アフガニスタンは、日本語で「瑠璃」とよばれるラピスラズリの産地として知られています。古来、シルクロードの重要地点として栄えてきたアフガニスタンですが、現在は苦難の歴史のさなかにあるのです。
20世紀後半にはソ連による軍事侵攻を受け、その後は内戦によって国土が疲弊しました。そればかりか、2001年の同時多発テロの首謀者であるビンラディンをかくまったとしてアメリカと対立し、その侵攻を受けてしまうのです。
その結果、かつて交易で栄えたアフガニスタンは、世界でも最悪レベルの貧困国家となっているのです。今回は、アフガニスタン内戦の経緯や流れ、戦後のタリバン支配、SDGsとの関わりについて解説します。ぜひ、参考にしてください。
アフガニスタン戦争とは?
アフガニスタン戦争とは、20世紀後半から21世紀前半にアフガニスタンで発生した一連の戦争のことです*1)。
20世紀後半に起きた2つの「アフガニスタン戦争」
20世紀後半のアフガニスタンは、戦争に次ぐ戦争で多くの人が犠牲になりました。
【20世紀後半にアフガニスタンで起きた戦争・内戦】
年代 | 戦争・内戦名 | 主な対立構図 | 勝者 |
1978~92 | アフガニスタン内戦(親ソ政権崩壊まで) | ソ連・親ソ政府 VS 反政府勢力 | 反政府勢力 |
1992~96 | アフガニスタン内戦(タリバンのカブール制圧まで) | 反政府勢力内の主導権争い | タリバン |
2001~21 | アフガニスタン戦争 | アメリカ VS タリバン | タリバン |
アフガニスタンの戦争は、1978年のソ連のアフガニスタン侵攻に端を発し、96年まで続いたアフガニスタン内戦と2001年の同時多発テロから20年にわたって続いたアメリカとタリバンによるアフガニスタン戦争の2つに分けられます。
そのうち、アフガニスタン内戦は前半の親ソ政権崩壊までと、後半の反政府勢力内部の主導権争いに分けると理解しやすくなります。
アフガニスタン内戦(1978~1992)
1978年にアフガニスタンで起きた親ソ派によるクーデターによって、新たな政権が誕生しました。ソ連はこの政権を守るために軍事介入を行い、これをきっかけにアフガニスタンで内戦が勃発しました。
一方のアメリカは、ソ連軍や親ソ政府軍と戦う反政府勢力を資金面で後押しし、支援を続けました。そして1989年、ソ連軍が完全撤退を余儀なくされると、支援を失った親ソ政権は1992年に崩壊へと追い込まれたのです*1)。
アフガニスタン内戦(1992~1996)
親ソ政権崩壊後、反政府勢力の連合政権が樹立されましたが、内戦が継続しました。この状況で勢力を拡大したのがタリバンです。
アフガニスタン南部のカンダハル州で活動を開始したタリバンは、各地の武装勢力を制圧したことで住民の支持を集め、勢力を拡大させました。そして、1996年に首都カブールを制圧して国土の大半を支配しました*3)。
アフガニスタン戦争が起きた背景
アフガニスタンは、長期にわたって内戦が繰り広げられてきた国です。タリバンの勢力拡大で内戦は一段落しましたが、それからわずか5年で超大国アメリカと戦争することになります。ここでは、アフガニスタン戦争が起きた背景について解説します。
タリバンの強圧的な支配
タリバンはイスラム神学校の学生を中心とする集団であったため、イスラム教の教えに忠実であろうとしました。政権を握った後、タリバンはイスラム法を厳しく押し付ける強圧的な支配を行います。
タリバンが行ったイスラム法による支配は以下の通りです。
- 女性の教育や就労の禁止
- 偶像崇拝の禁止
- 飲酒の禁止
- 音楽鑑賞の禁止
*4)
特に、世界遺産であるバーミヤンの仏教遺跡群を偶像崇拝であるとして破壊した行為は、国際的な非難を浴びました。こうした支配そのものは戦争の直接的な原因ではありません。しかし、イスラム原理主義を掲げるアルカイダと接近する要因となったと推測できます。
アルカイダの存在
アルカイダは、1988年にビンラディンが設立した国際テロ組織で、アメリカやその同盟国をテロの標的としました。2001年のアメリカ同時多発テロをはじめ世界各地でテロ行為を行う組織です。
アルカイダのもととなったのは、ソ連侵攻時に抵抗したイスラム義勇兵のムジャヒディンでした。ビンラディンはアルカイダ設立後もアフガニスタンを拠点としてテロ活動を行ったのです。
