100円というと、硬貨である「100円玉」を思い浮かべる方がほとんどだと思いますが、以前は100円札が流通していました。100円札の肖像画に描かれていたのが、自由民権運動の中心人物である板垣退助です。
板垣は政府に国会開設を働きかけ、彼の主張に賛同した多くの人々が人民の権利の拡大や国会開設を求めて自由民権運動を起こしたのです。では、自由民権運動とは、一体どのような運動だったのでしょうか。
今回は自由民権運動の内容や中心人物、運動の歴史、自由民権運動によってもたらされた結果や影響、SDGsとの関わりについて紹介します。自由民権運動に興味がある方は、ぜひ参考にしてください。
自由民権運動とは
自由民権運動とは、薩摩藩・長州藩の出身者が強い影響力を持つ明治政府(藩閥政府)に反発して政府を去った板垣退助らが起こした運動で、国民によって選ばれた議会(民撰議員)をつくって、国民の意志を政治に反映させるべきだと訴えました。*1)
中心人物
自由民権運動には、数多くの人物が参加しました。中でも、中心的な役割を担ったのが板垣退助と後藤象二郎です。この二人について掘り下げます。
板垣退助
土佐藩(高知県)の中心人物だった板垣退助は、幕末に土佐藩軍を率いて活躍し、明治維新後は参議という政府の要職についていました。しかし、西郷隆盛の征韓論に同調して政府をやめて高知県に帰郷します。
高知県で愛国公党を結成した板垣は、政府に国民の意見を反映した議会を早く作るべきだとする「民撰議院設立の建白書」を提出して自由民権運動の口火を切りました。1881年には自由党の総理となり運動の中心人物となります。
その後、1882年4月に遊説途中の岐阜で襲われた際、「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残しました。国会開設後も、自由党系の政治家として活躍しましたが1900年に引退しました。*2)
後藤象二郎
板垣と同じく土佐藩出身の政治家です。坂本竜馬の意見に賛同して、大政奉還を主君である山内容堂に進言し、実現にこぎつけました。板垣と同じく征韓論をきっかけに政府をやめた後、民選議院設立の建白書に署名するなど、自由民権運動の中心人物の一人となります。
自由民権運動の後期に、帝国議会で反政府勢力の結集を呼び掛ける大同団結運動の中心となりましたが、黒田内閣に入閣し、運動を崩壊させてしまいます。*3)
目的
自由民権運動の目的は国会を作ることです。1874年、板垣退助や後藤象二郎は政府に「民選議院設立の建白書」を提出しました。薩摩藩や長州藩の出身者や、一部の官僚が自分勝手な政治を行うことを批判し、国民の代表が集まって政治を行うべきだと批判したのです。
1880年、片岡健吉や河野広中らが国会期成同盟を結成し、国会開設の請願書を政府に提出しました。これにより、自由民権運動が一気に高まり1881年には板垣を中心とする自由党、1882年には大隈重信を中心とする立憲改進党が結成されました。
自由民権運動の歴史
自由民権運動は、どのような経過をたどったのでしょうか。ここでは自由民権運動を4つの時期に分けて考えます。
第1期:自由民権運動の始まり(1874~77)
1873年、西郷隆盛が主張した征韓論に同調した板垣退助や後藤象二郎は政府をやめ、故郷の土佐に帰りました。
多くの不平士族が反乱を起こして各地で政府軍に鎮圧されていたころ、板垣らは言論で政府に対抗しようと考え、1874年に国会を作るべきだと主張する「民選議院設立の建白書」を政府に提出しました。*5)
政府は板垣らの勢いを抑えるため大阪会議を開き、いずれ国会を設立すると約束します。その一方で、自由民権を主張する人々を弾圧するための法律を作りました。
第2期:運動の盛り上がり(1877~81年ころ)
政府が国会設立に対してあまり積極的に動いていなかったことから、1880年に河野広中らは国会期成同盟を結成しました。そして、河野らは8万7,000人の署名を集めて政府に国会開設を迫りました。1881年、政府は国会開設の勅諭を出して10年後の国会開設を約束します。
