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アウシュヴィッツで何が行われていた?歴史的背景を交えて解説

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第二次世界大戦の只中で、ヒトラー率いるナチスドイツ軍は数えきれないほどの人々を迫害し、多くの命を奪いました。

その舞台のひとつとして、今も当時の出来事を語り継いでいる施設がアウシュヴィッツです。

強制収容所として、またユダヤ人の絶滅センターとして機能したアウシュヴィッツは、なぜ建てられ、その中で何が起きていたのでしょうか。

この記事では、アウシュヴィッツが建設された歴史的な背景や、実際に施設内で行われていたことなどについて、詳しくご紹介します。

アウシュヴィッツとは

アウシュヴィッツ(Auschwitz)とは、第二次世界大戦中にナチス(ナチ)政権による大量虐殺の際に使用された強制収容所のことです。

ポーランド南西部の町・ビルケナウに位置し、1940年から強制収容所として利用され始めました。

現在、アウシュヴィッツ収容所はポーランドにありますが、当時のナチスドイツ政権によって占領され、ドイツ語の「アウシュヴィッツ」という土地名を使用していたため、その名が広く知られるようになりました。

英語名では「アウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)」とも言われています。

アウシュヴィッツに収容されていた人たち

アウシュヴィッツに収容された人たちの多くはユダヤ人でしたが、以下の図のように、さまざまな理由で連行・収容された人たちもいました。

収容所の囚人たちのカテゴリー

ユダヤ人

1942年からはユダヤ人が一番多く収容されていました。囚人番号を付けられたユダヤ人は約20万人いました。

政治犯

政治犯は約16万人でした。その内にはレジスタンス活動をしていたために又は手入れの時に逮捕されたというポーランド人が一番多く収容されていました。

反社会的分子

反社会的分子と見做された囚人のカテゴリーには、主に2万1000人の登録されたジプシーが含まれていました。

ソ連軍捕虜

ソ連軍捕虜は1万5000人で、その内1万2000人が登録されていました。

教育囚人

教育囚人というカテゴリーは約1万1000人で、労働規制を破り収容された人々でした。

警察によって逮捕されたポーランド人

警察によって逮捕されたのはポーランド人だけでした。カトビツェ市とミスオビツェ市のゲシュタポの刑務所が囚人で溢れていたため、ポーランド人はアウシュビッツ収容所に連行されました。収容所内では臨時裁判を待たされ判決は殆ど銃殺でした。その犠牲者数は数千人と言われています。

刑事犯

刑事犯は主にドイツ人で数百人いました。その中から収容所管理局は、収容所内の規律維持に当たりSS隊員のために働く囚人を選びました。

エホバの証人

“エホバの証人”は宗教的な理由によって収容所に送られた人々でした。主にドイツ人で最低138人が登録されました。

ホモ

ホモは主にドイツ人で、最低数十人が登録されました。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ その歴史と今|PAŃSTWOWE MUZEUM AUSCHWITZ-BIRKENAU

ユダヤ人以外にはポーランド人やロシア人がおり、ドイツ国内からも宗教や性的志向によって連行された人もいたのです。

アウシュヴィッツが建設された理由や当時の歴史的背景については、後ほど詳しく説明しますが、まず先に「アウシュヴィッツでどのようなことが行われていたのか」を確認していきましょう。

アウシュビッツで行われていたこと

アウシュヴィッツ収容所では、主に以下のような行為が収容者に対して行われていました。

  • 強制労働
  • 人体実験
  • ガス室での虐殺

ひとつずつ詳しく見ていきましょう。

アウシュヴィッツで行われていたこと①強制労働

労働力になると判断された人々は、施設内にある工場や農場で強制労働をさせられていました。

1944年までにアウシュヴィッツは、3か所の収容所と47か所の副収容所から成り立っていました。

福収容所の中にはドイツの炭鉱・製鉄工場や、ポーランドのシレジア地方農場などの傍に建てられ、連行された人々の中から労働力になると判断された場合、ここでの労働に参加させられていました。