アフガニスタン戦争の流れ
アフガニスタン戦争は、アメリカ同時多発テロがきっかけで起きました。その後、アメリカ軍などの侵攻によりタリバン政権が崩壊します。しかし、タリバンは徐々に勢力を回復し、戦争開始から20年後の2021年にアメリカ軍を全面撤退させることに成功しました。アフガニスタン戦争の流れを整理します。
アフガニスタン戦争の始まり
戦争のきっかけとなったアメリカ同時多発テロ事件は、2001年9月11日に発生したテロ事件です。ハイジャックされた旅客機が、ニューヨークの世界貿易センタービルや国防総省などに突入し、3,000人以上の命が失われました。
ブッシュ政権は、この事件の首謀者をイスラム過激派組織アルカイダの指導者ビンラディンと特定し、ビンラディンを匿っていたアフガニスタンのタリバン政権に対し、その引き渡しを要求します。
しかし、タリバン政権が引き渡しを拒否したため、ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言しました。そして、2001年10月、アメリカはアフガニスタンへの軍事侵攻を開始し、タリバン政権を攻撃しました*5)。
新政権の樹立
2001年10月7日、アメリカ・イギリスなどの有志連合軍が空爆を開始し、同時に反タリバン勢力が首都カブールに向けて進撃しました。その結果、タリバン政権は2か月ほどで崩壊します*1)。
タリバンは首都から撤退し、元々の拠点であった南部地域へ逃れました。指導部がパキスタンに逃れて庇護を得たことなどから、タリバンは次第に力を取り戻していきます。他方、首都を掌握した反タリバン勢力は政権を立ち上げたものの、腐敗が蔓延し、人々の信頼を徐々に失っていったのです*6)。
タリバンの復活
戦闘終結後も、アメリカ軍はアフガニスタンにとどまりました。アメリカのオバマ大統領はアメリカ軍を増派してアフガニスタンの政権を支えます。また、同時多発テロの容疑者であったビンラディンの殺害にも成功しました*1)。
しかし、アメリカ国内ではアフガニスタンから撤退するべきだという意見が強まりました。なぜなら、多くのアメリカ兵が犠牲になっていたからです。2016年の大統領選挙に当選した共和党のトランプは、タリバンとの和平交渉を進めます*7)。
その後、2021年に民主党のバイデン大統領がアフガニスタンからの撤退を表明します。アメリカ軍による支援を失ったアフガニスタンのガニ政権はタリバンとの戦いに破れ、急速に崩壊しました。
アフガニスタン戦争のその後
ガニ政権の崩壊とアメリカ軍の撤退により、アフガニスタンは再びタリバンの支配下に置かれました。ここでは、戦後のアフガニスタンについて解説します。
現在のタリバンによる統治
タリバン政権が崩壊してから2年後の2023年、NHKがアフガニスタンについて取材しています。それによると、首都カブールは落ち着きを取り戻しつつあるものの、物資は不足している状態とのことでした*8)。
2021年9月9日国連開発計画(UNDP)は、人口の97%が貧困ライン以下に陥る危険性があると発表しました*9)。
女性の自由が以前よりも制限されているという指摘もあります。具体的には、女性が公園に行けなかったり、美容室が閉鎖されたり、女性の中等教育が禁止されたりといったことが行われているようです*8)。
アフガニスタン戦争が日本に与えた影響
アフガニスタンは日本から遠く、情報も少ないことから、影響をあまり受けていないと思われがちです。しかし、実際にはアフガニスタンで活動している日本人が危険にさらされたり、現地が不安定化することでテロの温床になる可能性があります。
そのため、日本もアフガニスタン戦争の影響を受けているといえます。ここでは、アフガニスタン戦争が日本に与えた影響について説明します。
中村哲医師の殺害事件
中村哲医師は、パキスタンとアフガニスタンで35年以上にわたり医療支援活動を行ってきた日本人医師です。1973年に九州大学医学部を卒業後、1984年から現地での活動を開始し、NGO「ペシャワール会」の現地代表として、ハンセン病治療や難民医療支援に携わりました。
また、アフガニスタン山岳部に診療所を開設し、感染症対策にも取り組みました。さらに、干ばつ被害に苦しむ現地の人々を支援するため、灌漑事業や農地回復のための用水路建設なども手がけ、戦争が続くアフガニスタンで医療と農業の両面から支援活動を展開しました。
