地球温暖化と気候変動が私たちの生活に及ぼす影響は、確実に目に見えるかたちで年々悪化の一途をたどっています。世界中の国、企業、そして私たちにとっても、温室効果ガスの排出削減は絶対に果たさなくてはならない課題です。
しかし一方で、排出削減と言われても、いつまでに、どのくらい削減しなければならないかが分からなければ、先の見えない思いを抱えながら過ごすことになります。
そんな私たちの到達目標の目安となるのが、カーボンバジェットと呼ばれるものです。
目次
カーボンバジェットとは
カーボンバジェット(Carbon Budget)とは、日本語では「炭素予算」と訳されます。
一言でいうと、地球の気候や環境に深刻なダメージを及ぼさない範囲で、今後出しても良いとされる温室効果ガスの上限の量のことです。
産業革命が始まってから現在まで、人類は膨大な量のCO2を排出してきました。
そして既に排出されたCO2の量と大気の温度上昇の関係を見ると、ほぼ直線的に比例する、つまり、人間がCO2を出し続ける分だけ温暖化も進むということがわかっています。
つまり、その比例の傾き具合を見ることで、温暖化が危険水域に達しないレベルまで出せるCO2のだいたいの量がわかります。これがカーボンバジェットです。
なおカーボンバジェットで基本になるのはCO2換算での数字であり、実際の温室効果ガスにはメタンなど他の成分も含まれます。また、カーボンバジェットの算出値には幾分かの幅や誤差があり、温暖化効果についても不確実性があるものの、多くの科学的見地から信頼性のある指標であることに変わりありません。
カーボンバジェットが注目される背景
地球温暖化が抱える問題が明らかになるにつれ、地球全体の気温がどれだけ上がるとどんな影響が出るかという指標は、世界各国の関心ごとになってきました。そうした指標の必要性が叫ばれた中で、数値目標を科学的に検証し、何度かの国際会議を繰り返して世界的な達成目標として、カーボンバジェットが注目されるようになったのです。
COP16でのカンクン合意
初めて「世界の気温上昇を2℃より下に抑えるべき」という科学的見解が出されたのが、2010にメキシコのカンクンで行われたCOP16(国連気候変動枠組条約の第16回締約国会議)です。
これは、2007年のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)第4次評価報告書で、1990年に比べて2〜3℃気温が上昇すると世界的な被害や損失をもたらす可能性が高い、という報告を受けて定められたものです。
このカンクン合意に基づいて、先進国は2020年の温室効果ガスの排出削減目標を、開発途上国は排出削減のために取るべき行動を提出することが求められました。
カーボンバジェットの登場:第5次評価報告書(AR5)
カーボンバジェットという概念が登場したのが、2013年のIPCC第5次評価報告書です。
この中で、CO2の累積排出量と世界平均気温の予測変化量の間には、ほぼ比例の関係があるということが明らかにされました。
その関係を踏まえ、気温上昇を66%以上の確率で2℃未満に抑えるためには、1870年以降の全ての人間活動起源によるCO2累積排出量を約2,900GtCO2※(2.9兆トン)未満に抑えることが必要というデータも発表されています。
※GtCO2=炭素換算での排出量。1GtCO2(=10億トン炭素)
パリ協定:2℃から1.5℃へ
この間も気候変動がもたらす影響について調査や理解が進み、気温上昇を2℃に抑えるだけでは不十分な可能性があることがわかってきました。これは、気温上昇がある臨界点を超えてしまうと自然界で連鎖的に温暖化が進み、制御できなくなる可能性があること、その臨界点というのが2℃前後だという仮説に基づくものです。
そして、2015年にパリで行われたCOP21で「パリ協定」が締結されます。ここでは、温暖化による気温上昇を2℃よりもはるかに低いレベルで抑制することが目標として設定され、1.5℃に抑える努力を追求すべきと定められました。
第6次評価報告書(AR6)
2021年に発表されたIPCCの評価報告書では、抑えるべき気温上昇を1.5℃、1.7℃、2℃の3パターンに定義し、それぞれのシナリオを実現するための「残されたカーボンバジェット」を試算しています。現在世界各国が定めているNDC(各国別の目標値)も、このシナリオに近い値が目標となっており、残されたカーボンバジェットの量も、気温上昇を1.5℃に抑えるための目標が標準となっています。
【関連記事】IPCCとはどんな組織?活動内容や各報告書の詳細、SDGsとの関係も
カーボンバジェットの現状
では現在、世界にはどれくらいのカーボンバジェットが残されているのでしょうか。
まず大前提となるのは、これまで算定された科学的試算に基づくと、2050年までにネットゼロ(温室効果ガス排出量を実質ゼロ)にしなければ、地球温暖化を1.5℃以下に抑えることは66%の確率で不可能になるということです。
排出できるCO2の量
今後排出できる、いわゆる残余カーボンバジェットは、人間活動による温暖化が始まる産業革命の時代から現在まで出し続けてきた、累積のCO2排出量を差し引いた量になります。
地球温暖化を50%以上の確率で1.5℃以内に抑えるための累積排出量は2,600GtCO2、仮に66%の確率で2℃以内に抑えるとしても2,900GtCO2となります。
しかし、1876年から2017年の間に、全世界では既に2,200GtCO2を排出してしまっています。ここから算出すると、2018年時点での残余カーボンバジェットは
- 50%の確率で1.5℃以下=400GtCO2
- 66%の確率で2℃以下=700GtCO2
となります。
残された時間は少ない?
