尊王攘夷とは?尊王攘夷運動の概要や背景などを解説!

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京都の東山にある霊山護国神社には、坂本龍馬や中岡慎太郎、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作など、幕末に国の未来を懸けて行動した志士たちが祀られています。彼らが命を懸けて守ろうとしたのは、日本が外国の植民地にならないことでした。

ペリー来航をきっかけに幕府の力が弱まり、人々の間では「国を守りたい」「正しい政治を取り戻したい」という思いが高まります。その中心にあったのが「尊王攘夷」という考えで、天皇を敬い、外国の支配を退けようとする動きでした。

やがて志士たちは、力で外国を排除することは難しいと悟り、開国と近代化へと舵を切ります。今回は、尊王攘夷運動の内容や結果、日本社会に与えた影響について解説します。

尊王攘夷とは

尊王攘夷とは、江戸時代の末に広まった政治的な考え方で、「天皇を大切にし、外国の勢力を退けよう」という意味を持ちます。*1)

もともとは中国で王を敬い、異民族を追い払う考えから生まれましたが、日本では幕末に独自の形で発展しました。当時、外国からの開国要求や不平等な条約に不満が高まり、幕府の力も衰えていました。

こうした状況の中で、水戸藩の学問である水戸学などの影響を受けた武士たちが、天皇を中心とした国づくりを目指し行動を起こします。

水戸学

水戸藩主・徳川光圀の「大日本史」編さんから生まれた学問で、儒学を基に国学や神道を融合し、天皇を敬う思想を広めた学派。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。*2)

この思想は全国に広まり、やがて幕府を倒して新しい政府をつくる動きへとつながり、明治維新の原動力となりました。

「尊王論」と「攘夷論」が結合

尊王攘夷運動は、「尊王論」と「攘夷論」という二つの考えが結びついて生まれた政治思想です。*1)

尊王論とは、天皇を国の中心として敬い、その権威を重んじるべきだとする考え方です。もともとは儒学の思想を基に、社会秩序を安定させるために君主を尊ぶというものでした。しかし江戸時代の後期、幕府の力が弱まるにつれ、天皇を国家統一の象徴とみなす考えが強まり、幕府に代わる政治の中心として天皇を推す動きが出てきました。*3)

一方、攘夷論とは、外国勢力の進出を退け、日本を守ろうとする思想です。欧米諸国が開国を迫る中で、国の独立を守るために外国を排除すべきだという考えが広がりました。*4)

こうした尊王と攘夷の考えが結びつき、「天皇を中心に国をまとめ、外国の干渉を拒むべきだ」という思想が形成されました。これが全国に広まり、やがて幕府を倒して新しい政府をつくる運動へと発展していきました。

尊王攘夷運動とは

尊王攘夷運動とは、幕末に尊王攘夷の考えを掲げて起こった政治運動です。1858年の日米修好通商条約の締結をめぐり、天皇の許可を得ずに条約を結んだ幕府への反発が高まり、尊王論と攘夷論が結びついて大老・井伊直弼への反対運動へと発展しました。

当初は幕府を倒すことが目的ではありませんでしたが、外国の圧力が強まる中で次第に反幕府の性格を強め、薩英戦争や下関戦争、禁門の変などを経て倒幕運動へとつながりました。

この動きは全国に広がり、下級武士や学者、神官、農商層も参加し、最終的に明治維新を導く大きな原動力となりました。

尊王攘夷との違い

尊王攘夷は思想であり、尊王攘夷運動はその考えをもとに行動した運動です。両者は理念と実践という点で異なります。

区分尊王攘夷尊王攘夷運動
性質思想・理念政治運動・実践
内容天皇を敬い、外国の干渉を退けるという考え尊王攘夷の考えをもとに幕府や外国に抵抗する行動

尊王攘夷は、天皇を中心とする政治を尊び、外国の干渉を排除して国を守ろうとする思想です。幕府の権威が衰え、外国からの圧力が高まる中で生まれ、水戸学などを通して全国に広まりました。この考えは、当時の人々に「日本の進むべき道」を示す精神的な支柱となりました。

一方、尊王攘夷運動は、その思想を現実の政治行動として実践したものです。1858年の日米修好通商条約の締結をきっかけに、幕府の開国政策や専制に反対する形で広がり、外国との戦争や倒幕運動へと発展しました。

つまり、尊王攘夷が「国をどうすべきか」という理念であるのに対し、尊王攘夷運動は「その理想を実現するための行動」であるという点で違いがあります。

尊王攘夷運動が起きた背景

尊王攘夷運動の背景には、幕府が天皇の許可を得ずに結んだ不平等な条約への不満がありました。さらに、大老・井伊直弼の強引な政治に対する反発が加わりました。

不平等条約に対する怒り

尊王攘夷運動の背景には、幕府が外国と結んだ不平等な条約に対する強い反発がありました。1854年、幕府は日米和親条約を結び、開国への道を進めようとしましたが、朝廷は外国を排除すべきと考え、これを認めませんでした。