この点から、アウシュビッツでの虐待行為は、ナチスドイツ政権だけでなく企業なども加担していたことが分かります。

収容所での食事や住環境もままならないうえ、長時間過酷な労働をさせられた収容者は、やがて過労で倒れ、命を落としていきました。

強制労働には、ユダヤ人だけでなく周辺住民であったポーランド人、連行されたロシア人なども多く参加させられていました。

また中には、ユダヤ人もナチスドイツ軍による大量虐殺に加担させられることもありました。遺体や遺品の運搬・処理作業を強いられ、身体・精神ともに受けたダメージの大きさは計り知れません。

アウシュヴィッツで行われていたこと②人体実験

収容所では、連行された人々の中から「選別」を行い、人体実験の材料に利用されることがありました。

副収容所に隣接された、IGファルベンインダストリーをはじめとするドイツ企業の新薬開発に伴い、囚人を実験台にすることがありました。

例えば、すでに不衛生な環境によって伝染病が蔓延していた収容所の人々に薬を投与し、反応を観察する実験では、嘔吐や下痢・消化器系の障害に苦しむ被験者が多くいたのです。

また別の医師たちによって、集団的な不妊方法の開発や、身体へのX線照射なども定期的に行われました。こうした非人道的な人体実験によって、様々な合併症を発症して苦しんだり、命を落としたりする人が絶えませんでした。

過酷な環境を生き抜いた生存者の中にも、人体実験を受けた人がおり、彼らの多くは完治しない障害や後遺症に悩まされていたといいます。

アウシュヴィッツで行われていたこと③ガス室での虐殺

アウシュヴィッツ収容所の最大の特徴として、毒ガスを使った大量虐殺が挙げられます。

収容所が建設された当初、ナチスドイツ軍はユダヤ人をはじめとする収容者を射殺していました。

しかし連れて来られるユダヤ人の数が増えていくと、銃を使ったやり方では時間も手間もかかってしまい、遺体の処理にも負担がかかるようになっていきます。

そこでアウシュヴィッツ収容所では、大規模なガス室が設置されたのです。

ガス室に連れていかれる人の多くはユダヤ人です。各地から連れてこられた女性や子ども・老人を中心に、強制労働や人体実験に向かないとされる人たちがターゲットとなりました。

彼らはアウシュヴィッツに連れて来られるやいなや、囚人として個人情報を登録されることもなく、衣服や持ち物・毛髪までもを没収され、「シャワーを浴びるように」とガス室へ押し込められます。

すると天井から「ZYKLON-B」と呼ばれる有毒ガスが噴き出し、何をされたのかも分からないまま命を落としていきました。

こうした無残な虐殺は、1941年に建てられたアウシュヴィッツ2号・ビルケナウ収容所のガス室で行われ、1942年から本格的に加速していきました。

このように、アウシュヴィッツではさまざまな方法で多くの人々が苦しめられ、命を落としていきました。

アウシュヴィッツと生理の関係

ここで、アウシュヴィッツと生理の関係について見ていきましょう。

アウシュヴィッツに収容された中には、女性も少数ながらおり、過酷な生活を強いられていました。

そこで長らく言われてきた謎のひとつとして「アウシュヴィッツ収容所に到着した女性のほとんどは、すぐに生理が来なくなった」という話があります。

ステロイド剤による影響とも

長年、アウシュヴィッツの生存者による証言や数少ない資料を研究したカナダ・オタワ大学の研究者の論文によると、アウシュヴィッツ収容所にいた女性の98%は生理が来なくなったことについて、「ステロイド剤の一種を食事に混ぜて投与させ、ユダヤ人の子どもが生まれないようにした可能性が高い」と指摘しています。

もちろん、その他にも栄養失調やストレスといった要因も考えられますが、収容所に連れてこられてすぐに生理が来なくなった、という生存者の声が多く、実際に不思議な薬が混ぜ込まれていたという証言もあるため、上記の説が濃厚になっています。

