飛弾 隆之
1991年エーザイ入社後、免疫・炎症領域、新しい創薬ターゲットの探索研究に従事、その後、研究開発の企画部門やマネジメントを経験する。現在、本社部門である、サステナビリティ部にて、ESG(環境・社会・ガバナンス)に関する社の戦略策定・推進を担当している。貧困の原因でもある世界的な社会課題“顧みられない熱帯病”を解決するため、国際保健機関(WHO)、各国政府、製薬企業や国際協力をするNGOなどとの連携に取り組んでいる。
Introduction
「エーザイ」といえば「ヒューマン・ヘルスケア」というほど馴染み深いこの言葉には、同社の企業理念の基盤が込められています。人々の「怒と哀」までも考える同社は、病者の苦しみに寄り添い、「顧みられない熱帯病」を患う発展途上国の人びとにも、無償で薬を提供し続けています。
今回は、エーザイ株式会社サステナビリティ部副部長、飛弾隆之さんに、同社の理念のバックボーンと「顧みられない熱帯病」への取り組みなどを伺いました。
エーザイの企業理念を一言に集約した「ヒューマン・ヘルスケア」
–御社が発信される様々なメッセージには、「患者様と生活者の皆様の喜怒哀楽を第一義に考え~」という文言が掲げられています。あえて「怒」と「哀」が入っているところに、病者の困難に寄り添う誠意を感じます。そのような御社の理念を一言に集約したという「ヒューマン・ヘルスケア」についてお聞かせください。
飛弾さん:
弊社の企業理念は「患者様と生活者の皆様の喜怒哀楽を考え そのベネフィット向上を第一義とし 世界のヘルスケアの多様なニーズを充足する」というものです。現CEOの内藤晴夫が1988年に代表取締役社長に就いた際、製薬企業のお客様といえば医療関係者でした。本当のお客様は患者様とそのご家族、生活者だ、という社長の気づきが、上記の理念につながりました。その精神を一言に集約したのが「ヒューマン・ヘルスケア」です。
実は、ヒューマン・ヘルスケア(hhc)のロゴは、ナイチンゲールの直筆サインをもとにデザインされています。私たちのhhcの想いを、献身的な看護活動や公衆衛生の発展に貢献したナイチンゲールの精神に重ねたのです。
–御社が他社に先駆けてパーパス(理念)経営を重視されてきた背景も、hhc精神と関係がありそうですね。パーパス経営と、2021年に発表された「hhceco(hhc理念+エコシステム)」についてお聞かせください。
飛弾さん:
パーパス経営やhhcecoの基盤となる理念確立の大きなきっかけは、1996年に内藤(当時社長)が聴いた、経営学者野中郁次郎氏(現一橋大学名誉教授)のSECI(セキ)モデルについての講演でした。
このモデルは、組織のなかで知識を創造するためのプロセスを体系化したもので、SはSocialization(共同化)、EはExternalization(表出化)、CはCombination(連結化)、IはInternalization(内面化)の頭文字です。
ごくシンプルに言えば、個人が他者との共有体験(共同化)によって、言語化、数値化が難しい知識(暗黙知)を蓄積します。その暗黙知を対話などを通じて、誰にでも伝わりやすいもの(形式知)にしていきます(表出化)。そのような様々な集団レベルの知識を組み合わせ、より体系的、効果的なものとします(連結化)。それらの知識を個人のなかに再び戻し(内面化)、さらに新たな体験を積む…このように循環することで、組織や個人のレベルが上がっていきます。
当社が、このSECIモデルをどのように企業理念やパーパス経営、hhcecoに結び付かせているかを、メイン事業の一つである認知症分野を例に説明させて頂きます。
認知症患者様がどの様なことを考えていらっしゃるのか、何が辛く、何をされたいのかなど、患者様の想いを感じ取るために実際に介護施設にも伺いました。解決策を探るためには、患者様やそのご家族、見守る方々と一緒に時間を過ごす必要があります。共同化にあたるこの部分、すなわち、当事者や関係者の喜怒哀楽を知ることが、次のステップにつながるのです。
hhceco、すなわちhhc理念+エコシステム(様々な連携)では、認知症に関する取り組みが分かりやすい事例です。
当社は、薬だけで解決できない認知症患者様や関係者の方々の憂慮解消に向けて、保険会社、食品会社、自動車メーカーなどの様々な異業種と提携し取り組みを進めています。一社ではなく、同じような目的や課題をもつ関係者、団体、行政などで一緒に解決していこう、というエコシステムの構築は、まさにSDGsのパートナーシップの項目にも合致するものです。
必要な医療・医薬品を得られない20億の人々
–御社は、これも企業理念に基づき、開発途上国・新興国での医薬品アクセスの向上に取り組まれています。2022年7月時点で20.5億錠の医薬品を無償提供されていると知り、驚きました。住民が薬を得られないという地域の状況をお聞かせください。
飛弾さん:
世界では、いまだに20億の人々が、必要な医療・医薬品を得られていません。貧困に加え、きれいな水がない地域も多いのです。
子どもたちは、学校に行かずに川や沼に水をくみに行かねばなりません。その水に虫がいれば、感染症や病気が蔓延します。医療体制や薬もなく、たとえあっても医療サービスや医薬品にアクセスできない人が多い状況です。
