「自由を求めて紅茶を海に捨てた!」その衝撃的な事件は、今でもアメリカ独立の象徴として語り継がれています。舞台となったのは、マサチューセッツ州の州都ボストンです。当時、イギリスからの圧政に苦しむ植民地の人々は、紅茶への重税に我慢の限界を感じていました。
そしてついに1773年12月、インディアンに扮した市民たちが立ち上がります。彼らは港に停泊していた船に乗り込み、積み荷の紅茶を次々と海に投げ捨てたのです。この「ボストン茶会事件」を発端に、アメリカは強大な大英帝国に真っ向から戦いを挑みました。
そして、幾多の苦難を乗り越え、アメリカは独立を勝ち取ります。この勝利は、後の世界に大きな影響を与えました。
今回は、このアメリカ独立戦争の詳細や、現代のSDGsにも通じる革命の意義について、分かりやすく解説していきましょう。
アメリカ独立戦争とは?
アメリカ独立戦争とは、アメリカ大陸にあったイギリス植民地(13植民地)が本国に対して起こした戦いのことです*1)。独立戦争は、1775年のレキシントンの戦いから始まり、1781年のヨークタウンの戦いまで続きました。
1783年のパリ条約でイギリスからの独立が正式に決定し、1787年にアメリカ合衆国憲法が制定されました。さらに、1789年にワシントンが初代大統領に選ばれました。
13州の植民地がイギリスから独立
17世紀から18世紀にかけて、イギリスからの移民がアメリカ大陸の東側(大西洋岸)に13の植民地(13植民地)を作りました。各州には植民地議会が設けられ、自治が認められていましたが、課税をめぐる対立から、徐々に独立の機運が高まります*2)。
アメリカ独立戦争が起きた背景
アメリカ独立戦争が起こるまで、13植民地とイギリスは良好な関係を保ちながら成長してきました。当時の植民地住民の中には、イギリスからの独立を望まない人々も数多く存在していました。
しかし、イギリス本国が植民地に対して次々と新しい税金を課すようになると、植民地住民の間で不満が高まっていきました。このような対立関係が、やがてアメリカ独立戦争へとつながっていくことになったのです。
イギリスの財政難
18世紀中ごろ、イギリスは深刻な財政難に直面していました。これは、1756年から1763年にかけて起こった七年戦争が原因でした。
当時、イギリスとフランスは対立関係にあり、その争いはヨーロッパだけでなく、アメリカ大陸にまで及んでいました。この時のアメリカ大陸での戦いは「フレンチ=インディアン戦争」と呼ばれ、最終的にイギリスが勝利を収めました。
しかし、この長期に及ぶ戦争で莫大な軍事費用がかかり、戦後のイギリスは重い財政負担を背負うことになったのです*1)。
13植民地への課税強化
イギリスは植民地の経営と財政再建のため、13植民地に印紙法や砂糖法、タウンゼンド法などを適用して税収アップを図りました。
「代表なくして課税なし」
「代表なくして課税なし」は、アメリカ独立戦争につながる重要なスローガンとして知られています。
この言葉が生まれた背景には、イギリス本国による一方的な課税強化がありました。イギリスが1765年に印紙法を制定すると、植民地側は激しく抵抗しました。特に、13植民地の一つであるヴァージニア州議会では、パトリック=ヘンリが「代表なくして課税なし」という言葉で反対の声を上げました。
イギリス本国の議会に植民地の代表者がいないのに、勝手に税金を課すことは許されない*4)、という意味です。植民地の人々のこうした反対運動の結果、イギリスは多くの課税を取りやめることになり、一時的に植民地と本国の関係は改善に向かいました。
アメリカ独立戦争の流れ
アメリカ独立戦争は、開戦前の1773年のボストン茶会事件からヨークタウンの戦いまで続きました。はじめに、独立戦争の流れを確認します。
年代 | 出来事 |
1773年 | ボストン茶会事件 |
1774年 | 第1回大陸会議 |
1775年 | 「我に自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」の演説 |
同年 | レキシントン・コンコードの戦い |
1776年 | 『コモン=センス』の発刊 |
同年 | 独立宣言の発表 |
1777年 | サラトガの戦い |
1778年 | フランス参戦 |
1780年 | 武装中立同盟の結成 |
1781年 | ヨークタウンの戦い |
1783年 | パリ条約 |
1787年 | 合衆国憲法の批准 |