しかし2019年12月4日、アフガニスタンのジャラーラーバードで銃撃を受け、不幸にも命を落としました。アフガニスタンの復興に尽力していた中村医師の命が失われたことは、大きな損失でした。
日本がアフガニスタンの復興を支援
日本は、アフガニスタンが自立し、テロの温床となるのを防ぐことを目的として、2001年以降、総額約57.91億ドルに及ぶ支援を行ってきました。2012年の東京会合では、開発と治安維持能力向上のため、約30億ドル規模の支援を表明し、2015年までに約24.51億ドルの支援が実施されています。
具体的な支援内容は、警察への給与や訓練などを通じた治安維持能力の向上、元タリバン兵士への職業訓練や雇用機会創出による社会復帰支援、そして農業、インフラ整備、人材育成といった持続的な発展のための開発支援など、多岐にわたっています。
アフガニスタン戦争とSDGs
アフガニスタン戦争は、2001年から2021年まで20年にわたって続く長期的な戦争でした。その間、国土は戦火に焼かれ、多くの人たちがなくなりました。当然、国の経済力もどん底まで低下し、市民は生活に困窮しています。ここでは、アフガニスタン戦争とSDGs目標1の「貧困をなくそう」との関わりについて解説します。
SDGs目標1「貧困をなくそう」との関わり
アフガニスタン戦争は、SDGs目標1「貧困をなくそう」の達成に暗い影を落としています。20年以上にわたる紛争は、同国の社会基盤を破壊し、経済発展を著しく阻害してきました。
UNDPの発表によると、2021年9月時点で、アフガニスタンの人口の97%が貧困ライン以下に陥る危険性があります。これは、一日に2.15ドル未満で生活する人を絶対的貧困と定義する世界銀行の基準に照らしても、極めて深刻な状況です。
戦争は、農地や工場を破壊し、生産活動を停止に追い込みました。また、多くの人々が家を追われ、国内避難民として不安定な生活を強いられています。教育や医療へのアクセスも制限され、人々の生活水準は著しく低下しています。
そのため、多くの人々が国内避難民となっています。アフガニスタン難民の現状について詳しく知りたい方は、「アフガニスタン難民の現状は?発生原因や私たちにできることも」をご覧ください。
国際社会からの支援は不可欠ですが、アフガニスタンの真の復興には、平和の定着と政治の安定が不可欠です。紛争の終結によって、人々が安心して生活し、働くことができる環境を取り戻すことが、貧困の撲滅に向けた第一歩となるでしょう。
まとめ
今回は、アフガニスタン戦争について解説しました。アフガニスタンは古くから大国の勢力争いの舞台となり、数々の戦禍に見舞われてきました。特に20世紀以降は、アメリカによる軍事介入や、タリバン政権の崩壊と復権など、めまぐるしい政治的変動が続いています。
このような混乱の中で、現地の人々は極めて困難な生活を強いられています。インフラ設備は戦火により甚大な被害を受け、特に女性の権利は著しく制限され、教育機会も奪われています。これらの状況は、国際社会が目指すSDGsの理念とは相反するものです。
アフガニスタンが直面する課題は山積していますが、特に深刻な経済危機の克服と貧困の解消が急務となっています。国際社会は、この国の復興と発展のために、どのような支援が可能か、真剣に検討する必要があるでしょう。
参考
*1)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「アフガニスタン紛争」
*2)デジタル大辞泉プラス「タリバン」
*3)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「タリバン」
*4)日本大百科全書(ニッポニカ)「タリバン」
*5)知恵蔵「同時多発テロ」
*6)NHK「タリバンってそもそも何?専門家に聞く」
*7)共同通信ニュース用語解説「米タリバンの和平協議」
*8)NHK「タリバンは変わった?現地大使が見たアフガニスタンの今とは?」
*9)UNDP「UNDP、2022年半ばまでにアフガニスタン人の97%が貧困に陥る可能性と予測」
*10)スペースシップアース「貧困ライン」
*11)スペースシップアース「絶対的貧困とは?相対的貧困との違い、世界の現状、原因、解決策も」