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ベルリンの壁とは?歴史や崩壊の理由、現在の状況まで

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第二次世界大戦後、世界では分断が続き、アメリカ・西欧諸国とソ連の2大勢力に分かれていました。

冷戦とも言われるこの時代を象徴するのが、ベルリンの壁です。

当時、なぜベルリンの壁が建設され、崩壊していったのでしょうか。

この記事では、ベルリンの壁の建設前から崩壊後までの歴史を網羅し、壁の構造や現在の姿などについてもお伝えします。

ベルリンの壁とは

ベルリンの壁(the Berlin wall)とは、第二次世界大戦後から1989年まで存在した、ベルリンを中心としてドイツの東西を分断する壁を指します。

壁は東ドイツ側によって建設され、東西のドイツ市民の行き来を阻むものでした。

ベルリンの壁の歴史を知る前に、まずは壁の構造について簡単に見ていきましょう。

ベルリンの壁の構造

ベルリンの壁は、ただ1枚の壁のみで成り立っていたわけではありません。

下の図のように、いくつもの「壁」で構成され、これを乗り越えなければ、東西を移動することはできませんでした。

(ドイツ・ベルリン Checkpoint Charlieにて、筆者撮影)

左(西ベルリン)から右(東ベルリン)へ順に、以下のような構成が基本です。

  • 前部の境界壁もしくはフェンス
  • 対車両両塹壕(車両が通れないように設置されたバリケード)
  • 街灯(難民の労働力を利用して設置)
  • 300mごとに設置された、有人の監視塔
  • 監視官がパトロールする道路
  • センサー付きのフェンス(物が触れると作動)
  • 壁(人の動きを把握しやすいよう内側は白く塗装)
  • 車両などが通行できる専用道路(幅100メールほどの場合もあり)

各セクションとの間は数メートルから数十メートルに及び、徒歩で通過するのにも時間が必要なほど広い幅が設けられています。

そして、ベルリン市の内外には数か所のチェックポイント(検問所)が設けられ、それ以外の場所からは出入りできないようになっていました。

逃亡する人もいましたが、多くの人が監視官に見つかり、射殺されて命を落としていきました。

ベルリンの壁の歴史

ここからは、ベルリンの壁がどのようにでき、崩壊していったのかについて、歴史を見ながらご紹介します。

第二次世界大戦後、ドイツが4つの地域に分割

第二次世界大戦が終わると、ドイツは4つの地域に分割され、それぞれアメリカ、ソ連、イギリス、フランスが統治を行っていました。

ドイツの中でもベルリンは特殊で、市内がさらに4つの地域に分けられました。

このうち、ソ連が統治するエリアだけが「東ベルリン」と呼ばれ、残りの東ドイツと同様にドイツ民主共和国(GDR)として独立した形で、1949年から1990年10月まで存在しました。

(ドイツ・ベルリン Checkpoint Charlieにて、筆者撮影)