一方、意図的であったかは不明ですが、アウシュヴィッツに収容されたあとも生理がき続ける女性もいました。

そうした女性たちは、生理用品だけでなく下着や布さえもなかなか手に入らない環境のもと、生理が来ても公衆の面前で血で下着やベッドが汚れることにより、人間扱いされない屈辱を味わっていたといいます。

いずれにせよ、アウシュヴィッツの中で生きる女性たちにとって、生理は大きな問題であり、ごく一部の生存者の中も最後までこの問題に悩まされていました。

多くの女性に対し、子どもを授かることが出来なくなるように仕掛けたという意味でも、ナチスドイツ政権の犯した罪がいかに重いかを認識させられます。

アウシュヴィッツが建設された理由を歴史的背景を交えて解説

ここで改めて、主に1930~1940年代の当時の歴史を振り返りながら。なぜアウシュヴィッツ収容所が建設されたのかについて見ていきましょう。

ナチスドイツ政権の誕生と、第二次世界大戦のはじまり

第一次世界大戦が終わったばかりの1920年代ドイツでは、当時の情勢に不満を抱える人が多くいました。敗戦によって多くの負債を抱え、国民にもその負担を強いていた状況だったのです。

そうした中、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)率いるナチス党が、次第に勢力を拡大していきます。彼らはユダヤ人差別主義を含む過激な思想を唱え、徐々に支持者を獲得していきました。

ナチスドイツ党のトップだったアドルフ・ヒトラーは、絵描きをしていた時代からユダヤ人差別主義者であったといわれています。

その後、1919年にナチス党の前身組織に入党し、1921年にはナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首へと昇り詰めました。

ヒトラーは何を主張したのか?

ヒトラーは「現在のドイツを悲惨な状況に陥れたのはユダヤ人だ」などと、荒唐無稽で差別主義的な内容を含む演説を展開していきました。そのうえで「我々ナチ党が、ドイツを再建する」と主張したのです。

歴史を知るわたしたちから見ると、こうした主張は多くの矛盾を含み、ヒトラーがとても信頼できる人物ではないことが分かります。

しかし人の心を動かすような口調で繰り出される演説は多くの人を魅了し、国政への不満を抱えるドイツ市民の支持を次々に獲得していったのです。

1932年、国政選挙でナチス党が第一政党となりました。翌年の1933年、前代の首相が死去すると、ヒトラーが実質ドイツのトップとなり、ナチス党による独裁政権が開始しました。

そして1939年、ナチスドイツ軍がポーランド領への侵攻を開始すると、第二次世界大戦が勃発したのです。

ユダヤ人を隔離する施設「ゲットー」の誕生

ナチスドイツ軍による強制収容所の建設は、ナチス政権の誕生後1933年からすでにドイツ国内ではじまっていました。

ナチス党の「ドイツの惨状を招いたのはユダヤ人」という主張から、ユダヤ人は居住地だけでなく生活のあらゆる制限を強いられるようになりました。ほかのドイツ市民とは隔離された状態での暮らしを押し付けられていたのです。

この頃と同時期から作られ始めたのが、ユダヤ人の強制居住区と呼ばれる「ゲットー(Ghetto)」です。すでにドイツで暮らしていたユダヤ人のほとんどがゲットー内に移住させられ、狭いスペースに多くの人々が生活していました。

そうした不衛生な環境から感染症が蔓延し、ゲットー内ではたくさんのユダヤ人が命を落としたといいます。

当初、ゲットーの収容から逃れたユダヤ人もいましたが、ドイツ国内外ではすでにユダヤ人差別が横行しており、企業や警察・一般人までもが国ぐるみでユダヤ人狩りを行うまでに発展していきました。

この頃には「ユダヤ人はドイツの敵」と見なされ、排除の対象とされていたのです。

アウシュヴィッツ収容所の建設が本格的に開始

第二次世界大戦が勃発すると、ドイツの国外にも強制収容所が作られるようになっていきます。

リトアニアやチェコ・ポーランドのような周辺国にも、ゲットーと収容所が多く作られましたが、中でも5つの施設が「絶滅収容所(Extermination campsおよびDeath camps)」として建てられました。

