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鉄血宰相とは?由来や、政策の影響をわかりやすく解説!

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19世紀のヨーロッパは、戦争で他国と戦い、自国の利益を拡大するのが当たり前の時代でした。今よりも戦争が身近だった時代とも言えます。そのため統一国家を持たない地域は、周辺国からの侵略に常に脅かされており、ドイツもその中の一つです。

ナポレオン戦争が終わった1815年、ドイツ東部で一人の子どもが生まれました。後に「鉄血宰相」の異名を持つことになるオットー=フォン=ビスマルクです。彼は、軍事力によってドイツをまとめる鉄血政策を推し進めました。

今と全く異なった時代に生きたビスマルクは、どのように考えて「鉄血演説」を行ったのでしょうか。今回はビスマルクの生い立ちや首相になるまでの活動、鉄血演説の内容とドイツ統一などについて解説します。興味がある方は、ぜひ参考にしてください。

鉄血宰相とは

鉄血宰相とは、19世紀のドイツの政治家であるビスマルクの異名です。ビスマルクが1862年に行った「現在の問題は演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」という議会演説に由来します。*1)

ビスマルクが鉄血演説で訴えたこととは?

ビスマルクが鉄血演説で訴えたかったのは、言論や選挙でドイツを統一するのは不可能であり、軍事力による統一が必要だということです。

かつて、ドイツには神聖ローマ帝国という国がありました。この帝国は、現在の国と比べるとかなり緩やかな結びつきであり、各地を支配する領主は皇帝に逆らうこともありました。*2)神聖ローマ帝国はナポレオンによって滅ぼされましたが、その後にできたドイツ連邦も緩やかな結びつきである点に変わりありませんでした。*3)

さらには、ドイツ統一の方法やフランスをはじめとする周辺国の介入もあり、外交で統一を目指すことはかなり困難でした。そのため、ビスマルクは外交ではなく武力でドイツを統一する必要を議会で訴えたのでした。

なぜビスマルクが鉄血宰相と呼ばれたのか

ビスマルクが鉄血宰相と呼ばれたのは、鉄血演説に由来します。なぜ、彼は武力によるドイツ統一を訴えたのでしょうか。ここからは、ビスマルクの生い立ちや彼の青年時代のできごと、政治家としてのビスマルクの成長にスポットを当てて解説します。

ビスマルクの関連年表

最初に、ビスマルクの生い立ちから死に至るまでの略歴を年表形式で紹介します。

1815年プロイセン王国東部のシェーンハウゼンに生まれる
1832年ゲッティンゲン大学に入学
1834年ベルリン大学に入学
1835年王立裁判所で司法教育を受ける
1836年アーヘンで公務員として勤務
1839年農場経営に携わる
1847年ヨハンナ・フォン・プットカマーと結婚
同年プロイセン王国の連合州議会(身分制議会)の議員となる
1848年ドイツ三月革命で国王派として活動
1849年プロイセン衆議院議員として当選
1851年枢密参事官に任じられ、外交官としてのキャリアがスタート
1858~1862年駐露大使・駐仏大使として活躍
1862年プロイセン王国の首相に就任 →帝国議会で鉄血演説を行う
1864年デンマーク戦争で勝利 →戦後、占領地をめぐってオーストリアと対立
1866年普墺戦争に勝利 →オーストリアをドイツ統一から排除
1871年普仏戦争に勝利 →ドイツ帝国成立
1871~1890年ビスマルク外交を展開 →フランスを孤立させる外交
1890年皇帝ヴィルヘルム2世と対立して辞職
1898年フリードリヒスルーで死去(83歳)

ビスマルクの生い立ち

1815年、オットー=フォン=ビスマルクはドイツのユンカーの家に生まれました。ビスマルク家は14世紀から続く由緒あるユンカーです。

ユンカー

ドイツ東部(エルベ川より東)の地域に存在した大貴族のこと。広大な土地を所有して農場経営を行うだけではなく、ユンカー出身者はプロイセン王国やドイツ帝国の軍人や官僚として活躍した。*4)