東ベルリンは東ドイツの首都として承認され、西ベルリンは実質、東ドイツに囲まれた形で存在していました。

そのため、自由を求めて多くの東ドイツ市民が、ベルリンの境界を越えて西ドイツへと逃れようとしたのです。

実際、1949年からベルリンの壁の建設が始まる1961年までの間に、250万人もの人々が政治や経済などの理由で、東から西ドイツへと逃れていきました。

ベルリンの境界閉鎖、壁の建設へ

ソ連がドイツ社会主義統一党(SED)によるベルリンの統治を承認すると、1961年8月13日の未明、西と東の境界を封鎖しました。

その後わずか数日で、東ドイツによる壁の建設が概ね完了したといいます。

ベルリンの壁は、長い年月をかけて少しずつアップデートされていき、最終形態が完成したのは1975年でした。

なお壁の建設は秘密裏に計画されていたものであり、1961年6月15日時点で、ドイツ社会主義統一党の党首は「壁を建設するつもりはない」とまで主張していました。

東と西の分断

こうして、ベルリンの壁の建設により、東ドイツ市民は西側への移動を禁止されてしまいます。

さらに2年後には、西側の市民も東ドイツへ行くことを禁じられ、東西間で家族や友人と離れ離れになってしまった人も沢山いました。

また、東ドイツと西ドイツが分断されていた28年間で、主に東から西側へ逃亡しようとした136人もの命が奪われました。

加えて48人もの旅行者が、西ドイツと東ドイツを移動する検問所で死亡したと報告されています。

ベルリンの壁での出来事を巡る東西の対立

1961年10月、アメリカ軍の隊員がベルリンの検問所を通って西ドイツへ入国しようとしたところ、東ドイツ側との衝突が発生しました。

この事件で、ソ連軍とアメリカ軍の戦車が検問所沿いに集合し、一晩中向き合って戦争勃発の寸前状態にまでなりました。

事態を受け、ソ連側のフルシチョフ党首とアメリカ側のケネディ大統領による外交的な解決により、冷戦の勃発は免れたものの、依然として東西の対立は収まりませんでした。

市民の死亡事件からデモの発生

1962年8月、18歳の東ドイツ市民ペーター・フェクターが、ベルリンの壁を乗り越えて西ドイツへ逃れようとしたところ、東ドイツの監視官に発見され銃撃を受けました。

青年は数発の銃撃を受けて重体になりましたが、東ドイツ側が一切の処置を行わなかったため、そのまま死亡してしまいます。

この出来事により、「市民の命をないがしろにした」と怒った西ドイツ市民検問所の周辺に殺到し、大規模なデモを行いました。

この際の怒りの声は、市民が死亡するまで放置した東ドイツ軍にのみではなく、救護を要請しなかったアメリカ軍にも向けられました。

このことから、当時のドイツ市民はソ連だけでなく、キューバなど他国への侵攻を目論むアメリカ側にも不満を持っていたことが伺えます。

ベルリンの壁建設以来、初の境界の規制緩和

1960年代に入ると、東ベルリン当局の外交官エゴン・バールは、ソ連の利益を直接脅かすことなく、東ベルリン市民への規制の緩和に踏み切りました。

東ドイツ当局と西ドイツ政府の交渉に寄り、西ドイツ政府が東ドイツの政治犯を購入する自由を有することに同意します。これによって、西ドイツが東ドイツで政治犯とされた市民を、お金を支払って購入し、東から西側へ引き渡せるようになりました。

また同時期には、西ドイツ市民が東ドイツ市民の親戚を訪問できる新ルールを発表します。ベルリンの壁が建設されて以来、はじめての通過協定が結ばれたことで、西側と東側のドイツ市民が10年以上ぶりに再会できるようになりました。

一方で、東ドイツ側は、東ベルリンから西へ逃れようとする「裏切り者」は引き続き射殺される権利があるとも主張しました。

1970年以降、自由化が進む

1970年代に入ると、2つのブロック間における、さまざまな交渉が行われるようになっていきました。

1971年には、ドイツを統治する4か国による協定が結ばれ、東と西ドイツの移動が大幅に改善されていきます。

この協定は、その後数年間にわたる、西ドイツと東ドイツの関係を改善する数々の交渉における基礎として、大変役に立つものでした。

東西間の自由化が徐々に進み、国際的にも両者の対立は薄れていったものの、依然としてベルリンの壁は残ったままでした。

1980年代、流れの変化が訪れる

1980年代初頭、ソ連軍によるアフガニスタン襲撃が東ドイツ市民の怒りを買い、町中でソ連軍を批判するデモが行われました。

東側のドイツ社会主義統一党は、暴動者を逮捕することでこの騒動を鎮圧しましたが、この出来事が東ドイツ市民の民主化運動をさらに加速させていきました。

一方、西ドイツではNATOやアメリカ軍の動きに対する抗議から、平和運動が行われていました。

西側での情勢を知った東ドイツのリーダーは、この動きを自らの利益に活用しようとしましたが、東西における人権や自由の解釈の違いから、合併の合意にまでは至りませんでした。

その後、ソ連や周辺国で自由化に向けた運動が盛んになると、1989年、東ドイツ付近のハンガリーで、はじめて西側と東側を隔てる鉄のカーテンに穴が開けられました。

ベルリンの壁が崩壊するまでとその後

これまでの歴史的な流れから、どのようにベルリンの壁の崩壊へと向かっていったのでしょうか。

ベルリンの壁崩壊と、その後の様子までを解説します。

ソ連の「ペレストロイカ」が生んだ、自由への圧力

1985年、ソ連の党首ゴルバチョフによって「ペレストロイカ」が発令されました。

ペレストロイカとは、経済や政治を立て直すために行われた改革で、情報の透明化や議会の民主化など、自由な政策が取り入れられていきました。

ソ連の国民が外国への移動を許されるようになったのも、この時期です。

ゴルバチョフによるソ連の政治の転換によって、東ドイツでも次第に自由化へのプレッシャーがかけられるようになり、それまでドイツ社会主義統一党のみが政権を握っていた東ドイツにも、野党が多数出現していきました。

