃を与えたのです。本記事では、このナポレオン戦争の全貌に迫ります。

ナポレオン戦争とは

ナポレオン戦争とは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、フランスの皇帝ナポレオン1世が主導したヨーロッパ全域にわたる大規模な軍事衝突です。イギリス、イタリア、ロシア、オーストリア、プロイセン(現在のドイツの一部)、スペイン、ポルトガルなど多くの国々が巻き込まれました。

この紛争を通じてナポレオン法典が各国に広まり、古い社会制度が崩壊し近代化が進むきっかけとなりました。しかし皮肉なことに、この近代化によって各地域の人々の民族としての自覚も高まり、ナポレオンへの反発を引き起こすことになりました。

ナポレオン率いるフランス軍は、イギリスを中心とする連合軍と何度も激しい戦闘を繰り広げましたが、最終的には1815年のワーテルローでの敗北によって終結しました。*1)

戦争目的の変化

ナポレオン戦争の目的は時間とともに大きく変化しました。最初は自分の国フランスを守るための防衛的な性格が強く、プロイセンやオーストリア、イギリスからの干渉に対抗する意図がありました。

しかし、徐々にその性質は変わっていきます。フランス経済の発展に必要な市場を広げたいという欲求と結びつき、次第に他国へ攻め込む侵略的な様相を帯びるようになりました。

この変化は多くのヨーロッパ諸国を巻き込む結果となり、最終的には1815年の決戦でナポレオンが敗れるまで続きました。このように、当初の自衛から徐々に拡張へと戦争の目的が変わっていったことが、この紛争の特徴の一つです。*1)

ナポレオン戦争はなぜ起きたのか

ナポレオン戦争は、1799年から1815年まで続いた大戦争です。しかし、この戦争について理解するには、フランス革命からさかのぼって考える必要があります。ここでは、ナポレオン戦争の流れや戦争が起きた理由について解説します。

ナポレオン戦争の流れ

はじめに、ナポレオンによる権力奪取とナポレオン戦争のおおまかな流れについて、年表形式で整理します。

年代出来事備考
1789年フランス革命勃発周辺諸国はフランスに対する警戒を強めた
1792年革命防衛戦争が本格化オーストリアやプロイセンが革命に介入
1796年第一次イタリア遠征ナポレオンの軍事的才能で勝利
1799年ブリュメール18日のクーデタナポレオンが総裁政府を打倒し、第一統領に就任
1804年ナポレオンが皇帝に即位第一帝政が始まる
1805年アウステルリッツの戦いナポレオンがロシア・オーストリア連合軍を撃破
1806年大陸封鎖令イギリスに打撃を与えようとするが、かえって各国との対立が激しくなる
1812年ロシア遠征大陸封鎖令に従わないロシアを攻撃するが、大敗を喫する
1813年ライプツィヒの戦いナポレオンがプロイセン・ロシア・オーストリア連合軍に大敗
1814年皇帝退位ナポレオンはエルバ島に流される
1815年エルバ島脱出ナポレオンがフランス皇帝に復帰
同年ワーテルローの戦いナポレオンが連合軍に敗北し、ナポレオン戦争が終結

ナポレオンはフランス共和国の軍人として活躍し、イタリアでの戦いなどで名声を得た後、力によって政府を倒しました。最初は国を守る戦いから始まりましたが、やがてヨーロッパ全体を支配しようという大きな夢を持つようになります。しかし、その野望はワーテルローの戦いで打ち砕かれてしまいました。

ナポレオン戦争が起きた理由

1789年に始まったフランス革命の理念を守ろうとする国内的要因と、革命がもたらした欧州国際秩序の崩壊という外的要因が重なり合いました。さらに皇帝となったナポレオンの征服欲が拡大し、ヨーロッパ全土を巻き込む大規模な戦争へと発展していったのです。

フランス革命を守るため

ナポレオン戦争は、フランス革命で生まれた自由や平等の考え方を守るために起こりました。フランス革命後、周辺国はこれらの新しい考え方が自国に広がることを恐れ、特にオーストリアやイギリスなどは、フランスの新しい政治体制を潰そうと攻撃を始めました。

フランスは、自国の革命で得た成果や新しい社会の仕組みを守るため戦いましたが、これが次第に拡大し、ナポレオンが指揮するヨーロッパ全体を巻き込む大きな戦争へと発展しました。*2)

