春から夏にかけて、赤や桃、紫、白などの花を咲かせる「ケシ」は、ガーデニングや切り花などに用いられる美しい花です。しかし、「ケシ」にはもう一つ、恐ろしい顔があります。ケシの果実である「ケシ坊主」に傷をつけることで、麻薬であるアヘンの原料を採取することができるのです。
ケシから作られる麻薬であるアヘンを組織的に清(中国)に密輸し、莫大な利益を上げていたのが19世紀のイギリスでした。清がアヘンの密輸を厳格に取り締まったことで始まったのがアヘン戦争です。
アヘン戦争とはいったいどのような戦争なのでしょうか。今回は、アヘン戦争が起きた背景や流れ、アヘン戦争後の中国の様子について解説します。また、同時期の日本の様子についても説明しますので、ぜひ、参考にしてください。
アヘン戦争とは?
アヘン戦争とは、1839年から1842年まで続いたイギリスと清の戦争です*1)。
清の国内で、イギリスが持ち込んだアヘンが2つの大きな問題を引き起こしていました。
- アヘンによって多くの人々が健康を害していた
- アヘンを買うために大量の銀が国外に流出していた
これらの問題を解決するため、清はイギリスのアヘンを没収して燃やしました。しかし、これに怒ったイギリスが清に攻め込み、戦争が始まりました。
戦いは、優れた軍事力を持つイギリスが圧倒的に有利で、清は不利な内容の南京条約を結ばされることになりました。
アヘンは麻薬
アヘンは古くから知られる危険な麻薬の一種で、ケシの未熟な実から採取される物質です。具体的には、ケシの実に傷をつけると白い液体が分泌され、それが空気に触れて乾燥すると黒みがかった固形物になります。アヘンには強い依存性があり、使用を続けると深刻な健康被害をもたらします*3)。
使用者は最初のうちこそ快感を得られますが、次第に精神的にも身体的にも依存するようになります。すると、アヘンなしでは日常生活を送れなくなり、常用による慢性中毒症状として強い脱力感や倦怠感に苦しむようになります。さらに使用を続けると、精神の混乱も伴う重度の衰弱状態に陥ってしまいます*3)。
日本国内にもケシの花は自生していますが、その危険性から「あへん法」という法律で厳しく規制されており、一般人が所持することは禁止されています。*3)。
アヘン戦争が起きた背景
アヘン戦争は、イギリスが清に持ち込んだアヘンが原因で起こった戦争です。では、なぜイギリスはアヘンを持ち込んだのでしょうか。そこには、イギリスの貿易赤字がかかわってきます。
ここでは、イギリスがアヘンを持ち込んだ理由や清のアヘン取り締まり、イギリス議会内の戦争反対の動きについて解説します。
イギリスが行ったアヘン貿易
イギリスが清と行っていた貿易は、「片貿易」でした。片貿易とは、どちらか一方だけが利益を得る貿易のことです。
【17~18世紀の片貿易】
この場合、イギリスは清から茶や陶磁器を買えば買うほど清に銀が流出してしまいます。銀は当時のお金の役割を果たしていたため、片貿易はイギリスにとって一方的な赤字だったことがわかります。
しかも、清は貿易港を広州だけに限り、独占商人である公行を通じての貿易しか認めませんでした*5)。イギリスは、公行を廃止して自由貿易をさせてほしいと清に申し入れましたが、清は認めませんでした。貿易相手が限定されていたため、イギリスの赤字が減ることはなかったのです。
そこで、イギリスは、貿易赤字を解消するため貿易の方法を変えました。
【19世紀の三角貿易】

イギリスと清の貿易はそのままに、植民地であるインドにアヘンを作らせ、秘密で清に輸出しました。そして、イギリスはインドにアヘン税を課してアヘンの密輸で得た利益を吸い上げる仕組みを整えたのです。
清ではアヘンが急増したため、アヘン中毒の患者が大量に増えました。その結果、アヘンの購入資金として銀がイギリスに流れるようになったのです。
清によるアヘンの取り締まり
19世紀前半、清はアヘンの大量流入による社会問題に直面していました。この事態に対処するため、清はアヘン取り締まりに強い姿勢を示していた林則徐を欽差大臣に任命しました*5)。
林則徐は広州に赴任すると、1839年3月、断固とした措置を取ります。イギリス領事やイギリス・アメリカのアヘン商人たちをイギリス商館に監禁し、所持するアヘンの引き渡しを要求したのです。その結果、2万箱にも及ぶアヘンを没収し、それらを焼却処分しました*6)。
しかし、このアヘン没収事件は、イギリスにとって清との戦争を始める絶好の口実となりました。イギリスは、軍事力によって清を制圧できると判断し、遠征軍の派遣を決定したのです。これが後のアヘン戦争へと発展していく重要な転換点となりました。
イギリスの派兵決定
アヘン戦争の派兵をめぐって、イギリス国内では大きな議論を巻き起こします。政府は、清に賠償を請求し議会に派兵に賛成するよう求めました。
一方、議会では、下院議員グラッドストンをはじめとする反戦派が強く反対の声を上げました。グラッドストンは、アヘン貿易を武力で押し付けることは、イギリスの歴史に永久に残る恥になると主張しました。
しかし、中国での貿易拡大を求める勢力も強く、激しい議論の末、わずか9票差という僅差で派兵が可決されることとなりました。
1840年の夏、イギリス政府は48隻の艦船と4,000人の兵員からなる大規模な艦隊を編成し、清への武力行使に踏み切りました。これにより両国は正式に戦争状態へと突入することになりました。
アヘン戦争の流れ

