エメラルドグリーンの海に浮かぶ真珠、その島の名はキューバといいます。アメリカ合衆国のすぐ近く、フロリダ半島から南へ約150キロメートルに位置するこの島は、かつてアメリカと蜜月関係にありました。しかし、1959年に勃発したキューバ革命により、その関係は一変します。
カストロとチェ・ゲバラという二人のカリスマ的指導者が率いた革命は、世界を震撼させました。アメリカの裏庭とも呼ばれるカリブ海に、なんと社会主義国が誕生したのです。
この出来事は冷戦時代の国際関係を大きく変え、キューバはソ連陣営の重要な拠点となりました。そして驚くべきことに、ソ連崩壊後も、キューバは社会主義体制を維持し続けています。
この記事では、キューバ革命の真相に迫り、その後の国際関係や日本との繋がり、SDGsとキューバ独特の医療制度の関わりについても、詳しく解説していきます。
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キューバ革命とは

キューバ革命とは、1950年代にカストロらが指導したキューバの社会主義革命のことです。カストロらは、当時キューバを支配していたバティスタ政権を打倒するゲリラ戦を展開し、1959年に新政権を樹立しました*1)。
目的
キューバ革命は、アメリカと密接な関係を持っていたバティスタ大統領の独裁政権を終わらせるために起こりました。
当時のキューバは、独立後からアメリカの強い影響を受けていました。特にキューバの主要産業であるサトウキビ栽培やフルーツの生産は、アメリカの企業によって支配されていました。
さらにバティスタ政権は、アメリカの企業と密接な関係を築き、その利益を独占していました。その結果、一般の国民は経済的な恩恵を受けられず、生活は苦しいものとなっていたのです。
バティスタ政権は、国民の生活よりもアメリカや一部の富裕層との関係を重視していたため、多くの国民が不満を抱いていました。キューバ革命は、こうした国民を無視し続けるバティスタ政権に対する民衆の怒りが、具体的な行動となって表れたものだったのです。
革命の経緯
はじめに、キューバ革命の流れを年表で整理します。
年代 | 出来事 |
1953年7月26日 | モンカダ兵営を襲撃(7月26日運動) |
1956年12月2日 | グランマ号でキューバ上陸 →政府軍の迎撃で多くの仲間が殺されたり捕らえられたりした |
1958年 | 革命軍の攻勢 →首都ハバナを目指して進軍 |
1959年1月1日 | バティスタがドミニカ共和国に亡命 →革命軍の勝利 |
1959年1月8日 | カストロ率いる革命軍がハバナを占領 |
カストロは、バティスタ独裁政権に対抗するため、サンティアーゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃しましたが、この試みは失敗に終わり、投獄されることになりました。しかし、この出来事は後に「7月26日運動」として革命のシンボルとなります*4)。
その後、恩赦で釈放されたカストロはメキシコに亡命し、そこでアルゼンチン人医師のチェ・ゲバラと運命的な出会いを果たします。二人は革命の志を同じくし、1956年、グランマ号というヨットでキューバに再上陸を試みました*4)。
上陸直後、政府軍の猛攻撃を受けた革命軍は大きな打撃を受けましたが、生き残ったメンバーはマエストラ山脈に逃れ、そこを拠点としてゲリラ戦を展開していきました。
1958年になると、革命軍の勢いが強まり、キューバ各地で影響力を強めていきました。都市部でもストライキやデモが頻発し、バティスタ政権への反発が強まっていきました。政権の腐敗と強圧的な統治に対する国民の不満は頂点に達し、多くの人々が革命軍を支持するようになったのです。
そして1959年1月1日、ついにバティスタはキューバから逃亡し、カストロ率いる革命軍がハバナに入城。革命は成功を収めました。この革命の成功は、ラテンアメリカにおける反米運動の象徴となり、その後の世界情勢に大きな影響を与えることになりました*4)。
つまり、キューバ革命は、独裁者に対する国民の不満が爆発し、カストロやゲバラのような人々が、ゲリラ戦で戦い、最終的に政権を倒した、大きな歴史的な出来事だったということです。
結果
キューバ革命によって、カストロをトップとする新政府ができました。カストロは、アメリカ人地主が支配していたサトウキビ農園で働く人たちを解放しました。これにアメリカは怒り、キューバからの砂糖の輸入を制限しました。
そこでカストロは、アメリカと対立していたソ連に近づき、社会主義の国になることを決めました。その結果、アメリカのすぐ近くのカリブ海に、アメリカに反対する社会主義の国が誕生したのです。
キューバ革命が起きた背景