フランス革命が国際秩序を崩壊させたから

フランス革命が国際秩序を崩壊させたことは、ナポレオン戦争が起きた大きな理由の一つです。18世紀末のヨーロッパは、各国が勢力均衡を保ちながら安定した国際秩序を築いていましたが、1789年のフランス革命によって王政が倒れ、自由や平等といった革命思想が誕生しました。

この急激な政治体制の変化は、周辺諸国にとって自国の体制やヨーロッパ全体の秩序を脅かす存在となり、革命の波及を恐れたイギリスやオーストリアなどがフランスへの干渉や対仏大同盟の結成に動きました。*3)

つまり、フランス革命は単なる国内の出来事ではなく、ヨーロッパの伝統的な国際秩序を根本から揺るがす事件であり、その混乱と危機感がナポレオン戦争の勃発につながりました。

ナポレオンの野望が大きくなったから

ナポレオン自身の野望が大きくなったことも、ナポレオン戦争が起こった理由の一つと考えられます。ナポレオンは軍事的才能とカリスマ性を活かしてフランス国内で権力を掌握し、フランスをヨーロッパ最強の国家に押し上げるという強い野心を持っていました。

ナポレオンが育て上げた大陸軍(グランダルメ)は、ヨーロッパ最強の軍団へと成長し、彼のヨーロッパ制覇の野望を支えたのです。

彼は単にフランスの防衛や革命の維持にとどまらず、ヨーロッパ全体の覇権を目指し、イギリスへの復讐や大陸封鎖令の発令、さらにはスペインやロシアへの遠征など、積極的な拡張政策を推し進めました。

このようなナポレオンの個人的な野望と帝国主義的な政策が、ヨーロッパの国際バランスを崩し、他の列強諸国との対立を激化させ、ナポレオン戦争の勃発と拡大につながったのです。

ナポレオン戦争の影響

15年以上にわたって継続したナポレオン戦争は、その後のヨーロッパの歴史に大きな影響を与えました。ここでは、ナポレオン戦争がもたらした3つの影響について解説します。

ウィーン体制が成立した

ナポレオン戦争が終わった後、ヨーロッパの国々はオーストリアのウィーンに集まり、戦後の秩序について話し合いました。ウィーン会議から生まれた新しい国際関係の仕組みを「ウィーン体制」と呼びます。オーストリアの宰相メッテルニヒが中心となって進めたため、「メッテルニヒ体制」とも呼ばれています。

ウィーン体制では、フランス革命で崩れてしまった王様が強い権限を持つ政治の形に戻す「復古」が目指されました。また、どの国も一国だけが強くなりすぎないよう「勢力均衡」を大切にする考え方が採用されました。特にフランスが再び強大になって周りの国々を脅かさないようにする政策がとられました。

しかし、フランスからヨーロッパ各地に広がった自由を求める思想は、ウィーン体制を大きく揺さぶることとなります。

フランス革命の思想がヨーロッパ各地に拡大した

ナポレオン戦争の影響として、フランス革命の思想がヨーロッパ各地に広がったことは非常に重要です。ナポレオン戦争を通じて、民主主義、自由や平等、人民主権、近代法、特権階級の廃止といったフランス革命の理念が、ヨーロッパ諸国やラテンアメリカにまで伝播しました。

特にナポレオン法典による近代的な法制度や、人権宣言に基づく基本的人権の考え方は、旧体制が復活した後も各国に影響を残し、後の1848年革命や市民社会の発展の思想的基盤となりました。

※ナポレオン法典

ナポレオン法典は、1804年3月にナポレオン1世によって制定された民法典である。全文2281条から構成されており、私的所有権の絶対性、個人意志の自由、家族の尊重という3つの基本原則に基づいている。*5)

民族主義の高揚や国民国家形成のきっかけとなった

ナポレオン戦争は、ヨーロッパ全域に民族主義の種を蒔くことになりました。フランス軍の占領や支配に抵抗する過程で、各地域の人々は自らの文化的・言語的アイデンティティを強く意識するようになり、民族としての連帯感が生まれたのです。特にドイツやイタリアでは、分断された状態から統一国家を目指す動きが強まりました

ナポレオンが各地に持ち込んだフランス革命の理念は、旧体制への批判的視点と自由・平等・友愛の思想を広め、「国民」という概念を強化しました。また、ナポレオン支配への抵抗運動は、外国支配からの解放という明確な目標のもとに人々を結集させる契機となったのです。*6)

ナポレオン戦争は日本にどのような影響を与えたか

ナポレオン戦争が起こっていた頃、日本では徳川家斉が11代将軍として政治を行っており、華やかな化政文化が発展していました。遠く離れたヨーロッパでの戦争は、日本とは無関係のように思えるかもしれません。

しかし、実はナポレオン戦争の影響は日本にも及んでいました。その具体的な例が1808年に起きた「フェートン号事件」です。この事件は、ナポレオン戦争という国際的な紛争が、思いがけない形で当時の鎖国体制下にあった日本にも波紋を広げた出来事でした。

フェートン号事件を通して、遠く離れた戦争が日本にどのような影響を与えたのかについて解説します。

フェートン号事件とは?

