エジソンはどんな人?功績や生い立ち、世に与えた影響も

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「天才とは99%が発汗であり、残りの1%が霊感である」

この言葉を残したのが、発明王トーマス・エジソンです。

白熱電球や蓄音機など、現代の暮らしを根本から変えた発明品を生み出した彼は、実は小学校をわずか3か月で退学した「落ちこぼれ」でもありました。しかし、独学と不屈の努力によって、生涯で1,300件以上の特許を取得します。

ところが、その輝かしい成功の陰には、交流電力の台頭による事業失敗という痛烈な挫折もありました。天才と呼ばれながらも、失敗と立ち直りを繰り返したエジソンとは、いったいどのような人物だったのでしょうか。

その功績・生い立ち・世の中への影響を順に見ていきましょう。

まずはエジソンの功績を確認

エジソンは「発明王」と呼ばれるアメリカの発明家です。多数の特許を取得し、電灯・蓄音機・映画撮影機など現代生活に直結する発明を数多く生み出しました。

1,300件以上の特許を取得

エジソンは、一生のあいだに1,300件以上もの特許を取りました。そのため、「最後の発明王」と呼ばれることもあります。

1869年に作った「電気投票記録機」をはじめとして、株の値段を知らせる機械や、文字を送れる電信機、さらに一度にたくさんの信号を送れる電信機など、次々と新しいものを発明しました。

エジソンは「本当に必要とされているものを発明する」という考えを大切にしていました。このように、役に立つことを重視していたことが、多くの特許を生み出した理由です。*1)

白熱電球と電機システムの開発

1879年、エジソンは炭(すみ)を使ったフィラメントの白熱電球を作ることに成功しました。

しかし、エジソンが本当に大切にしていたのは、電球そのものではありませんでした。電気を安全に、そして安定して使える「しくみ」全体を作ることを目標にしていたのです。

  • 電球を取り付けるソケット
  • 事故を防ぐ安全ヒューズ
  • 使った電気の量をはかる電力計
  • 電気を送る地下ケーブル
  • 安定した電気を作る発電機(定電圧直流発電機)
  • 電気を分ける配電盤

これらは電気を使うために不可欠な設備です。

そして1882年には、ロンドンとニューヨークで、世界で初めての中央発電所を動かすことに成功しました。エジソンは、電球を発明しただけでなく、電気を町中で使える社会のしくみを作り上げたのです。*2)

蓄音機の発明

1877年、エジソンはグラハム・ベルが電話を発明したことに強い刺激を受けました。そして「人の声を録音して、もう一度聞くことはできないか」と考え、研究を重ねた結果、蓄音機を発明しました。

最初は、錫(すず)のうすい金属のシートに音を録音していましたが、翌1878年には、より使いやすい、ろう(蝋)でできた円筒(蝋管)に改良しました。

エジソンはその後も音の研究を続け、晩年には映像と音を組み合わせたキネトホンの開発にも取り組みました。エジソンは、生涯を通して「音」に強い情熱を持ち続けていたのです。*2)

電信・電話関連技術の改良

エジソンは1876年、ベルが電話を発明したころ、炭素の粒を使って声を電気信号に変える送話器(カーボンマイク)を考え出し、1878年に特許を取りました。これは現在のマイクのもとになった発明です。

また、1872年には二重電信機、1874年には四重電信機を発明し、一度に多くの通信ができるようにして、広がりつつあった電信の発展を支えました。

エジソンの生い立ち①:幼少期~青年期

エジソンは1847年2月11日、アメリカのオハイオ州ミランで生まれました。とても好奇心が強い少年でしたが、小学校はわずか3か月でやめています。その後は学校に通わず、自分で勉強を続けました。また、電信技士として働く中で電気や通信の知識を身につけ、発明家としての力を少しずつ育てていきました。

エジソンの性格

エジソンは非常に努力する人といわれてきました。少年時代には列車の中で新聞を売りながら、学び続けました。耳が不自由になってからも科学雑誌を読み続け、学びをやめませんでした。

また、学校の決まった勉強のやり方にとらわれず、「今の教育は自由な発想を育てない」と批判するなど、型にはまらない強い探究心を持っていました。こうした性格が、多くの発明を生み出す力になったのです。*2)*3)

独学中心の教育

7歳のときにミシガン州ポートヒューロンへ引っ越したエジソンは、地元の小学校に通いましたが、わずか3か月でやめてしまいました。その後は、元教師だった母親から家で勉強を教わります。

とくに理科に強い興味を持ち、自宅の地下室に小さな実験室を作って、実験や工作に夢中になりました。のちにボストンでファラデーの『電気学の実験的研究』を読み、数式よりも実験を重んじる考え方に大きな影響を受けました。*2)

電信技士として各地を回る

1862年、エジソンは駅長の子どもを助けたお礼に電信の技術を教わりました。その後、1869年まで各地で電信技師として働きながら、科学雑誌を読みあさって知識と技術を身につけます。

