パリ市内にある共和国広場(レピュブリック広場)には、「マリアンヌ」と呼ばれる像が設置されています。マリアンヌは、フランス共和国を象徴する女性像で、自由の女神としても知られています。
フランス国旗である三色旗(トリコロール)と共に、フランスや革命を象徴するマリアンヌは、革命期に流行していた「フリジア帽」をかぶった庶民の女性であり、君主制に対抗する人々を守る救世主として描かれます。
では、三色旗とマリアンヌを生み出したフランス革命とは、どのようなものだったのでしょうか。本記事は、フランス革命の背景や流れ、後の時代に与えた影響などについて解説します。
加えて、日本の自由民権運動への影響やSDGsとの関わりについても見ていきますので、興味がある方は、ぜひ参考にしてください。
目次
フランス革命とは
フランス革命とは、1789年から1799年にわたっておきた市民革命です。革命により絶対王政が倒され、第一共和政が成立しました*1)。
アンシャン=レジームの限界
革命前、フランスでは「アンシャン=レジーム(旧制度)」によって国が治められていました。
1789年に開かれた三部会では、議決方法を巡って第一・第二身分と第三身分が対立して混乱が発生してしまいます。フランスの混乱は、三部会を含む古い仕組みで解決できなくなっていたのです。
フランス革命が起きた背景
フランス革命は、1789年から1799年までの10年間を指すのが一般的です。革命の流れは4つの段階に区分できます。
1789年6月~1791年9月 | フランス革命の始まり |
1791年10月~1792年9月 | 革命戦争の始まり |
1792年10月~1794年7月 | ロベスピエールによる恐怖政治 |
1795年8月~1799年11月 | 総裁政府の成立とナポレオンの登場 |
4つの区分に沿って、フランス革命の流れを整理します。
第1段階:フランス革命の始まり
1789年5月に招集された三部会では、議決方法を巡って第三身分と第一・第二身分が対立しました。話し合いは不調に終わり、第三身分は国民議会の開催を宣言し、憲法制定まで解散しないという「テニスコートの誓い」を行いました。
一方、国王ルイ16世は三部会を解散して国民議会に譲歩する姿勢を見せましたが、第一身分や第二身分に課税しようとした財務大臣のネッケルがクビにされたことをきっかけに、パリの民衆が怒り、バスティーユ牢獄を襲撃しました。一般的に、バスティーユ牢獄の襲撃がフランス革命のスタートとみなされます。
同時に、農村では領主が農民を襲撃するという噂が広まり、おびえた農民が領主を襲撃する大恐怖という事態も発生し、フランス全土が混乱状態となりました。
1789年8月4日、国民議会は農奴制や領主裁判権、十分の一税などを廃止する封建的特権の廃止を決議し、同年8月26日には人権宣言を発表しました*3)。
国内が大混乱する中、国王は有効な対策を打つことができませんでした。さらに事態を悪化させたのが小麦の凶作による食料価格の高騰です。これに怒ったパリの女性たちがヴェルサイユ行進を行って国王をヴェルサイユ宮殿からパリの市内に強制的に移動させられます。
事態の急変に恐れを抱いたルイ16世と妻のマリー=アントワネットは、ひそかにパリを脱出しました。しかし、途中で見つかってパリに連れ戻されます。この事件を、ヴァレンヌ逃亡事件といいます。
事件で国王は国民の信頼を失ってしまい、王権が停止され、革命はさらに激しいものとなりました。
第2段階:革命戦争の始まり
国王夫妻が捕らわれたことを知ったオーストリア皇帝レオポルド2世(マリー・アントワネットの兄)は、プロイセン王とともにピルニッツ宣言を出して、王政の復活を要求しました。これがきっかけで、フランスとオーストリア・プロイセン連合軍の戦いが始まります。
国民議会の後で成立していた立法議会は、非常事態を宣言して各地の義勇兵に救援を求めます。これに応じて集まったマルセイユの部隊が歌っていたのが、後のフランス国家となる「ラ=マルセイエーズ」です。1792年9月20日、フランス革命軍はヴァルミーの戦いでプロイセン軍に初勝利します。
このとき、プロイセン軍の中にいたドイツの詩人ゲーテは、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記しました。これは、市民が中心で装備や訓練度に劣っていたフランス革命軍がプロの軍人であるプロイセン軍に勝ったからです。
第3段階:国王処刑とロベスピエールによる恐怖政治