さらに、生活が苦しく政治への不満を抱いていた地方の武士たちは、幕府が外国の圧力に屈して条約を結んだことに怒りを募らせました。

その後、大老となった井伊直弼が、1858年に天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約を結びました。この条約は、日本が関税を自由に決める権利を持たず(関税自主権の欠如)、また日本で罪を犯した外国人を日本の法律で裁けない(領事裁判権を認める)など、日本に不利な内容でした。*7)

こうした不平等が「国の尊厳を損ねた」と受け止められ、人々の不信と憤りを一層強め、幕府に対抗する尊王攘夷運動の大きな原動力となっていきました。

井伊直弼への反発

尊王攘夷運動の背景には、大老・井伊直弼に対する強い反発がありました。井伊は将軍の後継問題(将軍継嗣問題)で対立していた一橋派を排除し、さらに天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約を結びました。この強引な政治手法に多くの武士や公家が不満を抱き、幕府への不信が一気に広がります

将軍継嗣問題

13代将軍徳川家定の後継者をめぐって起こった政治対立。一橋慶喜を推す一橋派と紀州徳川慶福を支持する南紀派が対立した政争である。最終的に慶福が将軍となり、この対立が安政の大獄の原因となった。*8)

その後、井伊は反対勢力を抑え込むために「安政の大獄」と呼ばれる大規模な弾圧を実施し、吉田松陰橋本左内など多くの志士が処刑や投獄されました。この厳しい取り締まりは、人々に幕府の専制的な姿勢を強く印象づけ、かえって反幕府の動きを加速させる結果となります。*9)

最終的に、井伊は1860年の「桜田門外の変」で志士たちに暗殺され、幕府の権威は大きく揺らぎました。こうした一連の出来事が、人々の心に火をつけ、尊王攘夷運動の高まりへとつながっていったのです。

尊王攘夷運動の結果

尊王攘夷運動の結果、外国を追い払うという攘夷の試みは失敗に終わりました。しかし、その過程で幕府の弱さが明らかとなり、倒幕運動が勢いを増しました。そして、開国を受け入れた日本は、近代国家への道を歩み始めたのです。

攘夷の失敗

尊王攘夷運動の中で掲げられた「攘夷」、つまり外国勢力を武力で追い払おうとする試みは、最終的に失敗に終わりました。

幕末の下級武士たちは、外国貿易によって物価が上がり生活が苦しくなる中で、朝廷の尊攘派と結びつき、外国を排除する運動を強めました。特に水戸藩長州藩では、藩として攘夷を主張し、天皇の名のもとに攘夷を実行しようとしました。*10)*11)

しかし、1863年の八月十八日の政変で公武合体派に敗れ、政治的な主導権を失います。

八月十八日の政変

1863年に会津藩や薩摩藩などの公武合体派が、長州藩を中心とする尊攘派を京都から追放した政変。この結果、朝廷の実権は公武合体派が握り、尊攘派は討幕運動へと転じる契機となった。*12)

さらに、薩英戦争四国連合艦隊による下関砲撃を通じて、外国の軍事力との大きな差を痛感しました。

薩英戦争

 1863年、生麦事件の賠償交渉がもとで起きたイギリス艦隊と薩摩藩の戦争。鹿児島が砲撃されたが、後に和議が結ばれ、薩摩藩はイギリスと親交を深め近代化を進めた。*13)

四国連合艦隊による下関砲撃

1864年、長州藩が外国船を砲撃したことをきっかけに、英・仏・蘭・米の四国連合艦隊が下関を攻撃した事件。長州藩は敗北し、講和後に開国へと方針を変えた。*14)

こうして、武力による攘夷が現実的ではないことが明らかになったのです。

倒幕への転換

尊王攘夷運動は、当初は外国を排除して国を守ろうとする動きでしたが、次第にその方向を変えていきました。薩英戦争や四国連合艦隊の下関砲撃を通じて、日本の武力が西洋列強に及ばないことが明らかになると、武力で外国を追い払うことが不可能だと悟った人々が現れます。

こうして、外国を拒むのではなく、むしろ学び取り、国を強くしようという考えが広がりました。また、幕府の無力さが露わになったことで、尊王攘夷を掲げていた人々の一部は、幕府を倒して新しい政治体制を築くべきだと考えるようになります。

薩摩藩と長州藩が手を結んで薩長同盟を結成すると、運動の中心は外国排除から幕府打倒へと完全に転換しました。こうして尊王攘夷運動は、明治維新へとつながる倒幕運動へ発展していったのです。