1869年に会社を辞めて独立し、電気投票記録機で最初の特許を取得しました。さらに株式相場表示機が4万ドルで売れ、発明家として活動するための資金を得ました。*2)*3)

エジソンの生い立ち② :メンロパークでの研究生活

1876年、エジソンはニュージャージー州メンロパークに研究所を移設しました。30代前半のこの時期が最も創造力に満ちた時期で、蓄音機や実用的白熱電球など数々の大発明が生まれています。

蓄音機や実用的白熱電球を発明

1876年から1881年までのメンロパークで過ごした時期は、エジソンにとって発明が次々と生まれた黄金期でした。

1876年には電話の発明に刺激を受けてカーボンマイクを考案し、1877年には音を録音・再生できる蓄音機を完成させます。さらに1878年から白熱電球の研究に取り組み、装置を改良しながら実験を重ねました。

そして1879年10月21日、40時間以上光り続ける実用的な電球の製作に成功します。この時代は特許の価値が高まり、エジソンの名声も一気に広がりました。

個人の発明家から組織的な研究開発への移行

メンロパークの研究所は、エジソンが多くの専門家を集めて一緒に研究を進めた場所で、発明工場ともいえる存在でした。ここは、今の企業の研究所のはじまりと評価されています。エジソンは新しい技術を作るだけでなく、売れるかどうかも考えていました。

たとえば電灯の開発では、当時使われていたガス灯より費用が安くなるかを最初から意識して研究を進めました。1882年にはロンドンとニューヨークに世界初の中央発電所をつくり、エジソン電灯会社を設立して電気事業を大きく発展させました。

エジソンの生い立ち③:電力事業の拡大

1882年の発電所開設後、エジソンは電力事業を大きく拡大しました。1887年には研究所をウェストオレンジに移し、当時世界最大の研究開発機関を構築。映画や蓄電池など発明領域も広がっていきます。

研究所をウェストオレンジに移す

1887年、エジソンはニュージャージー州ウェストオレンジに新しい研究所をつくりました。ここには45〜60人ほどの研究員が集まり、当時世界でも最大級の研究施設だったといわれています。

メンロパーク時代よりも人数が大きく増え、研究の進め方もより組織的になりました。その結果、さまざまな分野の発明を同時に進めることができるようになり、エジソンの活動はさらに広がっていきました。

電力供給事業の拡大と挫折

電気を広く安全に届けるため、エジソンはエジソン電灯会社をつくり、配電の仕組みを整えていきました。しかし将来は高い電圧で遠くまで送れる交流方式が有利になることを見抜けず、これが後の大きな失敗につながります。

さらに電灯の特許をめぐる裁判で多くの費用を失い、経営の主導権も手放すことになりました。この会社はその後ほかの企業と合併し、やがて世界的企業GE社へと成長していきました。*2)*3)

映画撮影装置などの開発

1891年、ウェストオレンジ時代のエジソンは、映画を撮影する機械キネトグラフと、映像を見る装置キネトスコープを発明しました。キネトスコープは1893年のシカゴ万国博覧会で公開され、大きな注目を集めて広まりました。

1889年には蓄音機を大きく改良し、1913年には映像と音声を同時に楽しめるキネトホンも開発します。エジソンの発明は、音と映像を組み合わせる技術の先がけとなったのです。

エジソンの生い立ち④ :晩年

晩年のエジソンは電灯・電力事業から離れ、蓄電池の研究や自動車産業との関わりに精力を注ぎました。第一次世界大戦では海軍顧問会議会長として軍事技術にも貢献し、1931年に84歳で生涯を閉じています。

蓄電池の研究

1900年ごろから、エジソンはアルカリ蓄電池の研究を始めました。これは1909年に実用化され、エジソン電池として知られるようになります。従来の鉛蓄電池よりも軽く、長く使えることが特長で、電気自動車への利用も期待されました。*5)

晩年はウェストオレンジに戻り、ゴムの代わりになる植物の研究などにも取り組み、生涯にわたって研究と仕事を続けました。

自動車産業との関わり

エジソンは1901年、ニッケル鉄系のアルカリ蓄電池(エジソン電池)を開発し、電気自動車(EV)への搭載を実現しました。この電池は従来の鉛蓄電池より軽くて長持ちし、1回の充電で約137kmを走ることができたとエジソンは語りました。*6)

また、エジソンの会社で働いていたヘンリー・フォードとは退社後も親交が続き、1914年頃まで大衆向けEVの共同開発を進めていました。*7)

エジソンの死

エジソンは1931年10月18日、ニュージャージー州ウェストオレンジの自宅で84歳で亡くなりました。たぐいまれな努力家であり、亡くなる直前まで発明や研究を続けていたといわれています。

葬儀の夜、当時のフーバー大統領は彼に敬意を表するため、1分間の消灯を呼びかけました。それほどエジソンは、多くの人々に尊敬され、愛されていた存在でした。エジソンは自宅の裏に埋葬されました。*

