素晴らしいパフォーマンスで私たちを魅了するトップアスリートたちも、いずれは競技を離れ、次のキャリアへと進む時がやってきます。しかし、競技生活に全てを捧げたアスリートにとって、引退後に新たな道を模索することは容易ではありません。そこで注目されているのが「デュアルキャリア」という考え方です。
デュアルキャリアとは
デュアルキャリアとは、主にトップクラスのアスリートがスポーツと学業、またはスポーツと本業としての仕事という、二つのキャリアを同時に進めている状況のことをいいます。
文部科学省では、デュアルキャリアについて、
トップアスリートとしてのパフォーマンス・トレーニングに必要な環境を確保しながら現役引退後のキャリアに必要な教育や職業訓練を受け、将来に備える
と定義しています。
これに対し、欧米諸国などデュアルキャリア先進国とされる国では、アスリートとしてのキャリアはあくまで長い人生の一部分の期間限定的なものと考えます。人生や生涯を一本の長い軸のキャリアと捉え、そこに「アスリートとしてのキャリア」というもう一本の短い軸を横に並べる。こうした概念のもと、トップアスリートとして活動しながら、いち学生、いち社会人としてのキャリア形成も同時に進める。これがデュアルキャリアの考え方です。
セカンドキャリアとの違いは?
デュアルキャリアと似たような言葉がセカンドキャリアまたは「第二の人生」です。これはそれまで競技一本に専念してきたアスリートが「引退してから始める仕事・キャリア」という意味合いで使われます。
一方デュアルキャリアは、現役のうちから引退後に備えて同時並行で進めるキャリア、またはアスリートとしての活動ともう一つの活動を両立させることをいいます。
デュアルキャリアが必要とされている理由
デュアルキャリアは、欧米諸国を中心に2000年代中頃からその必要性が叫ばれるようになり、アスリートへの積極的な支援が進められてきました。その背景にあるのは、主に以下のような理由からです。
引退後の進路、生活や処遇に関する問題
大きな理由のひとつは、多くのアスリートが引退後の仕事や生活に対して不安を抱えていることです。
スポーツの世界では多くの若者がトップレベルを目指して多大な努力を重ねていますが、その舞台で活躍できる選手はごくわずかです。また多くの競技ではプロ化が進み、職業として一定の選手を雇用できるものの、現役生活は20代後半〜30代と短いうえに、引退後に働くことなく生活できるアスリートはさらに少なくなります。
にもかかわらず、こうした選手たちのほとんどは学業やキャリア形成に充てる時期の多くを競技やトレーニングに充ててきました。そのため
- スポーツしかしてこなかったため、何をしていいかわからない
- 就活など労働市場に加わる時期が一般の人々と比較して遅い
- スポーツ以外の人間関係や社会経験しか知らず、実社会で通用するスキルがない
などの不安やストレスを多くの選手が抱えながら過ごしています。特に若者の失業率が高いEU諸国ではこうした問題が深刻化しており、学生・現役アスリートへの早い段階からのデュアルキャリア支援が求められるようになっています。
人間形成の必要性
アスリートの人間形成という観点も、デュアルキャリアが重要視される要素になっています。
若い頃から限られた世界で競技に専念することを余儀なくされるアスリートは、十分な社会常識や学業成績を身に付ける機会がないまま成長してしまうことも少なくありません。
その結果、1980年代にはアメリカのスポーツ界において
- スタジアムでのロッカールームでの発砲事件
- 大学スポーツ選手間でのドラッグの蔓延
- 必要最低限の学力を満たさない学生アスリートの存在
など、スポーツ選手のあり方が問われるような問題が目立ちました。残念ながら日本でも、一部の大学スポーツ選手による性暴力や薬物使用などが問題となったのは記憶に新しいところです。
こうした事態を踏まえ、アスリートをあくまで一人の人間として人間形成や自己発達を促し、社会や国民のロールモデルとなるような人材育成を行うために、デュアルキャリアへの必要性が高まっています。
国際競技力向上
デュアルキャリアが求められる理由には、競技力の向上を図るという目的もあります。
一人の金メダリストを育成するには、国内に複数の競合相手となる選手が必要であり、その下には決して脚光を浴びることのない膨大な数のアスリートによる下支えが不可欠です。
国際競技力の向上には、そうした多くの若者の将来や人生へのケアが必要であり、彼らが引退後の将来に不安やストレスを抱えてしまうことは、競技を続けるモチベーションや、子供にスポーツをさせる保護者の判断にも大きな影響を与えかねません。
デュアルキャリアによって教育との両立やキャリア形成、スキル開発などの支援が行われれば、アスリートは将来への不安を抱くことなく競技に集中できます。結果、競技からの脱落を防ぎ、すそ野の広がりや競技力の維持・向上にもつながります。
デュアルキャリアのメリット
デュアルキャリアを行う、あるいはそのための支援を行うことは、選手にはもちろん、学校や企業にとっても、また国や競技団体にとってもメリットとなります。
メリット①経済的な安定