カストロがキューバ革命を起こした背景には、アメリカによるバティスタ政権の支援と、国内の経済的不平等という深刻な問題がありました。これらの問題が複雑に絡み合い、キューバ革命へと繋がったのです。ここでは、革命が起こるに至った当時の状況を説明します。
アメリカによるバティスタ政権の支援
1950年代のキューバでは、バティスタ大統領が独裁政治を行っていました。アメリカはバティスタを支援し、キューバの農地の多くを支配していました。
キューバの農民たちは、アメリカ人が所有する農場で働きましたが、とても貧しい暮らしでした。アメリカは砂糖やバナナの生産地としてキューバを必要としていたため、バティスタの政治が国民の利益と反していても見て見ぬふりをしていたのです。
経済的な不平等
キューバは1959年の革命以前、表面上は独立国でしたが、実質的にアメリカの支配下にありました。国の経済は農業や鉱業などの一次産業が中心で、発展が遅れていました*5)。
特に、キューバの代表的な産業である砂糖やバナナなどの農作物の生産は、アメリカ資本が支配権を握っていました。このような状況では、アメリカ企業と関係の深い一部の裕福な人々と、日々の生活にも困る貧しい農民との間で、大きな経済格差が生まれるのは避けられなかったのです。
キューバ革命が与えた影響

キューバ革命は世界にどのような影響を与えたのでしょうか。ここでは、キューバ革命後のアメリカとの対立とキューバ危機について解説します。
アメリカとの対立
キューバ革命後、カストロ政権はアメリカ企業の所有する農地を国有化しました。これに対し、アメリカのアイゼンハワー大統領はキューバ産砂糖の輸入制限や、キューバへの石油精製を拒否するなど、対抗措置を取りました。1961年1月にはキューバとアメリカの国交が断絶し、両国間の溝は決定的なものとなりました。
同年4月、アメリカ中央情報局(CIA)はカストロ政権の打倒を目的としたピッグス湾事件を起こします。アメリカが支援した亡命キューバ人部隊がキューバに侵攻しましたが、3日間の戦闘の末にキューバ軍によって撃退され、作戦は失敗に終わりました*6)。
その一方で、キューバとソ連の関係は親密さを増していきます。冷戦時代、アメリカと対立していたソ連は、キューバの砂糖を買い取ることを表明し、キューバとソ連の関係は急速に親密になり、キューバの社会主義国化が進んだのです。
このように、キューバ革命はアメリカとの激しい対立を引き起こしました。そして、冷戦という国際情勢の中で、キューバはソ連との関係を深めることになったのです。
キューバ危機の発生
1962年、ソ連はキューバにミサイル基地を建設し始めました。この動きを察知したアメリカのケネディ大統領は、この事実を世界に公表し、ソ連に対してミサイル基地の撤去を強く求めました。アメリカは、キューバ近海を183隻の艦艇と1190機の軍用機で海上封鎖し、ソ連からの物資搬入を阻止しようとしました*7)。
当時、アメリカとソ連は核兵器を保有しており、この状況がエスカレートすれば、核戦争に発展する可能性がありました。
そのため、両国は密かに交渉を重ね、その結果、ソ連のフルシチョフがミサイルの撤去に合意し、核戦争の危機は回避されました。この危機をキューバ危機といいます。キューバ革命によって社会主義政権が成立したことが、このような核戦争の危機につながる可能性も秘めていたのです。
キューバ革命と日本の関わりは?

キューバ革命は、アメリカを中心とする西側陣営に属していた日本にとって、外交的に難しい判断を迫られたものでした。ここでは、キューバ革命後の日本とキューバの外交関係について解説します。
キューバ革命後も関係を継続した
第二次世界大戦後、日本はアメリカなどの西側諸国と連携していましたが、ソ連を中心とする東側諸国とは関係を慎重に進める必要がありました。しかし、キューバで革命が起こり社会主義政権が誕生した後も、日本はキューバとの外交関係を維持しました。
1960年には通商協定を結び、翌年には発効しました。さらにキューバからの研修員を受け入れるなど、交流を深めました。その後も外交関係は途絶えることなく続き、2003年にはキューバのカストロ議長が日本を訪問するまでになりました*8)。
キューバ革命に関してよくある疑問