ビスマルクが生まれた1815年はナポレオン戦争が終わった年であり、ヨーロッパ各地で伝統的な王国とフランス革命の影響を受けた自由主義者が対立していた時代でした。

1832年、大学入学資格であるアビトゥーアを取得したビスマルクは、ゲッティンゲン大学に入学して法学と政治学を学びます。1834年にはベルリン大学に入学しましたが、学業にはあまり熱心に取り組まなかったようです。

1835〜1837年にかけて、ビスマルクは司法の仕事や地方公務員の仕事をしていましたが、こちらも性に合わなかったようです。なぜなら、ビスマルクは外交官として仕事をしたがっていたからです。

1838〜39年にかけて、ビスマルクは1年間の兵役を修了すると公務員としての仕事に戻らず、実家で農業経営に携わりました。その後、同じユンカーの娘であるヨハンナ=フォン=プットカマーと結婚しました。

議会での活動

1848年、ビスマルクはプロイセンの身分制議会である連合州議会の議員となりました。そして、ビスマルクは保守派の一員として自由主義者と対立していました。その中で1848年、フランス王国で革命が発生し、国王ルイ=フィリップが亡命するという事件(二月革命)がおこります。

二月革命

共和派が国王ルイ=フィリップの王政(七月王政)を打倒し、第二共和政を樹立した事件。二月革命の影響は、急速にヨーロッパ各地に拡大した。*5)

プロイセンでも三月革命が発生し、革命派はビスマルクに革命側に味方するよう要請します。しかし、ビスマルクはプロイセン王国を意味する黒十字の旗を掲げ、反革命の立場を明らかにしました。

あまりに自由主義者と対立していたビスマルクは、1848年に実施される選挙で当選の見込みがないと判断し、立候補しませんでした。

二月革命から時間が経つにつれ、徐々に自由主義者の勢いが弱まります。さらには、プロイセンでも保守派が力を盛り返します。この時ビスマルクは、保守派の一員として新聞に投稿するなどの活動をしていました。

1849年、ビスマルクは衆議院議員に当選しプロイセンの議員となりました。議員になった後も、ビスマルクは保守派の一員として活動します。しかし、外交面では現実に即した対応を主張するなど、他の保守派と違った一面を示していました。

外交官としての活動

保守派の議員として活動していたビスマルクの名は、国王や周辺にも知られるようになりました。熱狂的な君主制主義者とみられていたビスマルクは、ドイツ全体について話し合う連邦議会のプロイセン公使となります。

連邦議会では、最大の領土を持つ連邦議会議長のオーストリアと激しく対立します。このころから、ビスマルクは小ドイツ主義の立場に理解を示すようになったといいます。

小ドイツ主義

オーストリアを排除し、プロイセン中心のドイツ統一を目指す考え方のこと。*6)

ビスマルクはオーストリアとドイツは利害関係の調整がつかないため、対立が継続すると考えました。そのため、オーストリアと同盟するよりも他の国と同盟してオーストリアに対抗しようとしたのです。

駐露大使となったビスマルクは、ロシア帝国の首都であるサンクトペテルブルクに着任し、皇帝アレクサンドル2世と会談するなどして、プロイセンとロシアの関係を改善しました。

1861年、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が死去し、弟のヴィルヘルム1世が即位しました。国王の周辺にはビスマルクを首相に推薦する動きもありましたが、前王后のアウグスタがビスマルクを嫌っていたこともあり、就任が見送られます。

かわって、ビスマルクは駐仏大使としてフランスのパリに赴任しました。このころ、フランスでは第二共和政を打倒したナポレオン3世が皇帝となっていました。ナポレオン3世は次期首相とみられていたビスマルクと長時間の会談を行います。かつて、一人のユンカーに過ぎなかったビスマルクは、ヨーロッパでも屈指のVIPとなっていたのです。