東ドイツの混乱と自由化、壁の崩壊へ

1989年、ドイツ民主共和国が40周年を迎えて間もないタイミングで、社会統一党のトップであるエーリッヒ・ホーネッカーが党首の座を降ります。

同年11月9日、党は新たな通過規定を発表。東と西の往来の自由を条件付きで認めるルールを記者会見で明らかにしました。

この際、記者に「今回の規定はいつから有効ですか?」と問われた官房長官は、「私自身の情報によると、ただちに実行されます」と答えた有名な話は、当時の歴史を象徴する出来事として、今も語り継がれています。

この知らせを受けた東ドイツ市民たちは、次々に西ドイツへと移動を開始しました。

さらには、その日の夜中にベルリンの壁が市民の手によって破壊されました。

こうして、ベルリンの壁は1989年11月9日に崩壊したのです。

ベルリンの壁が崩壊した翌日、ゴルバチョフ書記長は、西ドイツ政府と西側諸国にサポートを求めました。コントロール不能になった事態の収拾に努めたのです。

そしてソ連として公式に、ベルリンの壁の崩壊は「新たなリーダーシップとその人々のために重要な出来事だ」と声明を発表しました。

東西ドイツの併合へ

さらにベルリンの壁崩壊の1か月後、ドイツ・ライプツィヒで、市民によって国防省が占拠される出来事が発生しました。

これまで独裁政治も同然だった、ドイツ社会主義統一党による統治への反対運動がますます勢いを増していき、自由な選挙による民主的な政治を後押ししていきます。

1990年3月18日、西ドイツ政府によって、戦後はじめて民主的な選挙が行われ、国会が成立します。そこで西ドイツと東ドイツの再統合に向けたルール作りと、東ドイツ当局との交渉が始まりました。

その後1990年5月5日には、ドイツの東西併合に向けた交渉が開始されました。国際的な視点から、2つのドイツ代表者に加え、第二次世界大戦後のドイツを統治してきたソ連、アメリカ、フランス、イギリスの4カ国による交渉が行われました。そして1994年9月、ベルリンから最後の軍隊が退去し、東西のドイツが併合されたのです。

ベルリンの壁の現在

約40年、東西ドイツを分断してきたベルリンの壁ですが、崩壊後はどうなっているのでしょうか。

実は世界中に散らばっている!

多くは壊されてしまったベルリンの壁ですが、1990年ドイツの企業Limexによって、世界中にベルリンの壁の断片が売却されました。

ドイツ国内でも、ハンマーを手にした市民によって破片が持ち帰られ、自宅などに保管している人もいます。

細かく粉砕された壁の破片は、新たな道路の舗装などに再利用されていますが、大きな破片は博物館などの土産店で、ブローチなどとして販売されているため、購入することも可能です。

ベルリン市内で見られる壁の跡

現在、残っているベルリンの壁は数十メートルのみですが、誰でも訪れることのできるポイントがベルリン市内に点在しています。

代表的なスポットのひとつ、イースト・サイド・ギャラリーは、1990年に出来たスポット。全長1.3kmもの壁に、世界21カ国・118人ものアーティストによるアート作品が描かれています。

有名な壁画としては、ロシア人アーティストによる作品で、当時のソ連のリーダー・ゴルバチョフと、東ドイツのリーダー・ホーネッカーが、ソ連時代の社会主義における格上の挨拶であるキスを交わす様子が描かれています。

(ドイツ・ベルリン イースト・サイド・ギャラリーにて 筆者撮影)

また別のポイントでは、壁自体は剥がされたものの鉄筋部分だけがむき出しのまま残っていたり、ベルリンの壁を渡ろうとして命を落とした人々の遺影を展示していたりと、当時の歴史を知られるようになっています。

ほかにも、壁の傍にあった見張り搭が複数残っているほか、ベルリン市内にいくつかあった検問所も残っています。中でも最も有名なのが、チェック・ポイント・チャーリーと呼ばれる場所です。

(筆者撮影)

チャーリー・チェック・ポイントの付近を始め、ベルリン市内にはベルリンの壁や東ドイツの歴史を伝える博物館が複数あり、訪れた人々に過去の歴史を語り続けています。

ベルリンの壁に関してよくある疑問

ここでは、ベルリンの壁に関してよくある疑問にお答えしていきます。

高さや長さは?