この残余カーボンバジェットの量は、現在の状態がきわめて深刻であることを物語っています。
というのも、現在世界全体では、1年間で約40GtCO2のCO2を排出しているからです。
2018年時点の量から見ると、66%の確率で2℃以下に抑えるにはあと12年ほど、50%の確率で1.5℃以下に抑えようとすれば、あとわずか7年の2030年までしか私たちはCO2を排出できません。
さらに恐ろしいのは、この期間に残余カーボンバジェットを使い果たせば、それ以降世界がどれだけCO2排出を抑えても1.5℃、あるいは2℃以下に抑えることは不可能な臨界点に達し、温暖化の進行は止められなくなると予測されていることです。つまり、先送りができないのです。
そのため、2020〜30年までの10年間は「決定的な10年」「勝負の10年」と位置付けられています。
横たわる「排出量ギャップ」
こうした試算結果を受けて、世界各国は急ピッチでCO2をはじめ温室効果ガスの削減を進めています。
しかし、世界各国が掲げた目標削減量と、実際に1.5℃に抑えるために必要な削減量との間には大きな差があります。これが「排出量ギャップ」と呼ばれるものです。
排出量ギャップは
①先進国の削減目標(NDC)+途上国の削減行動による世界全体の排出削減量
②温暖化を抑えるために必要な削減目標
で、①から②を引いた値で出されます。その結果、1.5℃以下に抑えるための2030年の推計排出ギャップは
- 現行政策=平均で約25GtCO2
- 無条件のNDC=平均で約23GtCO2
- 条件付きNDC=平均で約20GtCO2
となっています。
こうしたギャップが生じる理由には、削減目標の前提条件が国ごとに違ったり、目標に幅があったりするためです。
このギャップを解消し、パリ協定で定めた気温目標に近づく条件は、ネットゼロの公約を完全に達成する場合のシナリオのみというのが現状です。
世界のCO2排出量に減少の兆しなし
こうした喫緊の必要にもかかわらず、2022年の世界のCO2排出量は40.6GtCO2と予測され、減少に移る兆しは一向に見られません。
COP26で多くの国がカーボンニュートラルとネットゼロへ向けた目標を定めたものの、現状は大きく遅れています。さらに排出量ギャップの問題により、G20を中心とした先進国は再検討と強化を求められていますが、実際には2℃以下に抑えるための目標すら達成の可能性は低いままです。
日本の現状
こうしたカーボンバジェットの考え方は世界全体での試算です。
これを現在の排出量の割合で国ごとに配分した場合、日本は世界全体の3.2%、残り7.5年分(1.5℃以内に抑える場合の2020年以降の量)ですが、過去の累積量と人口比で配分すると、日本が使えるカーボンバジェットは世界全体の1.7%しかありません。
しかし、日本は世界全体での過去の累積排出量の5.1%を既に出しており、先進国としての公平性を考慮すると、日本に分配できるカーボンバジェットは事実上ありません。
今後どれだけ削減すべきか
カーボンバジェットは、世界各国がどれだけの温室効果ガスを削減しなければいけないのかという現実と、具体的な数値目標を冷徹に突きつけます。
具体的には、2030年に間に合わせるには、
- 現在より67%のCO2削減
- 年間でいうと2020〜30年までに世界全体で毎年7.6〜10%、削減量は約1.4GtCO2以上
といった量の削減が求められることになります。またIPCCの第6次報告書では、遅くとも2025年までには世界の温室効果ガスの排出を頭打ちに持っていかなければならないとも言及しています。
ただしこれは「世界全体」での話です。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの主張では、仮に2℃以内を目標にする場合でも、先進国は年間15%の削減が必要であるとされています。
日本をはじめとする先進国は過去の累積排出量を考えると、既に配分されるカーボンバジェットは残っていません。しかし、すぐに排出量ゼロにすることもできないため、超過している分はより多くの削減努力が求められます。
そして前述の毎年約1.4GtCO2という削減量は、2020年の新型コロナのパンデミックによるロックダウンでもたらされた排出削減量に匹敵します。つまりカーボンバジェットを意識すれば、あと10年は世界経済はそのレベルで推移しなければなりません。
ここからも、達成しなければいけない目標がどれだけ困難かということがわかります。