鉄血演説とドイツ統一

1862年、プロイセンでは国王と議会が軍の予算をめぐって激しく対立していました。国内政治が混乱する中、ヴィルヘルム1世はビスマルクを呼び寄せ、プロイセン王国の首相に任命します。

首相となったビスマルクは、自由主義者もいる議会で軍備拡張と武力によるドイツ統一を主張する「鉄血演説」を行いました。当然、議会は反発しましたが、ビスマルクは議会を無視して軍備拡張を実現しました。

そしてビスマルクは、拡張した軍事力を使ってドイツ統一の戦争を開始します。1864年、プロイセンはオーストリアと手を組み、国境をめぐって対立していたデンマークに宣戦布告しました。戦いはプロイセン・オーストリア連合軍の圧勝に終わります。*7)

しかし、占領地であるシュレースヴィヒ・ホルシュタイン地方を巡ってプロイセンとオーストリアは激しく対立します。両者の交渉は決裂し、1866年に普墺戦争が始まりました。戦いはプロイセン軍が勝利します。これにより、オーストリアはドイツ統一から排除され、プロイセンを中心としたドイツ統一が進みました。*8)

プロイセン中心の領土拡大を警戒したのがフランス皇帝ナポレオン3世でした。

ナポレオン3世

フランス皇帝ナポレオン1世の甥で、二月革命後に大統領に就任した人物。1852年に国民投票によって皇帝となった。

ビスマルクは、スペイン王位を誰が継ぐかについての話し合いでフランス公使がヴィルヘルム1世に話した内容を情報操作し、プロイセンとフランスの関係をわざと悪化させ、戦争を引き起こしました。

こうして1871年に始まった普仏戦争も、プロイセンの勝利に終わります。戦争に勝利したプロイセン王ヴィルヘルム1世は、ベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位しました。その際、フランス領のアルザス・ロレーヌ地方がドイツに割譲されました。

以後、アルザス・ロレーヌ地方は、ドイツとフランスの対立を象徴する地域となります。こうして、ビスマルクはデンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争に相次いで勝利することで、ドイツ統一を達成しました。

ビスマルク体制の確立

ドイツ統一の立役者となったビスマルクは、ドイツ帝国の宰相となりヨーロッパの政治を主導する政治家となりました。1870年代から1880年代にかけて、ビスマルクが展開した外交をビスマルク体制といいます

ビスマルク体制

ドイツ・オーストリア・ロシアの三国同盟をベースに、フランスを孤立化させる外交政策のこと

戦争や外交では多くの結果を残したビスマルクですが、国内統治は順調といえませんでした。出身階級であるユンカーの利益を守る政治を行う一方、ドイツ南部を中心とするカトリック勢力と激しく対立する文化闘争を引き起こしてしまいます。

また、ビスマルクは社会主義勢力を弾圧する一方で、医療保険・災害保険・養老保険などの充実を図り、当時最も進んだ社会保障制度をつくりあげました

新皇帝との対立と引退

1888年、ビスマルクに絶対の信頼を置いていた皇帝ヴィルヘルム1世が死去しました。同年3月に即位したフリードリヒ3世が6月に死去したことで、ヴィルヘルム1世の孫であるヴィルヘルム2世が29歳で即位します。

若き皇帝ヴィルヘルム2世は、社会主義者を弾圧するビスマルクと対立しました。新皇帝とそりが合わないと感じたビスマルクは皇帝に辞表を提出し、帝国宰相を辞任しました。こうして、ビスマルクの時代は終わったのです。