全長156㎞にもおよぶ壁が建設され、西ベルリンを包囲する形で作られました。

うち47㎞は、ベルリン市内を東西に分断していたといいます。

内部の壁は3.6mで、西側に最も近い壁のフェンスも3mほどでした。

ベルリンの壁に関する映画はある?

ベルリンの壁や当時のドイツを舞台とした映画はいくつかありますが、今回は2つの映画をご紹介します。

『グッバイ、レーニン!』(2003)

こちらの映画は、コメディがベースの映画なので、当時の歴史を知りながら楽しく観たい!という方におすすめです。

1900年代前半のソ連において強大な権力を有し、多くの人々の命を奪った独裁者として有名なレーニン。その時代の東ドイツを生き抜いた母クリスティアーネは、夫が西側へ亡命して以来、東ドイツへの愛国心を募らせます。

しかしある日、息子のアレックスが反体制デモに参加し、警察と衝突している姿にショックを受け、数か月もの間昏睡状態に陥ってしまいます。

奇跡的に目が醒めたときにはベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが併合されていました。医者からは、母が再度ショックを受けた場合、命が危ないと宣告されます。このことから、

アレックスは母に知られないように、社会の変化を隠し通そうとします。

全体はコメディ調ですが、青年が母のために奔走する姿やクライマックスには、感動的なシーンも含まれています。

『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2019)

もうひとつの映画は、1950~60年代の東ドイツにおける高校生たちの物語を描いた、『僕たちは希望という名の列車に乗った』です。

高校生の男子2人が、ある時西ベルリンの映画館でハンガリー動乱のニュースを目にし、クラスメイト達に呼びかけて2分間の黙とうを行います。

しかし、東ドイツにおいて黙とうは「反逆行為」ともいえる危険なもの。当局が乗り出した調査によって、高校生たちが首謀者を告発するよう選択を迫られていきます。

原作は当事件を経験した著者によるノンフィクションのため、ベルリンの壁建設直前の東ドイツにおける高校生たちのリアルな心情を体感できます。

ベルリンの壁とSDGs

最後に、ベルリンの壁とSDGs目標との関連性について確認しておきましょう。

ベルリンの壁は、東西のドイツに住む市民たちを分断するものであり、その地に生まれ育ったからという理由で不当に差別を受けたり、人権を損害されたりすることでもありました。

こうした歴史の反省を活かし、SDGs目標10「人や国の不平等をなくそうとの関連性がいえます。

人種や出身国に関わらず、すべての人が平等に生きる権利を持ち、平和で快適な暮らしが保障されるべきです。

また、過去の歴史の過ちを繰り返さないために、SDGs目標16「平和と公正をすべての人にでは、法によって平和と公正を保障することの重要さが掲げられています。

まとめ

今回は、ベルリンの壁について、建設までの歴史や崩壊後の様子など、幅広くご紹介しました。

筆者は実際にベルリンの壁を目の前にしてみて、高い壁に封じられた当時の人々の自由を想い、また民主的な社会を求めて壁の崩壊に尽力した市民の勇気に力づけられました。

皆さんも機会があれば是非、一度ベルリンの壁を観に行ってみて下さい。きっと、自由や平和への強い想いを感じられるはずです。

<参考リスト>
The Berlin Wall: History at a Glance | about.visitBerlin.de
Checkpoint Charlie – Berlin.de
Gedenkstätte Berliner Mauer
Berlin’s Interactive Museum | DDR Museum
ペレストロイカ | へ | 辞典 | 学研キッズネット
East Side Gallery in Berlin | visitBerlin.de
グッバイ、レーニン! | 東映ビデオオフィシャルサイト
映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」公式サイト » Introduction&Story