そのうちのひとつがアウシュヴィッツであり、最大規模の強制収容所として建設されたのです。

アウシュヴィッツ収容所は、元ポーランド軍の基地を利用して建設されました。最初に建てられたアウシュヴィッツ1号では収容者が1万2,000人~2万人ほど、最大規模のアウシュヴィッツ2号・ビルケナウではピーク時で9万人、アウシュヴィッツ3号(ブナ)では1万1,000人を超える人々が収容されていたといいます。

1943年には、3つの収容所と複数の副収容所のほか、強制労働者を受け入れるための工場・農場から成り立つ、巨大な施設へと変貌を遂げていきました。

ナチスドイツ政権はゲットーに住むユダヤ人を、窓もトイレもない列車で移送し、強制労働や人体実験の材料として利用するため、アウシュヴィッツなど各地の収容所へ連行していました。

「ユダヤ人の最終的解決」の合意

実は当初、テロシステムの一環として、ポーランド人を中心とした政治犯を収容する役割を果たしていたアウシュヴィッツ収容所でしたが、1942年のイベントを機に「ユダヤ人の絶滅」を目的とした施設の役割を担っていきました。

そのイベントは、「ユダヤ人の最終的解決(Final Solution)」と呼ばれています。

1942年、ヒトラーとナチス党の幹部が集まり、ヴァンセー会議(Vannsse Conference)が開かれました。

ヴァンセー会議では、それまで最優先事項ではなかった「欧州のユダヤ人を全滅させる」という「ユダヤ人の最終的解決」が採択・合意されました。

この出来事があって以降、本格的にユダヤ人への迫害が加速していき、アウシュヴィッツ収容所が必要とされるようになっていったのです。

この「ユダヤ人の最終的解決」の合意があったからこそ、既にあったユダヤ人差別が助長され、ほとんどのユダヤ人が各収容所へ送り込まれる事態にまで発展しました。

こうして、ユダヤ人絶滅のための施設として機能したアウシュヴィッツですが、やがて終わりを迎えます。

アウシュヴィッツのその後

ここでは、アウシュヴィッツのその後について見ていきましょう。

1945年にようやく解放される

1944年、ナチスドイツ軍の敗北が明らかになると、第二次世界大戦は収束に向かっていきました。この頃から、ナチス党はアウシュヴィッツで行われた残虐な行為の証拠を隠滅するために、施設の爆破や囚人の移送を開始します。

しかしその努力もむなしく、ナチスドイツ軍を破ってポーランドへ侵入してきたソ連軍が、1945年にアウシュヴィッツ収容所へ突入し、ようやく収容されていた人々が発見・解放されました。

アウシュヴィッツ収容所はその後、施設を一部改修するも当時の姿をほとんど残したまま博物館として保存されることになりました。

1947年、アウシュヴィッツ収容所が博物館として改修・オープンし、現在は国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館として運営されています。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館では、当時のまま残された遺品や施設が見学できるほか、保存資料をもとにした研究や元収容者との交流をもとにした啓発活動を行っています。

一部の施設は、すでにナチスドイツ軍によって爆破され、重大な資料・遺品の多くは焼き払われてしまいました。

しかし今でも、連行された人々から没収されたメガネや鞄のほか、2トン近くもある女性犠牲者の髪の毛といった遺品がそのまま展示されています。

筆者は実際に現地を訪れましたが、遺品やガス室を目の前にし、ごく一部の犠牲者でしかないとはいえ、膨大な人数の情報を眺めていると、こんなことが本当に起きていたなんて信じられない、という気持ちにさせられました。

同時に、二度と同じことを繰り返してはならない出来事だということを再認識させられる場所でもあります。

みなさんもぜひ、機会があれば国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れてみて下さい。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のHPはこちら