1789年 | ワシントンがアメリカ初代大統領に就任 |
それぞれの内容について、詳しく見てみましょう。
ボストン茶会事件
1773年、ボストン港で衝撃的な事件が起こりました。 イギリス本国が「茶条例」という法律を作り、アメリカ植民地の人々に不利な茶の取引を強いたことに対し、怒った植民地の人々が立ち上がったのです。
彼らは、イギリス東インド会社の船がボストン港に入港すると、船に乗り込み、積荷の茶をすべて海中に投げ捨ててしまいました。これが「ボストン茶会事件」です*。
この事件は、イギリスとアメリカ植民地の関係を決定的に悪化させる出来事となり、ついには独立戦争へと突入していくことになります。
第1回大陸会議
イギリスによる重税政策に反発したボストン茶会事件の後、アメリカの13植民地は共同で対抗策を検討することになりました。そのため、1774年9月に各州の代表が集まって第1回大陸会議を開きました。この会議では、イギリス本国政府に対して抗議の意思を示すとともに、イギリスから輸入される製品の不買運動を行うことを決めました*6)。
「われに自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」の演説
1775年、「代表なくして課税なし」と主張した独立派のパトリック=ヘンリは、ヴァージニア州議会で「われに自由を与えよ、しからずんば死を」という激しい言葉で、イギリスの支配からの自由を強く求めました*7)。
彼は植民地とイギリスの間には、もはや話し合いで解決できるような状況ではなく、武力衝突は避けられないと確信していました。彼の演説は、植民地の人々の心に火を灯し、独立戦争への道を切り開く原動力となりました。
開戦とワシントンの総司令官就任
1775年4月19日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで独立を求める人々とイギリス軍が衝突し、これがきっかけとなり、独立戦争が始まりました*8)。 戦火が広がる中、同年5月には大陸会議が開催され、ジョージ・ワシントンがアメリカ軍の司令官に任命されます。
こうして独立戦争は本格化していきました。 ワシントン率いるアメリカ軍はゲリラ戦で戦火を上げますが、体勢を立て直したイギリス軍により、次第に劣勢となってしまいます。
『コモン=センス』の発表
13の植民地は、一枚岩のように団結していたわけではありませんでした。イギリスからの独立を強く望む「独立派」だけでなく、本国との和解を望む「王党派」、そしてどちらにも属さない「中立派」も存在していました。巨大な敵であるイギリスに打ち勝つには、植民地の人々が一つになることが不可欠でした。
その中で、トマス=ペインは『コモン=センス』という本を出版しました。この本のタイトルは「常識」という意味で、ペインはイギリスからの独立こそが当然の選択だと主張しました。
『コモン=センス』は爆発的な人気を集め、発売からわずか3ヶ月で12万部、その後さらに売り上げを伸ばして最終的には50万部を記録しました。当時の13植民地の人口が約300万人だったことを考えると、実に6人に1人がこの本を手に取ったことになります*9)。
『独立宣言』の採択
1776年7月、大陸会議は『アメリカ独立宣言』を採択します。起草したのはジェファソンでアダムズ、フランクリンらが修正しました。彼らの中には後に大統領となった人物もいました。主な内容は以下の通りです。
- すべての人々は基本的人権を持っている
- 基本的人権を侵害する政府を革命で倒す権利を持っている(革命権)
- イギリス王の暴政やイギリス本国政府に対する非難
- 独立の宣言
*10)
基本的人権の中には、生命、自由、幸福を追求する権利が含まれており、のちのフランス人権宣言にも影響を与えています。
戦局の転換
アメリカ独立戦争初期、アメリカ軍は苦戦を強いられていました。イギリス軍はフィラデルフィアを含む要所を次々と占領し、大陸会議は開催場所を転々とせざるを得ない状況でした。 ヨーロッパからの支援も、フランスのラファイエット将軍のように個人的な義勇軍に頼るのみで、組織的な支援は得られず、劣勢は否めませんでした。
しかし、1777年のサラトガの戦いで転機が訪れます。アメリカ軍はイギリス軍に勝利を収め、その後の戦況を大きく変えていくことになりました。
諸外国の干渉とイギリスの孤立