フェートン号事件は、1808年(文化5年)に長崎湾内にイギリス軍艦フェートン号が不法に入り込んだ出来事です。イギリス船はオランダの旗を掲げて長崎に入港し、出迎えた館員を捕まえました。

オランダ船がいないと分かると、日本船や中国船を燃やすと脅し、食料や水を要求しました。3日後に立ち去りましたが、長崎の責任者だった松平康英は自ら命を絶ち、警備を担当していた佐賀の領主・鍋島斉正も100日間の自宅謹慎処分を受けました。*7)

フェートン号事件はなぜ起きた?

フェートン号事件が起きた理由は、ナポレオン戦争によるヨーロッパの国際情勢の変化にあります。1808年当時、オランダはフランスに占領されてバタビア共和国となり、フランスと同盟してイギリスと敵対関係にありました。イギリスはオランダの植民地や商権を奪うため、東アジアでもオランダ勢力を攻撃していました。

その一環として、イギリス軍艦フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕らえて人質とし、水や食料を要求しました。つまり、イギリスがオランダ船やオランダ商館を攻撃・制圧するために日本に来航したことが事件の直接的な理由です。*8)

この事件は、ナポレオン戦争による列強の対立と、イギリスのアジアにおける勢力拡大政策が背景となって発生したものです。

ナポレオン戦争とSDGs

ナポレオン戦争は、フランス革命で成立した近代的な価値観をヨーロッパ各地に広めるきっかけとなりました。ここでは、ナポレオンがフランス人権宣言をヨーロッパ各地に広めたことについて解説します。

SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり

ナポレオン戦争は、フランス革命で成立した民主主義、自由や平等、人民主権、近代法、特権階級の廃止といった価値観やフランス人権宣言をヨーロッパ各地に拡散する大きな役割を果たしました。

ナポレオンは革命の理念を広めるという大義のもと、征服した地域に近代的な法制度(ナポレオン法典)や平等の原則、特権階級の廃止などを導入し、旧来の封建的秩序を打破しました。これにより、ヨーロッパ各地で自由主義や平等の思想、人民主権の概念が根付き、後の市民社会や国民国家形成の基盤となりました。

この動きは、SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」と深く関わっています。ナポレオン戦争による価値観の拡散は、現代のSDGsが目指す「不平等のない社会」づくりに歴史的な影響を与えたといえます。


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まとめ

今回は、ナポレオン戦争について解説しました。18世紀末から19世紀初頭にかけて、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとヨーロッパ諸国との間で繰り広げられたこの戦争は、当初フランス革命の理念を守るためのものでしたが、次第にナポレオン個人の野望へと変化しました。

戦争はヨーロッパの秩序を大きく揺るがし、ウィーン体制の成立や民族主義の高揚といった、その後の世界に多大な影響を与えました。

フランス革命の自由や平等の考え方がヨーロッパ各地に広がり、人々の間に自分たちの国を意識する動きが強まりました。また、遠く離れた日本にもフェートン号事件という形で影響が及び、当時の鎖国体制下の江戸幕府に衝撃を与えました。

ナポレオン戦争は、現代のSDGsの目標である「人や国の不平等をなくそう」という考え方にも繋がる、自由や平等の理念を広めるきっかけとなりました。この戦争が、ヨーロッパの国々に近代的な考え方を広めたことは、歴史的に重要な意味を持っています。

参考
*1)百科事典マイペディア「ナポレオン戦争
*2)スペースシップアース「フランス革命はいつ起こったのか簡単に解説!流れやきっかけ、ナポレオンなど人物や風刺画も紹介!
*3)山川 世界史小辞典「対仏大同盟
*4)山川 世界史小辞典「ウィーン体制
*5)デジタル大辞泉「ナポレオン法典
*6)改定新版 世界大百科事典「国民国家
*7)山川 日本史小辞典 改定新版「フェートン号事件
*8)改定新版 世界大百科事典「フェートン号事件

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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