キューバ革命について、よくある2つの質問についてお答えします。
指導者は2人いた?
キューバ革命の指導者は、以下の2人です。
- フィデル・カストロ
- チェ・ゲバラ
カストロについては先ほどまでの説明でたびたび登場しているため、ここでは、もう一人のリーダーであるチェ・ゲバラをとりあげます。
ゲバラはアルゼンチン生まれの革命家として知られ、キューバ革命の立役者の一人となりました。彼は亡命中のメキシコで、同じく祖国を離れていたカストロと運命的な出会いを果たし、二人は意気投合して革命の同志となりました。
医師としての知識を活かしてゲリラ戦で仲間たちを支えただけでなく、優れた軍事的才能も見せたゲバラは、革命成功後にキューバの国立銀行総裁や工業大臣として社会主義国家の建設に尽力しました。
しかし1965年、突如としてキューバから姿を消し、その後ボリビアで新たな革命運動を展開していることが判明しました。そして最期は、ボリビアの政府軍に捕らえられ、命を落とすことになりました。
チェ・ゲバラはなぜ今も人気がある?
ゲバラは、なぜ今も人気があるのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。
- 多面的な才能にあふれていた
- 「容姿端麗」だった
- 不平等や社会的不正に立ち向かうシンボルだった
- 映画や特集番組でたびたび取り上げられた
ゲバラは、キューバ革命において重要な役割を果たし、社会変革のために自ら行動する姿は、多くの人々に強い印象を与えました。彼の革命的な精神と行動力は、抑圧された人々や社会変革を望む人々にとって、希望の象徴となっています。
また、ゲバラのベレー帽をかぶったポートレートは非常に有名で、世界中で広く知られています。その容姿は、若々しさ、強さ、そして革命的な精神を象徴するものとして捉えられ、多くの人々に強い印象を与えています。
加えて、資本主義や帝国主義に反対し、貧困や不平等などの社会問題に立ち向かう象徴として、世界中の人々に受け入れられています。特に、抑圧された人々や社会変革を求める人々にとって、彼は希望の光となっています。
ゲバラを題材とした映画やドキュメンタリーは数多く制作されており、彼の人生や思想が広く紹介されています。これにより、彼の存在は多くの人に知られるようになり、その人気を維持する要因の一つとなっています。
ゲバラは、革命家としての理想的な姿、そして魅力的な外見を持ち合わせていました。さらに、不平等や不公正に立ち向かう理想主義者としても描かれた映画やドキュメンタリーが数多く作られたため、非常に人気があるのです。
キューバ革命とSDGs

キューバは、革命後の新しい政府のもと、国は貧しいながらも、質の高い医療サービスを国民に提供できる国になりました。ここでは、キューバの医療とSDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」との関わりを解説します。
SDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」との関わり
キューバの医療は、アメリカの経済制裁や医薬品輸入の困難さを背景に、独自の発展を遂げてきました。特に注目すべきは、近代医療と自然伝統医療を組み合わせた「統合医療」の実践です。
この医療体制の中核を担うのが家庭医制度です。医師と看護師のペアが地域に住み込み、約120~380世帯を担当します。彼らは住民との信頼関係を築きながら、治療よりも問診や健康指導に重点を置いています。また、自宅で栽培可能なハーブや薬草の活用法も指導しています。
さらに、小学生からの予防医療に関する健康教育により、国民全体が自然伝統医療に基づいた予防知識を持ち、「自分の健康は自分で守る」という意識が根付いています*9)。
キューバの医療体制は、SDGs目標3が掲げる「健康と福祉」の実現に大きく貢献する要素を含んでいます。特に、地域に根差した家庭医制度は、住民の健康状態を継続的に把握し、早期の健康問題の発見や予防を可能にします。
まとめ
今回はキューバ革命について解説しました。1950年代、カストロとゲバラが指導したこの革命は、アメリカの影響下にあったバティスタ独裁政権を打倒し、キューバに社会主義政権を誕生させました。
この出来事は、その後のキューバ危機やアメリカとの対立など、冷戦時代の重要な転換点となりました。
また、革命後のキューバは、経済的な困難に直面しながらも、独自の医療制度を確立し、現代のSDGsにも通じる「すべての人に健康と福祉を」という目標に貢献しています。
参考
*1)デジタル大辞泉「キューバ革命」
*2)山川 世界史小辞典 改定新版「カストロ」
*3)百科事典マイペディア「バティスタ」
*4)改定新版 世界大百科事典「キューバ革命」
*5)平野研究室「キューバ経済改革の変遷と可能性(上)オルタナティブな社会主義的発展は可能か?」
*6)デジタル大辞泉「ピッグス湾事件」
*7)改定新版 世界史大百科事典「キューバ危機」
*8)外務省「日本とキューバ共和国との協力年表」
*9)キューバ外務省「平均寿命はアメリカ以上。医師数は日本の3倍 知られざる医療先進国だったキューバ。その歴史と実力に迫る」