尊王攘夷運動が世間に与えた影響

尊王攘夷運動は日本の歴史に大きな影響を与えました。ここでは、尊王攘夷運動の一部である天誅組の変や生野の変と農民の結びつきについて解説します。

尊王攘夷運動の民衆への影響と運動の限界

生野の変天誅組の変は、幕末の尊王攘夷運動の中で起こった代表的な挙兵です。これらの運動では、平野国臣や吉村寅太郎ら尊攘派志士が「年貢半減」を掲げて農民を動員し、代官所を襲撃しました。

生野の変

1863年、尊王攘夷派の平野国臣らが但馬国生野で挙兵した事件。天誅組に呼応し、農民や豪農も加わって代官所を占拠したが、諸藩の出兵や内部対立でわずか3日で鎮圧された。*15)

天誅組の変

1863年、大和国(奈良県)で吉村寅太郎・藤本鉄石ら尊攘派志士が起こした挙兵事件。公卿中山忠光を主将とし代官所を襲撃したが、政変で支援を失い、諸藩により鎮圧された。*16)

しかし、農民は尊王攘夷の政治的な理念を十分に理解していたわけではなく、年貢の軽減など生活の改善を期待して参加したにすぎませんでした。そのため、形勢が不利になると農民は離反し、時には反撃することもあったのです。*17)

生野の変や天誅組の変は、尊王攘夷運動が一部の志士による政治運動であり、民衆との間に大きな思想的ギャップがあったことを示しています。

尊王攘夷とSDGs

尊王攘夷運動は、幕末の日本で外国の勢力に反発し、天皇を中心とする政治を取り戻そうとした動きです。この運動を、現代のSDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」と比べると、その違いや関わりが見えてきます。

SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり

幕末の日本には、今の時代のようにSDGsといった国際的な考え方はありませんでした。尊王攘夷運動は、外国の勢力が日本に入りこみ、日米和親条約をはじめとする「安政の五カ国条約」などの不平等な条約を結ばされたことへの反発から生まれた運動です。

人々は外国を追い出し、天皇を中心とした政治で日本の独立を守ろうとしました。志士たちは、日本が外国の植民地にならないよう命をかけて活動したのです。尊王攘夷運動には外国を排除しようとする排他的な面がありましたが、当時の日本が植民地主義の広がる世界の中で自国を守るためには、そのような姿勢も必要でした。

強い国が弱い国を支配して不平等を生み出す植民地主義は、SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」に反するものです。尊王攘夷運動は、そうした不平等な国際関係に対して日本が独立を守ろうとした歴史的な動きだったのです。

>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから

まとめ

今回は尊王攘夷について解説しました。尊王攘夷とは、「天皇を大切にし、外国の勢力を退けよう」という考えに基づく思想で、幕末の日本を大きく動かしました。

外国との不平等な条約や幕府の弱体化をきっかけに、武士や民衆が立ち上がり、薩英戦争や天誅組の変、生野の変などが起こりました。

最初は外国を排除しようとしましたが、強大な西洋の力を前に、次第に外国から学び国を強くしようという方向へ変化しました。こうした動きはやがて倒幕運動へとつながり、明治維新の実現を後押ししたのです。

尊王攘夷は排他的な面を持ちながらも、当時の日本が植民地化を防ぎ、独立を守るために必要な思想でもありました。近代日本の出発点として、大きな意義をもつ運動だったといえます。

参考
*1)デジタル大辞泉「尊王攘夷
*2)デジタル大辞泉「水戸学
*3)山川 日本史小辞典 改定新版「尊王論
*4)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「攘夷論
*5)山川 日本史小辞典 改定新版「尊王攘夷運動
*6)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「尊王攘夷
*7)デジタル大辞泉「日米修好通商条約
*8)日本大百科全書(ニッポニカ)「将軍継嗣問題
*9)山川 日本史小辞典 改定新版「安政の大獄
*10)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「尊王攘夷運動
*11)旺文社日本史事典 三訂版「尊王攘夷運動
*12)山川 日本史小辞典 改定新版「8月18日の政変
*13)山川 日本史小辞典 改定新版「薩英戦争
*14)山川 日本史小辞典 改定新版「四国連合艦隊下関砲撃事件
*15)百科事典 マイペディア「生野の変
*16)旺文社日本史事典 三訂版「天誅組の変
*17)国史大事典「尊王攘夷運動

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この記事を書いた人

馬場正裕 ライター

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

元学習塾、予備校講師。FP2級資格をもち、金融・経済・教育関連の記事や地理学・地学の観点からSDGsに関する記事を執筆しています。

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