10年後の国会開設が決まったことで、政党を作る動きが活発化しました。1881年には板垣退助を総理とする自由党が結成され、後藤象二郎はそれに次ぐ人物として自由党に参加します。そして翌年の1882年には、大隈重信が立憲改進党を結成するなど、政党の勢いが強くなっていきました。*6)
第3期:激化事件と運動の衰退(1882~86年ころ)
自由民権運動が盛り上がりを見せる中、自由党の中心人物である板垣退助や後藤象二郎がヨーロッパの議会制度を学ぶため留学することが判明しました。党内では、一番大事な時期に中心人物が抜けるのは困るという反対がありましたが、板垣と後藤は反対を振り切って留学に行ってしまいます。
中心人物を失った自由民権運動は、各地で警察と衝突する事件を起こします。自由党員らが中心となって引き起こした事件をひとまとめにして「激化事件」といいます。主な激化事件は以下のとおりです。
- 福島事件
- 加波山事件
- 秩父事件
福島事件は、福島県令の三島通庸と福島県の自由党員や農民が対立して起きた事件で、自由民権運動に対する最初の弾圧事件とされています。この事件で、自由党の幹部の一人である河野広中が逮捕されました。*7)
加波山事件は、自由党員が栃木県令も兼任していた三島通庸を暗殺しようとした事件で、茨城県の加波山で武力蜂起をしました。事件後、自由党は解党に追い込まれます。*8)
秩父事件は、不況に苦しむ秩父地方の農民と自由党員が引き起こした農民蜂起で、秩父暴動・秩父騒動などと言われました。秩父地方農民たちは自由党員とともに「困民党」を結成し、高利貸しの返済延長や村民税の減免を要求しました。
武装した1万人余りの農民が、高利貸しや郡役所、警察を襲撃して占拠しました。最終的に軍が出動して暴動を鎮圧しました。*9)
始めは、自由党員と政府による戦いだった激化事件は、世の中不景気になると重税に苦しんでいた農民が参加するものへと変化し、規模が拡大してきました。秩父事件の段階では、江戸時代の一揆に近い様相を呈していたといってよいでしょう。
第4期:大同団結運動による復活(1887~89年ころ)
激化事件によって衰退していた自由民権運動は、三大事件建白運動をきっかけに息を吹き返します。
この動きを大きなチャンスととらえた後藤象二郎や星亨らは、旧自由党や立憲改進党の人々に団結して政府に対抗するよう呼びかけました。この運動を大同団結運動といいます。*11)
政府は後藤象二郎を内閣に入れたり、弾圧のための法律として保安条例を成立させたりなどして、運動を鎮めようとしました。大同団結運動自体は短期間で終結してしまいましたが、民権派を集めたことで次の議会に大きな影響を与えます。
自由民権運動による結果・影響
国会の設立や国民の政治参加を求めた自由民権運動は、日本の歴史にどのような影響を与えたのでしょうか。ここでは、憲法制定と帝国議会に関する事柄を取り上げます。
憲法制定の動きを早めた
国会開設の勅諭で1890年の国会開設を約束した政府は、国会の前提となる憲法制定を急ぎました。伊藤博文がヨーロッパにわたりドイツ流の憲法理論を学んだあと、華族令や内閣制度を制定し、憲法草案の作成を行います。
一方、国会開設を目指す民権派も多くの憲法草案(まとめて「私擬憲法」という)をつくり、国会の姿を議論しました。自由民権運動は、国会だけではなく憲法制定という点でも大きな影響を与えたといえるでしょう。
帝国議会で民党勢力が政府と対決した
1890年、大日本帝国憲法にもとづき第一回衆議院議員総選挙が行われました。この選挙で、自由民権運動の流れをくむ政党(民党)は、合計171議席となり過半数を獲得します。それからおよそ4年間、民党は政府と対決し続けました。
民党の主張は「政費節減」「民力休養」です。簡単に言えば、政治にかかるお金を減らして国民の負担(地租など)を軽減しようという主張です。一方、政府は外国との戦争に備えて軍事費を増やしたいと考えていたため、民党と対立します。この対立は、日清戦争が始まる1894年まで続きました。*13)
自由民権運動に関してよくある疑問
ここからは、自由民権運動に関するよくある質問に答えていきます。
自由民権運動はいつからいつまでの運動を指す?