イギリスは、清に向けて派兵を決定しました。清はイギリス軍の快進撃を受け、和平の道を探ります。ここでは、アヘン戦争の開戦と戦争の経過、南京条約の締結について解説します。
開戦
遠征してきたイギリス艦隊は、広州や厦門(アモイ)を攻略後、中国沿岸を一気に北上して首都北京に近い天津まで進撃してきました。海軍力に圧倒的な差があったため、清軍はイギリス軍を防ぐことができなかったのです*7)。
1840年1月、イギリス軍は虎門に侵入しました。そのため、交渉にあたった清の代表は、イギリスにアヘンの賠償金支払いと貿易の回復、香港の割譲などを約束する仮条約を結びました*7)。
しかし、清の皇帝である道光帝が仮条約を認めなかったため戦闘が続行されます。戦いはイギリス軍優位のまま進みました*7)。
平英団による反撃
1841年5月、広州付近の三元里という場所で、イギリスを討伐するための「平英団」という武装した民衆がイギリス軍を襲撃し、包囲攻撃するという事件が起きました。原因は、イギリス軍による略奪です*8)。しかし、戦争全体の流れは変わらず、イギリス軍優位に進みます。
イギリス軍の再北上
1841年8月、イギリス軍は戦果を拡大するため再び北上を開始しました。そして、9月に定海、10月に寧波を攻め落とします。相次ぐ敗報に接した道光帝は、イギリスとの和議に方針を転換しました*7)。
イギリス軍は当初、和議の提案に応じませんでした。そればかりか、1842年6月には呉淞砲台を占拠して上海を攻略します。そして、7月には重要拠点である鎮江を陥落させました。これにより、清は交戦を諦め、イギリスと和議を結ぶこととなりました*7)。
南京条約の締結
1842年8月、南京付近の揚子江に浮かぶ軍艦コーンウォール号で、南京条約が結ばれました。条約の主な内容は以下の通りです。
- 香港をイギリスに譲る
- 広州・厦門・福州・寧波・上海の5港を開港する
- 開港場に領事を置くことを認める
- 賠償金として1,800万ドルを支払う
- 公行を廃止する
- 関税率を協定で決める
*9)
これにより、イギリスは公行の廃止という一番の目的を達成しただけではなく、香港や賠償金を得ることや、関税を話し合いで決めることなど重要な利益を得たのです。南京条約は、清が欧米列強の植民地にされる第一歩であり、中国にとって苦難の歴史の始まりとなりました。
アヘン戦争のその後

アヘン戦争で大敗を喫した清は、どのように変化するのでしょうか。ここでは、洋務運動と太平天国の乱について解説します。
洋務運動が始まった
アヘン戦争での敗北により、清の知識人たちは西洋の力を思い知らされました。そこで、曾国藩や李鴻章といった官僚たちが中心となり、西洋の先進技術を取り入れようとする「洋務運動」が始まりました*10)。
軍事工場をつくったり、外国語を学ぶ学校を設立したりするなど、最初は軍事面での改革が中心でしたが、後には民間企業の近代化も進められました。
しかし、この運動には大きな問題がありました。それは、「中国が世界の中心」という考え方を変えないまま、技術だけを取り入れようとしたことです。一方、日本の明治維新では、政治の仕組みから文化まで、欧米の制度を広く取り入れました。この違いが、その後の両国の発展に大きな差をもたらすことになったのです。
太平天国の乱がおきた
1851年、中国で大きな反乱が起きました。キリスト教の影響を受けた宗教団体「上帝会」の指導者・洪秀全が、清朝に対して立ち上がったのです。
彼らは1853年に南京を占領し、「太平天国」という新しい国を作りました。最初は「すべての人は平等である」という考えを掲げ、多くの貧しい人々の支持を集めました。
しかし、儒教を否定したり、民衆から物を奪ったりするなど、やり方が強引すぎたため、次第に人々の信頼を失っていきました。そして1864年、洋務運動で力をつけた曾国藩や李鴻章らの軍勢に討伐され、太平天国は滅亡しました。
アヘン戦争が日本に与えた影響