最も大きなメリットは、アスリート活動以外での収入があることによる、経済的な安定です。
近年、競技を行いながら普通の社員として働く「アスリート社員」を受け入れる会社が増えたことにより、選手は生活や資金の心配をせずに競技を継続できるようになりました。
EU諸国ではデュアルキャリアを法的に整備する国も多く、フランスではトップレベルの選手に対してフルタイムの雇用と練習時間に応じた就業時間の調整などが保証されています。
メリット②引退後の選択肢が広がる
早い段階からデュアルキャリアを進めるメリットのひとつは、引退後の選択肢が広がることです。アスリートに限らず、より高い教育を受けることで将来多様なキャリアを選択できるチャンスが得られることは言うまでもありません。
デュアルキャリアによって大学で専門的な知識やスキル・資格を得たり、実践的な職業経験を積むことができれば
- スポーツ以外の対人関係が広がり、助け合い、アドバイスし合う関係が構築できる
- 入念な計画や円滑な適応が容易になる
- 自己喪失(アイデンティティクライシス)の予防
- より給与の高い職にも応募でき、雇用されやすくなる
など、引退後もスポーツのみに限定されない、幅広いキャリアを築くことができます。
メリット③競技と仕事・学業との相乗効果
デュアルキャリアは、競技と仕事・学業の両方に良い影響を与えることもわかっています。
これは、競技と仕事・学業をやり繰りしていくことで、
- 集中力や時間管理
- 責任感・自己管理
- プレッシャーやストレスへの対処
といった能力が養われ、それらが仕事や学業に活かされることで
- 意思決定と問題解決能力
- 創造的思考や批判的思考
- コミュニケーションや対人関係スキル
- 自己認識・共感性
といった社会的能力全般、いわゆるライフスキルを身につけることができるとされています。
海外での検証結果では、このライフスキルの発達が競技力向上と人間形成の両方に有益な効果をもたらすとされており、デュアルキャリアの有用性はますます高まっているといえるでしょう。
デュアルキャリアのデメリット・課題
一方で、デュアルキャリアならではのデメリットや、実現に向けた課題も存在します。
デメリット・課題①仕事・学業との時間的困難さ
2つのキャリアを並行することのデメリットは、時間のやりくりが難しくなることです。
特に若いアスリートが世界と戦うレベルまでパフォーマンスを向上させるには、競技にもよりますが1日あたり最大7〜7時間半程度の練習時間が必要とされます。
その結果
- 国内外を問わず大会や合宿に参加し、長期間通学できない
- 大会スケジュールと学校の授業や単位取得などとの重複、学校行事との調整
- 本業の出勤日や勤務時間を大きく削ることになる
などの問題が生じてきます。
デュアルキャリアを成功させるには、選手自身や周囲のサポートによる効率的なタイムマネジメントスキルが重要です。競技によっては小中学生のうちから国際大会に参加する学生も少なくないため、保護者や指導者も十分な対策や対応が求められます。
デメリット・課題②不十分な支援体制
日本がデュアルキャリア先進国に遅れを取っている点として
- 選手個々のニーズに対応した支援の不十分さ
- 競技団体・学校や企業との連携の不十分さ
などがあります。
具体的な財政的支援やキャリア形成支援などは、実際にアスリート自身が必要としている内容を十分に把握しているとは言えず、就職支援についても実践的な教育プログラムがまだまだ少ないなど、的確な現状把握や計画は足りていません。
またデュアルキャリア支援には、各関係機関同士での事業の連携が重要です。しかし、競技団体によっては大学などとの連携を図っていないところもあります。これからは、多くの関係者同士でネットワークを作り、多様な専門家やスタッフを活用することで、体系的な支援体制を構築することが求められます。
デメリット・課題③デュアルキャリアの意識啓発、理解促進
もう一つ不足しているのが、デュアルキャリアに対する認知や理解です。
特にジュニアアスリートの指導に関わる指導者、競技団体、保護者及び学校は、その後の彼ら彼女らの人生を大きく左右するキャリア構築への積極的な理解が求められます。
そのためには、指導者や保護者が目先の結果のみにとらわれず、学業とのバランスも含めた長期的な視点でアスリートを育てていくという考えが必要です。
小・中学生といった義務教育期からデュアルキャリアについての積極的な意識啓発活動を実施し、保健体育教員や指導者を養成するカリキュラムでも、理解を深める取り組みが期待されます。
デュアルキャリアの具体事例
デュアルキャリアという考え方が浸透していくにつれ、その道を選び活躍するアスリートたちも増えています。ここでは、そうしたアスリートの事例を紹介していきます。
事例①辻川美乃利選手(陸上・円盤投げ)株式会社内田洋行所属
辻川選手は、日本選手権など多くの大会で優勝するなどの戦績をあげている選手です。
筑波大学大学院を卒業した辻川選手は、JOCのサポートを受けて内田洋行へ入社しました。同社ではアスリート社員の採用を通じて地域社会への貢献を目指しており、辻川選手の競技活動に対しても柔軟な勤務体制で支援を行なっています。