生き残った人について

アウシュヴィッツ収容所には、ユダヤ人を筆頭にほとんどのヨーロッパの国の人々が収容されました。

少なくとも、以下の国籍と人数がアウシュヴィッツに連行されたといわれています。

  • 110万人のユダヤ人(ナチスドイツ政権によって命を落としたユダヤ人は約600万人)
  • 7,000人のチェコ人
  • 6,000人のベラルーシ人
  • 4,000人のフランス人
  • 2,500人のドイツ人とオーストリア人
  • 1,500人のロシア人
  • 800人のスロベニア人
  • 600人のウクライナ人

そのうち、ソ連軍によって解放された収容者は、たったの7,000人でした。

ソ連軍の突入以前から、ホロコースト(※)の証拠を残すことを恐れたナチスドイツ軍が、アウシュヴィッツからの「移送」として、多くの収容者たちを徒歩で長距離を移動させるなど、最後までひどい扱いを行っていました。

そのため、生き残った人々の中には、引き続き生まれ育った土地での生活に不安を感じる人も少なくありませんでした。ホロコーストのような悲劇を体験したばかりの彼らにとって、また同じことが起きたらどうしよう、という恐怖が常にあったからです。

ユダヤ人の多くは、母国を逃れてイスラエルやアメリカなど、別の国へ移民として渡り、今も多くの子孫が同じ地で生活を続けています。

ホロコースト

ナチス政権をはじめ、ドイツが国ぐるみで行ったユダヤ人大量虐殺・迫害のこと。主に1941~44年の出来事を指す。

【関連記事】ホロコーストとは?なぜ起きたのか、どのように解決したのかをわかりやすく解説

アウシュヴィッツとSDGs

最後に、アウシュヴィッツとSDGsの関連性について確認しておきましょう。

国連によって2015年に採択された「SDGs(持続可能な開発目標:Sustinable Development Goals)」では、社会・経済・環境の3つを軸とし、17つの目標を定めています。

今回は中でもアウシュヴィッツとの関係が特に深い、SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」についてご紹介します。

SGDs16「平和と公正をすべての人に」

sdgs16

SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」では、性別や国籍に関係なく誰もが平和で公正な社会で暮らせるようにすることを掲げています。

アウシュヴィッツでは、ホロコーストと呼ばれる大量虐殺(ジェノサイド)や、非人道かつ差別的な行為が多く行われました。

どの行為も決して許されることではなく、二度と繰り返してはなりません。

また当事者でない場合でも、同じ地球に住む人間として声を上げ、差別・残虐な行為への加担や助長をやめるように呼びかけ、行動していく必要があります。

現在でも戦争や差別が絶えず起きているからこそ、わたしたちはアウシュヴィッツでの出来事を忘れることなく、平和と公正な社会づくりに向けて知識を蓄え、署名やデモといった連帯の行動に移していきましょう。

まとめ

今回は「アウシュヴィッツ(Auschwitz)」について、歴史的な背景や実際に行われていたことなどを幅広くご紹介しました。

ポーランドにある国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館には、さまざまな言語で書かれた慰霊碑が設置され、訪れた人々に収容所で起きたことを忘れないように呼びかけています。

現代に生きるわたしたちは、いち人間としてアウシュヴィッツで起きたことを学び、絶対に繰り返さないように社会を支えていく責任があるのです。

歴史から得た教訓を暮らしの中で活かし、平和で公正な世の中を一緒に歩んでいきましょう。

<参考リスト>
ホロコーストとは?なぜ起きたのか、どのように解決したのかをわかりやすく解説 – SDGsメディア『Spaceship Earth(スペースシップ・アース)』
アウシュビッツ・ビルケナウ アウシュビッツ・ビルケナウその歴史と今|MEMORIAL AND MUSEUM AUSCHWITZ-BIRKENAU
How the Holocaust happened in plain sight|National Geographic
Medical experiments / History / Auschwitz-Birkenau
New research provides theory on why women stopped menstruating upon arrival at Nazi death camps | University of Ottawa 
Menstruation and the Holocaust | History Today