自由民権運動は、1874〜89年までの15年間続いた運動です。民撰議院設立の建白書の提出から大日本帝国憲法の制定までが該当します。
運動は常に一定だったわけではなく、中心となる勢力の違いによって変化していきました。先ほど取り上げた4つの時期について、中心勢力の違いをまとめます。
区分 | 年代 | 時期 | 中心勢力 |
第1期 | 1874~77年ころ | 運動の始まり | 士族 |
第2期 | 1878~81年ころ | 発展期 | 士族・豪農 |
第3期 | 1882~86年ころ | 激化期 | 貧農 |
第4期 | 1886~89年ころ | 大同団結期 | ー |
自由民権運動は、士族の運動としてスタートしました。多くの士族が武力反乱を起こして鎮圧される中、板垣や後藤は言論で政府に対抗しようとしました。その後、運動の中心は士族や豪農となり、国会開設や政治参加を目指す動きに変化します。
しかし、板垣や後藤が抜けた後、貧農が中心となった自由民権運動は過激になり、暴力事件が頻発しました。秩父事件に至っては、自由民権運動というよりも社会に対する不満や生活の改善を訴える動きとなり、江戸時代の一揆に近い形となったのです。
一度下火になった自由民権運動は、大同団結運動で復活して帝国議会で政府と対決するまでになります。
メリット・デメリットを知りたい
自由民権運動が日本の歴史に与えたメリット・デメリットについてみてみましょう。
自由民権運動のメリットは、国の政治に国民の意思を反映させる第一歩となったことです。自由民権運動が行われる前、政府は国民の意思に関わらず日本の政治を動かしていました。一部の人々が政治を動かしていた状況を変えたのが自由民権運動です。
運動が盛り上がるにつれて政府は無視できなくなり、憲法制定や国会開設をせざるを得なくなりました。また、選挙で選ばれた議員は国民の意思を政府に届けるのに大きな役割を果たします。政府も議会の声を無視できず、時にはある程度の妥協も行ったのです。
国民の意見を政治に反映させたという点で、自由民権運動は大きなメリットがあった運動だといえます。
デメリットは、激化事件を引き起こし社会に混乱を招いたことです。激化事件は暴力によって現状を変えようとしたもので、かつての士族反乱と同じく政府の方針を変えさせるものにはなりませんでした。
メリット・デメリットの両者を比較すると、国民の政治参加という点で、自由民権運動は日本の歴史にとってプラスの働きをしたのではないでしょうか。
自由民権運動とSDGs
自由民権運動は、近現代の日本に大きな影響を与えた運動です。ここでは、自由民権運動とSDGsの関わりについて解説します。
目標16「平和と公正をすべての人に」との関わり
SDGs目標の中に、民主主義を直接示す文言はありません。しかし、SDGs目標16の「平和と公正をすべての人に」には、「あらゆるレベルにおいて、対応的、包摂的、参加型及び代表的な意思決定を確保する」とあります。
大日本帝国憲法において、国会にあたる帝国議会の権限は制限されたものでしたが、それでも、政府の動きに対する抑止力として機能しました。政治の腐敗を防ぐという観点に着目すると、自由民権運動とSDGs目標16は強いかかわりを有しているといえます。*15)
戦後に制定された日本国憲法では、主権は国民にあると明示され国民が政治の決定権を持つとされました。自由民権運動は、国会開設と国民の政治参加を求めるものであり、「参加型及び代表的な意思決定」の場を求めた運動といえるのではないでしょうか。
まとめ
今回は自由民権運動の歴史や結果、影響についてまとめました。自由民権運動を始めた人物といってもよい板垣退助は、伯爵の爵位を与えられたものの遺言で爵位を返上しました。個人の名誉よりも、自分が正しいと考えたことを追及する人柄だったことを偲ばせます。
板垣や後藤によって進められた自由民権運動は、国会開設という形でひとまず終結しました。近年の低得票率をみると、自由民権運動で獲得した政治に参加する権利を使わない人が増えているように感じます。
せっかく獲得した権利だからこそ、「選挙は無駄」と考えず、自分の意見を政治に反映させるため投票したり、立候補したりしたほうが良いのではないでしょうか。
参考
*1)デジタル大辞泉「自由民権運動(ジユウミンケンウンドウ)とは?」
*2)日本大百科全書「板垣退助(イタガキタイスケ)とは?」
*3)山川 日本史小辞典 改定新版「後藤象二郎(ゴトウショウジロウ)とは?」
*4)デジタル大辞泉「征韓論(セイカンロン)とは? 意味や使い方」
*5)山川 日本史小辞典 改定新版「民撰議院設立建白(みんせんぎいんせつりつけんぱく)とは?」
*6)改定新版 世界大百科事典「国会期成同盟(コッカイキセイドウメイ)とは?」
*7)デジタル大辞泉「福島事件(フクシマジケン)とは?」
*8)デジタル大辞泉「加波山事件(カバサンジケン)とは?」
*9)デジタル大辞泉「秩父事件(チチブジケン)とは?」
*10)デジタル大辞泉「三大事件建白運動(サンダイジケンケンパクウンドウ)とは?」
*11)日本大百科全書「大同団結運動(ダイドウダンケツウンドウ)とは?」
*12)山川 日本史小辞典 改定新版「華族令(かぞくれい)とは?」
*13)山川 日本史小辞典 改定新版「初期議会(しょきぎかい)とは?」
*14)山川 日本史小辞典 改定新版「自由民権運動(ジユウミンケンウンドウ)とは?」
*15)スペースシップアース「SDGs16「平和と公正をすべての人に」の現状と日本の取り組み事例、私たちにできること」