1792年9月20日に招集された議会のことを「国民公会」といいます。国民公会は、9月21日から22日にかけて、王政の廃止と共和制の開始を宣言しました。ブルボン朝フランス王国は滅亡し、フランス共和国(第一共和政)の時代となります。
国民公会内では、国王処刑は外国を刺激するので止めるべきだとするグループと、国王は処刑するべきだとするグループに分かれて対立します。1793年1月14日、国民公会は僅差でルイ16世の処刑を決定しました。
処刑決定から1週間後の1月21日、ルイ16世はギロチンにかけられて処刑されます。この知らせを聞いたイギリス首相のピットは、革命が各国に広がることを恐れて「対仏大同盟」の結成を呼び掛け、フランス対諸外国の戦いが激しさを増します。
国王処刑後、徐々に影響力を強めたのが急進派のリーダーであるロベスピエールでした。
ロベスピエールは、公安委員会の委員として反革命派を弾圧し、次々にギロチンで処刑しました。反対派を次々に処刑したロベスピエールの政治は、恐怖政治と呼ばれます。加えて、最高価格令や徴兵制など急激な改革を推し進めたため、次第にロベスピエールは民衆の支持を失います。
1794年7月、ロベスピエールの恐怖政治に反発する議員たちが、国民公会でロベスピエール逮捕を決議して彼を失脚させました。この出来事を「テルミドール9日のクーデタ」といいます*11)。
クーデタで失脚したロベスピエールはギロチンで処刑され、彼に率いられたジャコバン派も崩壊してしまいました。
第4段階:総裁政府の成立とナポレオンの登場
ロベスピエールが失脚したころ、フランス社会は落ち着きつつありました。外国との戦いの激しさがある程度収まり、農民たちは新たに得た土地を守ろうと私有財産の保護に関心を示すようになります。彼らは、革命がさらに進んで土地が奪われないようにしたかったのです。
そのため、1795年の憲法では制限選挙の復活や権力の分散などが定められます。貴族の復帰につながる王政復古や革命派の独裁を防ごうという意図が読み取れる憲法となっています*12)。
1795年憲法後に成立した総裁政府は、5人の総裁と2つの議会(元老会と五百人会)を中心とした仕組みであり、独裁体制が成立しにくい体制となっています。しかし、政権基盤が弱体であったため、政治が不安定でした*13)。
政治が不安定な状態で現れ、国民の人気を得ていったのが軍人のナポレオンです。彼は、1796年4月のイタリア遠征で、オーストリア軍を撃破して一躍有名となります。その後、ブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、フランス革命の終結を宣言しました。
フランス革命が与えた影響
フランス革命は、後世に様々な影響を与えたといわれます。1つ目の影響は、ナポレオン台頭のきっかけになったこと、2つ目の影響は自由や平等の理念がヨーロッパに広がるきっかけになったことです。2つの影響について詳しく見てみましょう。
ナポレオン台頭のきっかけとなった
フランス革命の英雄といえば、ナポレオンです。コルシカ島の下級貴族の家に生まれたナポレオンは、フランス革命でチャンスをつかみ、皇帝への道を駆け上がっていきます。
フランス革命前のフランス軍では、貴族が将校となっていました。しかし、革命により多くの貴族が亡命したことで、将校の数が少なくなっていたため、ナポレオンは若くして砲兵隊長の一人となります。
そして、トゥーロン攻囲戦で大砲を巧みに使いこなし功績を上げると、24歳にして将軍となりました。1795年にパリで王党派の反乱であるヴァンデミエール反乱がおきると、ナポレオンは鎮圧作戦の指揮をとって短期間で勝利します。
さらに、1796年から翌年にかけてのイタリア遠征ではオーストリア軍を相手に連戦連勝し、第一回対仏大同盟を崩壊に追い込む大活躍を見せました。ナポレオンはフランス革命の混乱でチャンスをつかみ、革命を象徴する人物となったのです。
自由や平等の理念を盛り込んだ政策が実現した
フランス革命は、単純に絶対王政を打倒した革命というだけではなく、自由や平等の理念をカタチにした革命でもあります。その集大成が人権宣言です。
人権宣言には、以下の理念が盛り込まれました。
- 国民の自由と平等
- 圧政に抵抗する権利
- 国民主権
- 法による支配
- 権力の分散
- 私有財産の不可侵
フランスの事件宣言は、アメリカ独立宣言や啓蒙思想の影響を強く受けたものでしたが、近代国家にとって重要な考え方が多数含まれています。市民の権利を明確にして文章化した人権宣言は、市民革命の象徴ともいえるものなのです*14)。
フランス革命と日本の関わりは?