鉄血政策の影響

ビスマルクが行った鉄血演説がドイツの歴史にどのような影響を与えたのでしょうか。ここでは、ドイツ統一への影響を紹介します。

ドイツ統一を達成した

ドイツは、長期間にわたって分裂した国家でした。ドイツの原型となったのは962年に成立した神聖ローマ帝国です。

神聖ローマ帝国

962年にオットー1世が神聖ローマ皇帝となったことで成立した国。皇帝は選挙で選ばれ、ローマ教皇の戴冠を必要とした。国内の貴族や自由都市の自治権が強く、緩やかな統一にとどまり、宗教改革や三十年戦争で弱体化し、ナポレオンによって完全に滅ぼされた。*10)

神聖ローマ帝国滅亡後、ドイツ地域で有力な国となっていたのはオーストリアとプロイセンでした。しかし、依然として統一国家がなかったドイツ地域は、常に周辺国からの介入をうける不安定な地域だったのです。

ビスマルクは鉄血演説に始まる一連の軍事力強化で、プロイセンをドイツ地域ナンバー1の大国にし、ドイツ統一を達成します。周辺から介入される地域だったドイツは、一転して世界の列強の一員となり、植民地獲得競争に乗り出す国となったのです。

鉄血宰相とSDGs

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ビスマルクは、鉄血演説を行って議会と対立する道を選択し、軍事力でドイツを統一しました。しかし、軍事力による問題解決はさまざまな問題を引き起こします。ここでは、軍事力とSDGsの関係について考えます。

武力による問題解決は19世紀の価値観

ビスマルクが生きた1800年代(19世紀)は、軍事力がなければ自国の独立を達成するのが困難な時代でした。ドイツと同じように周辺から干渉されていたイタリアも、オーストリアとの戦争に勝利してイタリア統一を成し遂げます。

軍事力が紛争解決の手段として用いられていた時代において、他国に負けない軍事力を身につけるのは自国を守るために必要なことだったでしょう。

しかし、二度の世界大戦で大国は戦争による利益よりもはるかに大きな損失を被ることとなります。加えて、ベトナム戦争やアフガニスタン紛争は武力だけで問題解決を図ることが難しいことを示しました。

なにより、「誰一人取り残さない」というSDGsの原則から見れば、多くの人の命が失われる戦争は、問題解決の手段としてふさわしくないといえるでしょう。

まとめ

今回は、鉄血宰相の異名を持つビスマルクについて紹介しました。ビスマルクは、国王を中心とした政治を信奉する保守的な政治家であり、問題解決のために躊躇せず武力を用いる政治家でした。

たしかに、「鉄と血」によってドイツ統一は達成されました。だからといって、現代も同じ手法が通用するわけではありません。ウクライナでの戦争を見ればわかるように、長期的な戦争は戦争当事国の人々に大きな被害を与えます。

ガザ地区での戦闘でわかるように、威力が増した兵器は多くの民間人を巻き添えにし、その様子が世界に報道されています。多くの人の命を奪う戦争によって紛争を解決するのは、過去のものとするべきではないでしょうか。

参考
*1)デジタル大辞泉「鉄血政策(テッケツセイサク)とは?
*2)山川 世界史小辞典 改定新版「神聖ローマ帝国(シンセイローマテイコク)とは?
*3)山川 世界史小辞典 改定新版「ドイツ連邦(ドイツレンポウ)とは?
*4)山川 世界史小辞典 改定新版「ユンカーとは? 意味や使い方
*5)山川 世界史小辞典 改定新版「二月革命(ニガツカクメイ)とは?
*6)山川 世界史小辞典 改定新版「小ドイツ主義(ショウドイツシュギ)とは?
*7)山川 世界史小辞典 改定新版「シュレースヴィヒ‐ホルシュタイン問題とは?
*8)山川 世界史小辞典 改定新版「ドイツ統一(ドイツトウイツ)とは?
*9)旺文社世界史事典 三訂版「ビスマルク体制(ビスマルクたいせい)とは?
*10)山川 世界史小辞典 改定新版「神聖ローマ帝国(シンセイローマテイコク)とは?