エジソンが世の中に与えた影響

エジソンの発明は単なる技術革新にとどまらず、人々の生活様式そのものを根本から変えました。電気照明・蓄音機・映画・組織的研究開発という4つの側面から、その影響を見ていきましょう。

電気照明の普及で夜を変えた

白熱電球と電気の仕組みが完成したことで、夜でも明るく活動できるようになりました。1882年にロンドンとニューヨークで発電所が動き始めると、ろうそくやガス灯に代わって電灯が広がっていきました。

エジソン電灯会社はその後発展し、現在の世界的な電機メーカーGE社のもとになりました。エジソンは電気産業の土台を築いた人物といえます。

音を残す技術を生み出した

1877年に発明された蓄音機は、音を記録してもう一度聞けるようにした初めての機械でした。それまで音楽や人の声は、その場で演奏や発声をしないと聞くことができませんでした。蓄音機の登場によってレコード産業が生まれ、音楽が広く人々に広まりました。

エジソン自身もインタビューに対し、「Of all my inventions, I liked the phonograph best.」とのべ、蓄音機を最も好きな発明として挙げています。

映画産業の基礎を築いた

1891年に発明されたキネトグラフ(撮影機)キネトスコープ(映像を見る装置)は、映画の始まりとなる大切な技術でした。キネトグラフとキネトスコープを組み合わせた活動写真は人々の生活を大きく変えたといわれています。

エジソンはフランスのリュミエール兄弟とともに映画の生みの親の一人であり、その技術は現代の映画や映像産業の出発点となりました。映画館文化の広がりにも大きな影響を与えました。

研究開発の仕組みを作った

エジソンがメンロパークやウェストオレンジに作った研究所は、さまざまな専門家を集めてチームで発明に取り組む、世界でも早い時期の本格的な研究施設でした。ここでは一人の天才に頼るのではなく、多くの人が協力して計画的に研究を進めました。このやり方は、今の企業にある研究開発(R&D)部門のもとになったといわれています。

エジソンとSDGs

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エジソンの発明や思想は、今日のSDGsの視点からも重要な示唆を持ちます。特にエネルギーの普及と産業・技術革新という目標との関わりが深く、その先駆的取り組みは現代にも受け継がれています。

SDGs目標7「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」との関わり

SDGs目標7は「すべての人々に、安価かつ信頼できる持続可能なエネルギーへのアクセスを確保する」ことを掲げています。エジソンが1882年に世界初の中央火力発電所を開設し、電力供給システムを構築したことは、まさにエネルギーを「みんなに届ける」という理念の出発点といえます。

エジソンはソケット・配電盤・地下ケーブルなど電灯に必要なシステム全体を設計し、電気を社会インフラとして根付かせました。現代のエネルギーアクセスという課題は形を変えながらも続いており、エジソンの「実用化への徹底したこだわり」は今なお手本となっています。

SDGs目標9「産業と技術革新の基盤を作ろう」との関わり

SDGs目標9は「持続可能な産業化の促進とイノベーションの推進」を求めています。エジソンがメンロパーク・ウェストオレンジに設けた組織的な研究所は、現代の企業研究開発部門の原型です。

エジソンは、個人ではなくチームで技術革新を推進するという現代的な枠組みをいち早く体現していました。白熱電球から映画撮影機まで、実用性を軸に複数分野を横断して革新を続けた姿勢は、SDGsが求める「包摂的で持続可能なイノベーション」の精神に通じるものがあります。

>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

今回はエジソンの生涯にスポットを当てました。トーマス・エジソン(1847〜1931)は、1300件以上の特許を取ったアメリカの発明家であり、事業家でもあります。

小学校をわずか3か月でやめましたが、母から学びながら独学を続け、電信技師として働く中で知識と技術を身につけました。

メンロパーク時代には、蓄音機や白熱電球、電気の仕組みを次々と生み出し、「発明王」と呼ばれるようになります。その後はウェストオレンジに大きな研究所をつくり、映画の装置や蓄電池など新しい分野にも挑戦しました。

交流と直流の争いに敗れるなどの困難もありましたが、亡くなる直前まで研究を続けました。エジソンは多くの発明だけでなく、電気を社会に広め、チームで研究する仕組みを築いた人物として、今も高く評価されています。

参考
*1)改定新版 世界大百科事典「エジソン
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「エジソン
*3)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エジソン
*4)米国国立公園局「Edison Biography – Thomas Edison National Historical Park (U.S. National Park Service)
*5)日本大百科全書(ニッポニカ)「エジソン電池
*6)乗り物ニュース「“100年前のEV”結構すごかった! エジソンが開発 ガソリン車よりいい線いってた?
*7)NATIONAL GIOGRAPHIC「電気自動車とエジソン、車と燃料の歴史
*8)アメリカ大統領府「Statement on a National Tribute to Thomas Alva Edison.
*9)Quote Investigator「Of All My Inventions I Liked the Phonograph Best

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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