ただ、薬を無償で提供すれば済む問題ではありません。たとえばアフリカの奥地の、医師も病院もない地域の人々に薬を渡しても、そもそも「薬を飲む」という概念がないので、飲んでもらえないのです。このような地域の課題解決にこそ、先ほどのSECIモデルやhhcecoが必要となります。
拠点のない国ではエーザイ社員が現地の人々との時間を多く共有することはできませんが、そこで活動している組織などから話をしっかりと聞き、実情を理解することが仕事の原点だと思っています。そのうえで、「なぜ薬を飲むのか」という教育が必要となります。実際に薬を一人一人に飲んでもらうためには、エコシステムの協働体制が不可欠です。
パートナーシップを組んで「顧みられない熱帯病」の制圧をめざす
–2022年6月、御社はルワンダ共和国の首都キガリで開催された「マラリアと顧みられない熱帯病に関するキガリ・サミット」の「キガリ宣言」に署名し、顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases=NTDs)制圧支援の継続を表明されました。まずはNTDsについてと、制圧支援の状況を教えてください。
飛弾さん:
NTDsは、WHOが「人類の中で制圧しなければならない熱帯病」と定義している20の疾患の総称です。熱帯・亜熱帯を中心に、世界17億人(5人に1人)が感染リスクにさらされ、うち10億人以上が15歳未満です。
病気が発生している地域が先進国ではないため、ほとんど知られず、対策もなされなかったこと、大多数の患者様が貧困層に属するため、製薬会社にとって利益にならない市場であることなどの理由から治療薬の開発が進まず、「顧みられない」と称されました。
WHOがロードマップを決め、新たな取り組みを開始するにあたり、2012年1月、ビル・ゲイツ氏らが多方面に呼びかけ、過去最大の国際官民パートナーシップが構築されました。そして、NTDs制圧に向けて共闘していくという共同声明「ロンドン宣言」を発表し、弊社も唯一日本企業として加わっています。
その10年後、「ロンドン宣言」の後継となる「キガリ宣言」が発表されたのです。ロンドン宣言当時、国が自分事として制圧活動を開始するために、WHOと国連機関を中心に、パートナーシップを組んで進める必要がありました。
SDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」のターゲット3には〈顧みられない熱帯病といった伝染病を根絶〉という文言も入っており、まさにSDGsど真ん中の活動といえます。
–御社は、2013年から、NTDsのひとつ「リンパ系フィラリア症」の治療薬を製造して無償提供してこられました。この病気についてと、現在までの状況をお聞かせください。
飛弾さん:
「リンパ系フィラリア症」は、蚊の媒介によって、寄生虫(ミクロフィラリア)に感染した人から他人へ感染を広げる病気です。寄生虫がヒトの体内で増殖し、リンパ組織に住みついてリンパ液の流れを止めると、手足などが動かせないほど腫れあがります。現在でも47カ国で8億6,300万人が感染リスクにさらされ、発症すると身体障がいが引き起こされて働けなくなるという、貧困の原因の一つです。
実は、昔の日本にもはびこっていた病気で、平安時代の書物にも記録が残っていますし、西郷隆盛はこの病気で馬に乗れなかったそうです。日本はその後、衛生状態も改善し、1970年代にこの病の制圧が宣言されました。
エーザイは、2013年から世界的に供給不足状態の治療薬DEC錠の製造を開始し、WHOを通じて蔓延国への無償提供に踏み切りました。現地の組織と連携し、時には社員が実際に現地の人々と接する「共同化」にも励んでいます。
2022年7月現在、29カ国へ20.5億錠を無償提供し、そのうちスリランカ、タイ、エジプト、キリバスの4カ国をリンパ系フィラリア症制圧国とする成果をあげています。
効果ある薬を飲むことさえできれば、感染症の対策は可能
–まさに「誰ひとり取り残さない」のSDGs精神、かつ無償でのご貢献に感動しました。最後に今後の展望をお聞かせください。
飛弾さん:
CEOの内藤が、SDGsにおける製薬産業にとっての一丁目一番地は医療較差の是正であり、注力する一つが、NTDsへの取り組みだと述べています。弊社の事業の二大柱は認知症とがんの分野ですが、同様にNTDsへの取り組みは無償提供であっても三つ目の事業として位置づけています。
製薬会社のビジネスは、SDGsの「すべての人に健康と福祉を」に合致しており、我々も、これに対してどうすべきなのかを常に考えさせられています。
NTDsについても、どの様にその課題に取り組むのかは知らないことばかりでしたが、薬を提供しながら様々なことを学んできました。それを次の世代にも伝えたいですし、こういう世界課題に取り組んでいる日本企業があることに興味を持って頂ければ嬉しいです。
効果ある薬が開発され、それを届けられ、きちんと飲んでもらえれば、感染症の対策は可能です。エーザイ一社だけでというのではなく、志を同じとする様々な人々や組織と共に、課題を解決していきたいと思っています。
–御社の理念が、たんなる顧客のヘルスケアではなく、なぜ「ヒューマン・ヘルスケア」なのかがよくわかりました。本日は貴重なお話をありがとうございました。
エーザイ株式会社:https://www.eisai.co.jp/index.html