フランス革命は、遠く離れた日本にも影響を及ぼしました。中でも、革命中にできた「人権宣言」は、自由民権運動にも強い影響を与えます。ここでは、人権宣言と自由民権運動との関わりを解説します。
自由民権運動に影響を与えた
人権宣言に盛り込まれた、国民の自由と平等や圧政に対する抵抗権といった考え方は、日本の自由民権運動にも大きな影響を与えています。
たとえば、自由民権運動の時代に活躍した明治前期の思想家である植木枝盛は、人民の抵抗権を盛り込んだ憲法案である「日本国国憲按(東洋大日本国国憲按)」を起草しています。この憲法案では、徹底した人権保障や抵抗権、革命権などが盛り込まれています*。
フランス革命とSDGs
フランス革命は、絶対王政の時代に軽視されていた人々の権利を確立する重要な革命でした。人々の権利は、SDGsとも深くかかわるテーマです。ここでは、フランス革命とSDGs目標10との関わりについて解説します。
SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり
SDGs目標10は、国家間の不平等や国内の不平等をなくすことを目指しています。フランス革命が起きたころ、フランスはアンシャン=レジームの時代であり、国王や聖職者・貴族といった支配者と、一般の平民(市民や農民)との間に大きな格差がありました。
平民は政治に参加する権利がなく、納税負担を負わされるなど不平等な状態が続いていました。SDGs目標10のターゲット10.4では、税制や賃金、社会保障政策などで平等の拡大を進めると定めています。
一部の特権的な人々による支配ではなく、すべての人々が平等にチャンスを与えられる時代になるきっかけを作ったのがフランス革命だといえます。人権宣言は、フランス革命の精神を形にしたという点で非常に重要なものだといえるでしょう。
まとめ
今回は、フランス革命について解説しました。フランス革命は、絶対王政の矛盾と経済危機を背景に、市民が権利を求めて立ち上がった革命でした。
1789年のバスティーユ牢獄襲撃を皮切りに、王政が廃止され、共和制へと移行します。革命は、自由と平等の理念を掲げ、人権宣言を生み出し、近代社会の礎を築きました。
しかし、革命の過程では恐怖政治による混乱も発生し、最終的にはナポレオンの台頭を招くことになります。フランス革命は、その後の世界史に大きな影響を与え、現代社会においても自由・平等・人権といった普遍的な価値観の重要性を改めて認識させてくれます。
参考
*1)山川 世界史小辞典 改定新版「フランス革命」
*2)精選版 日本国語大辞典「アンシャンレジーム」
*3)山川 世界史小辞典 改定新版「バスティーユ」
*4)デジタル大辞泉「農奴」
*5)旺文社世界史事典 三訂版「領主裁判権」
*6)デジタル大辞泉「十分の一税」
*7)日本大百科全書(ニッポニカ)「マリ・アントワネット」
*8)旺文社世界史事典 三訂版「ヴァルミーの戦い」
*9)改定新版 世界大百科事典「ギロチン」
*10)山川 世界史小辞典 改定新版「ロベスピエール」
*11)改定新版 世界大百科事典「テルミドール9日」
*12)山川 世界史小辞典 改定新版「フランス、95年憲法」
*13)百科事典マイペディア「総裁政府」
*14)山川 世界史小辞典 改定新版「人権宣言」
*15)日本大百科全書(ニッポニカ)「日本国国憲按」