辻川選手自身も、将来を見据えて「引退後も続けたい仕事」として同社を選び、社会人としての業務経験やタイムマネジメントを重視したデュアルキャリアを積み重ねています。
事例②福岡堅樹さん(ラグビー)
福岡さんは、ラグビー日本代表の中心選手として、ワールドカップでも日本のベスト8入りに貢献した選手です。
医師を志してラグビーとの両立を目指すも、医学部には入れず筑波大学の情報学群に入学。大学ラグビー部でも活躍し、日本代表やパナソニックでもプレーした福岡さんですが、再び医師への道を目指すべく2021年に現役を引退しました。現在、順天堂大学の医学部で学んでいる福岡さんは、医師とラグビーという別々の目標を達成するためには、同時進行するだけではなく、必要に応じて取り組みを切り替えるデュアルキャリアも必要だと語っています。
事例③小松勇斗さん(フットサル)ふく井ホテル所属
小松さんは、北海道の社会人フットサルチーム「Sorpresa(ソルプレーサ)十勝」に所属しながら、ふく井ホテルに勤務しています。職場ではフロント業務のほか、世界的にも珍しいモール温泉の魅力を発信するなど、PRや企画立案で精力的に活躍しています。
チームでは選手としてのキャリアを経て、現在は代表GM補佐・事業戦略担当。チームとホテルとの両方の業務は、小松さんのキャリアにとって良い方向に作用しているといえるでしょう。
なおソルプレーサ十勝では小松さんの他にも、地元でデュアルキャリアとして働いている選手が何人も所属しています。
デュアルキャリアに関する支援制度
国内でのデュアルキャリア支援制度は、国や一部の民間団体などの手により、徐々に形になりつつあります。その中のいくつかを紹介していきましょう。
JOC:アスナビ
主に強化指定選手などの現役トップアスリートを対象にした、JOCの就職支援制度です。
アスリート採用を希望する企業と選手とのマッチングを行うほか、キャリアカウンセリングや教育研修のほか、指導者やスタッフ、家族などを対象にしたアントラージュ教育なども行っています。
ADCPA:一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構
デュアルキャリアを中心に、社会人としてのアスリートのキャリア形成に特化した団体です。オンラインスクールや情報提供、意見交換などの場を設けてキャリア教育を行ったり、キャリアコンサルティングやアスリートや企業をつなぐための環境整備などを進めたりしています。
株式会社Maenomery
こちらは民間の企業ですが、学生アスリートの採用コンサルティングやトップアスリートの採用支援などを主な事業として行なっています。同社では、実践的なビジネススキルを身につけるためのデュアルキャリア教育サービス「HEY!」を運営し、多くのアスリートをサポートしています。
デュアルキャリアとSDGs
デュアルキャリアはSDGs(持続可能な開発目標)の目標達成とも関連してきます。
目標4「質の高い教育をみんなに」
時間的な制約から学業が後回しになりがちなアスリートにとって、デュアルキャリア支援は質の高い職業教育や高等教育へのアクセスを保証するものです。
そこで得られるライフスキルは、持続可能な開発のための教育や人権、平等、平和な文化の推進にも貢献します。
目標8「働きがいも経済成長も」
同様に、デュアルキャリアによって生産的な雇用や働きがいのある仕事に従事することは、多様で才能あふれる職業人の養成につながります。これにより、技術の向上やイノベーションの創出にも寄与する高いレベルの経済生産性の実現も期待されます。
>>各目標に関する詳しい記事はこちらから
まとめ
デュアルキャリアは、トップアスリートの長い人生を支えるために必要な考え方として、少しずつ選手の間に浸透しています。若いうちから一つのことに専念して打ち込む姿は素晴らしいことではあるものの、それによって犠牲になるものを考えると、豊かな人生のためには必ずしも望ましいとも言い切れません。むしろ、さまざまなキャリアを真剣に追い求めることによる充実感と人間的成長は、トップアスリートではない私たちにとっても多くの気づきを与えてくれるのではないでしょうか。
参考資料
デュアルキャリア調査研究最終報告書【最終版】 (mext.go.jp)
7.スポーツ界における好循環の創出に向けたトップスポーツと地域におけるスポーツとの連携・協働の推進|文部科学省
デュアル・キャリア・アスリート | セールスフォース・ジャパン (salesforce.com)
ADCPA:一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構
アスナビ 現役アスリートの就職支援 – JOC
デュアルキャリア | 株式会社Maenomery
辻川美乃利選手(陸上競技・円盤投げ – マイナビアスリートキャリア
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デュアルキャリア教育プログラムに関する実績一覧 (mext.go.jp)
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