アヘン戦争が発生した1839年〜42年は、老中水野忠邦が天保の改革を行っていたころでした。戦争の詳細は、老中をはじめとする幕府上層部にも届いていたのです。ここでは、アヘン戦争が日本に与えた影響を紹介します。
異国船打払令を緩和した
1840年代、中国とイギリスの間で起きたアヘン戦争について、幕府は長崎港に来る清やオランダの船から情報を集めていました。当時、外国の船が日本の近くに来ることを心配していた幕府は、アヘン戦争の様子を詳しく調べました。
調査の結果、以下のことが分かりました。
- イギリスの軍事力が非常に強いこと
- 戦争はイギリス側が優位に進んでいること
この状況を知った幕府の重要な役職者である老中の水野忠邦は、それまでの強硬な態度を改めました。具体的には、1825年に定めた異国船打払令を緩め、外国の船が来た時は水や薪を与えるように方針を変更したのです*7)。
アヘン戦争に関してよくある疑問

ここでは、アヘン戦争に関するよくある質問を2つとりあげます。
清でアヘン中毒になった人はどのくらいいる?
当時のアヘン中毒患者数は複数の説があります。なぜなら、アヘンの輸入は密輸だったからです。アヘン戦争直前の1837年には、すくなくとも200万人以上のアヘン吸飲者がいたとされます*13)。
アヘン戦争終結後、アヘンの輸入は事実上合法化されました。アヘンの代金として清国内の銀が海外に大量流出したため、清国内で銀が不足し、経済活動に悪影響を与えたのです*13)。
アヘン戦争と三角貿易の関係は?
三角貿易とは、3つの国や地域が関わる貿易のことです。アヘン戦争前のイギリス、清(中国)、インド間の貿易はまさに三角貿易でした。
イギリスは清から茶や陶磁器を輸入して赤字でしたが、インドで生産したアヘンを清へ密輸することで、この赤字を解消していました。つまり、イギリスはインドと清を利用し、自国の貿易を有利にしていたのです。
アヘン戦争とSDGs

アヘン戦争は、イギリスと清の戦争というだけにとどまらず、中国の半植民地化や麻薬であるアヘンの蔓延という事態を招きました。ここでは、麻薬とSDGsという観点から、両者の関わりを説明します。
SDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」との関わり
SDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」のターゲットの一つに「薬物乱用やアルコールの有害な摂取を含む、物質乱用の防止・治療を強化する」というものがあります。戦争の原因となったアヘンは代表的な麻薬の一つです。
麻薬は、強力な麻酔や痛みを和らげる効果があるため、医療現場で使われることもあります。しかし、使い続けると薬物依存に陥る危険性があります。
かつて清の時代には、アヘンが大量に流入し、アヘン中毒者が急増したことで深刻な社会問題となりました。薬物の乱用やアルコールの過剰摂取は、個人の問題にとどまらず、社会全体に悪影響を及ぼします。私たちは、麻薬に依存しないように、日頃から十分に注意しなければならないのです。
まとめ
今回はアヘン戦争について解説しました。イギリスの清への貿易赤字解消のため、インドで生産したアヘンを清に密輸入したことが戦争の発端となりました。アヘン中毒者の増加や銀の国外流出に苦しんだ清が、イギリスのアヘンを没収・焼却したことで戦争が始まりました。そして、軍事力に勝るイギリスが勝利しました。
その結果、香港割譲や5港開港などを含む南京条約が締結され、これを機に清は半植民地化への道を歩むことになりました。この戦争は、麻薬の恐ろしさと、不平等な貿易がもたらす悲劇を私たちに教えてくれます。
参考
*1)山川 日本史小辞典 改定新版「アヘン戦争」
*2)デジタル大辞泉「清」
*3)埼玉県警察「ヘロイン・あへん」
*4)山川 世界史小辞典 改定新版「公行」
*5)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「林則徐」
*6)山川 世界史小辞典 改定新版「アヘン戦争」
*7)改定新版 世界大百科事典「アヘン戦争」
*8)日本大百科全書(ニッポニカ)「平英団」
*9)日本大百科全書(ニッポニカ)「南京条約」
*10)改定新版 世界大百科事典「洋務運動」
*11)山川 世界史小辞典 改定新版「太平天国」
*12)山川 日本史小辞典 改定新版「異国船打払令」
*13)日本大百科全書(ニッポニカ)「アヘン戦争」