日本はどれだけ削減すればいいのか
では、日本はどれだけの温室効果ガスを削減しなければならないのでしょうか。
世界各国の数値目標の公平性を評価した研究では、日本は
- 2℃目標達成のためには2030年に90%
- 1.5℃目標達成のためには2030年に120%
の削減が必要とされています。(いずれの数値も2010年との比較)
一方、日本政府の削減目標は2030年に約40%、環境NGOが政府に要求しているのは50〜60%とされており、ここでも目標と現実のギャップが大きいことがわかります。
では実際はどうかというと、2020年度の日本の温室効果ガス排出量はCO2換算で11億5,000万トンです。これは2013年度の14億900万トンと比べ、約21.5%の減少に過ぎません。改善されているとはいえ、その道のりは目標には遠く及んでいないのが現状です。
CO2排出量の削減に向けた取り組みや技術
カーボンバジェットの残りという視点から見れば、CO2排出削減に向けた取り組みは、きわめて速やかに、短期間に、そして大規模に行われなければ2030年に間に合わないことになります。
そのためには、実現に時間がかかる取り組みや技術をあてにしている暇はありません。
最も重視されるのは、スピードとコスト、そして広範な影響をもたらすことです。
技術面:再エネ・EVの普及拡大は急務
技術面では、2030年までの「決定的な10年間」の間に、現在使われている既存の脱炭素技術を急速に導入し、より広く普及させることがCO2削減の正攻法です。具体的なものとしては
などがあげられます。
現在、水素やCCUS、合成燃料などの技術にも期待がされていますが、いずれも短期的な実用化には至っていません。これらの技術はどれも重要であり、軽視するべきではありませんが、2030年までの期限を考えると優先度は低く、現時点ではむしろ再エネなど既存の技術に注力することが先決です。
金融面:化石燃料関連からの撤退
カーボンバジェットは、世界中の投資家が化石燃料関連企業からの投資を引き上げる(ダイベストメント)動きの指標にもなっています。こうした動きは、ESG投資が高まる前の2015年には既に始まっており、全世界の化石燃料のうち8割が不良在庫化するリスクが指摘されています。
このように、カーボンバジェットの観点から投資や資産のリスクを評価することは世界的にスタンダードになっており、
など、脱炭素経営に必要な取り組みを進める企業は、日本でも増えてきています。
カーボンバジェットを実現するために私たちができること
私たち市民のライフスタイルを変えることも、限られたカーボンバジェットの節約に重要な役割をはたします。
私たちのライフスタイルの中で、CO2排出量が最も大きいのは食、住居、そして移動です。
平均的な日本人の生活では、一人一年当たりでいうと
- 住居=約32%/2.4tCO2
- 移動=約20%/1.6tCO2
- 食=約18%/1.4tCO2
となり、この3つの分野だけでCO2排出量の4分の3を占めることがわかっています。
そして、私たち日本人に求められるCO2排出削減量はそれぞれ
- 2030年まで=食が47%、住居が68%、移動が72%
- 2050年まで=食が75%、住居が93%、移動が96%
となっています。では、この目標を達成するために私たちができることは何でしょうか。
住居
最も排出割合の多い住居でのCO2排出を減らすためには、住居関連の排出の8割を占める直接エネルギー消費、中でも電力消費を脱炭素化することが有効です。
特に効果を発揮するのが
- 系統電力を再生可能エネルギー由来に切り替える
- 再生エネルギー設備の設置
- 省エネ家電への切り替え
などで、この他の取り組みにはコンパクトな居住空間への転換や、ゼロエネルギー住宅・低炭素設備(ヒートポンプ、断熱材など)への投資などがあります。
移動
日本人は、徒歩を含め年間平均1万1,000km移動し、1,550kgのCO2を出しています。
このうちの約80%が自動車で、17%が飛行機での移動によるものです。
そのため、移動によるCO2排出を削減するのに有効な手段としては
- 公共交通機関や自転車など、車以外の個人移動
- EV(電気自動車)への移行
- ライドシェアまたは一台当たり2人以上の乗車
- 職住近接・テレワークや近場でのレジャーの推奨
などがあります。
食生活
平均的な日本人の食事から出るCO2量は、年間約1,400kgですが、そのうち最も多いのが肉類によるもので、その次に穀類(米)が多くなります。ただ、食事は人間の生活に欠かせないものであり、物理的に削減することは困難です。重要なのは、栄養摂取とCO2排出源のバランスを考え、CO2排出の原因となる要素に配慮した消費行動をとることです。具体的な取り組みとしては、
- 野菜類摂取の増加
- 肉・乳製品を植物性たんぱく質の商品へ転換
- 菓子・アルコール類の削減
- 食品ロスの低減
などの取り組みが望ましいものとされます。
カーボンバジェットとSDGs
カーボンバジェットを知ることは、私たちが排出するCO2の量を意識することにつながり、ひいてはSDGs(持続可能な開発目標)の達成にも貢献します。SDGsの達成目標として2030年が位置付けられているのも、カーボンバジェットを使い切る前に解決すべき「決定的な10年」の最後の年が2030年であることと無関係ではありません。
目標13「気候変動に具体的な対策を」
SDGsの目標13は、気候変動およびその影響を軽減するための緊急対策を講じることの重要性を示しています。
ここまで解説してきた通り、カーボンバジェットは気候変動による影響を最低限に抑えるために、それ以上の温室効果ガスを出せないと示した、具体的かつ緊急性の高い指標です。カーボンバジェットの量を意識することで、世界だけでなく私たちがとるべき行動にも、より具体性が高まります。
目標7「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」
もう一つ関連してくるSDGsの目標7では、7.1から7.3までのターゲットにいずれも「2030年までに」という期限が組み入れられています。これは残余カーボンバジェットの算出に基づき、この年までに
- 安価で信頼できる現代的エネルギーサービス(ターゲット7.1)
- 再生可能エネルギーの割合を大幅に拡大(ターゲット7.2)
- 世界のエネルギー効率の改善率を倍増(ターゲット7.3)
を実現させるというものです。この実現のカギを握るものとしてクリーンエネルギーを位置付けているのが目標7の「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」です。
まとめ
カーボンバジェットは、気候変動の現状と、私たちに残された猶予を時間的・物理的に示すものです。
しかしその数字はあまりにも少なく、対策するべき時間はあまりにも短いものでした。そして現在、世界にはいまだこの状況を打開できる兆しもありません。こうした事実に私たちはどうしても悲観的になってしまいますが、それでもなお、国も、企業も、私たち一人ひとりにもできることはたくさんあります。2030年という目標があるからこそ、解決に向けて立ち上がらなければならない時期は今しかありません。
参考文献・資料
カーボン・バジェットとは?|UNFCCC-COPへの参画|国立環境研究所 (nies.go.jp)
環境用語集:「カーボンバジェット」|EICネット
排出ギャップ報告書2022 著者:United Nations Environment Programme [UNEP]出版者:地球環境戦略研究機関.pdf (iges.or.jp)
GES専門家による「IPCC第6次評価報告書統合報告書のここに注目しました」著者:田村 堅太郎,⽔野 理,田辺 清人,松尾 直樹/著作権:地球環境戦略研究機関/2023年5月 (iges.or.jp)
GCB2022_press_release_J_1208.pdf (nies.go.jp)
1.5°Cライフスタイル ― 脱炭素型の暮らしを実現する選択肢 ― 日本語要約版 著者:小出 瑠,小嶋 公史,渡部 厚志/協力:西岡 秀三,浜中 裕徳,堀田 康彦/出版日:2020年1月/出版者:地球環境戦略研究機関 (iges.or.jp)
No.290 カーボンバジェットと2030年までに急ぐべきこと – 京都大学大学院 経済学研究科 再生可能エネルギー経済学講座 (kyoto-u.ac.jp)
グリーン・ニューディール : 世界を動かすガバニング・アジェンダ / 明日香壽川著. — 岩波書店, 2021. — (岩波新書 ; 新赤版 1882).
脱炭素経営入門~気候変動時代の競争力~. — 日本経済新聞出版社, 2021.
産官学民コラボレーションによる環境創出 / 日本環境学会幹事会編著 ; 佐藤輝責任編集. — 本の泉社, 2022.