1778年2月、フランスはイギリスとの植民地問題での対立を背景に、イギリスへ宣戦布告しました。これに続いて翌1779年には、スペインもイギリスに戦いを仕掛けることを宣言します。
さらに1780年になると、オランダまでもがイギリスに対して戦争を始めることを表明しました。同じ頃、ロシアの女帝エカチェリーナ2世は武装中立同盟を提唱し、イギリスは国際社会で孤立する状況に追い込まれていきました。
独立戦争の勝利
1781年10月、アメリカ軍はフランス軍と共同でイギリス軍を南部に追い詰めます。そして、ヨークタウンでイギリス軍が降伏したことで、事実上独立戦争が終結しました。2年後の1783年9月、パリ条約が結ばれ、正式にアメリカの独立が認められました*1)。
アメリカ独立戦争のその後
アメリカ独立戦争後、アメリカは国内対立やイギリスとの2度目の戦争である米英戦争を経験します。それぞれについて解説します。
独立後の国内対立
独立後、アメリカでは2つのグループが対立しました。
- 連邦派:国を代表する連邦政府が強い権限を持つべき
- 反連邦派:各州の自治や権利を優先するべき
両者は激しい議論を交わし、すべての州が合衆国憲法に賛成するまで2年を要しました。
米英戦争
1812〜1814年、アメリカはイギリスと2度目の戦争状態に入りました。原因はイギリスによる海上封鎖にアメリカが抗議したからです。戦いはイギリス優位に進みましたが、ナポレオン戦争で疲弊していたイギリスは、引き分けでの講和に応じました。
アメリカ独立戦争が日本に与えた影響
アメリカ独立戦争が起きたころ、日本は江戸時代で、老中であった田沼意次の時代でした。このころ、日本にとって重要な問題だったのは遠いアメリカよりも、日本近海に姿を現し始めていたロシアでした。そのため、日本はアメリカ独立戦争の影響をほとんど受けなかったのです。
しかし、明治時代になるとヨーロッパの思想が本格的に日本に流入します。その際に、アメリカ独立宣言や、それに影響を受けたフランス人権宣言などが日本の知識人に大きな影響を与えたのです。
明治時代の知識人に影響を与えた
明治時代の思想家である植木枝盛は、民間で作った憲法草案の「東洋大日本国国権按」で、アメリカ独立宣言で主張された基本的人権や革命権を盛り込んでいます*13)。
また、同じく明治時代の思想家であった福沢諭吉は『西洋事情』で、自ら翻訳したアメリカ独立宣言を掲載しています*14)。こうして、アメリカ独立宣言の考え方は、明治時代の自由民権運動にも大きな影響を与えていったのです。
アメリカ独立戦争とSDGs
アメリカ独立戦争は、SDGsとどのような関係があるのでしょうか。ここでは、SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わりを紹介します。
SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり
SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」では、国家間の不平等や国内の不平等をなくすことを目指しています*15)。
アメリカ独立戦争は、イギリスからの独立を求める戦いでしたが、その根底には、本国と植民地との不平等を解消したいという強い願いがありました。「代表なくして課税なし」という言葉は、植民地の人々が、自分たちの意見を反映しないまま課税されることに対する怒りを象徴しており、本国と対等な立場を求める叫びでした。
つまり、独立戦争は、植民地の人々が自分たちの未来を自分たちで決める権利、すなわち政治的な決定権を求めた運動と言えます。
しかし、この独立によって平等を勝ち取ったのは、あくまで13植民地の白人だけでした。先住民族や、その後アメリカに連れてこられた黒人奴隷たちは、依然として不平等な扱いを受け続けました。真の平等の実現には、まだ長い道のりを歩む必要があったのです。
>>SDGsに関する詳しい記事はこちらから
まとめ
今回はアメリカ独立戦争について解説しました。イギリスの財政難を背景とした植民地への課税強化が、アメリカ独立戦争の主な原因となりました。1775年のレキシントンの戦いから始まった戦争は、フランスなど諸外国の支援を受けて、1781年のヨークタウンの戦いでアメリカ側の勝利に終わりました。
1783年のパリ条約でアメリカの独立が正式に認められ、1787年に合衆国憲法が制定され、1789年にワシントンが初代大統領に就任しました。この独立戦争は、後の世界各地の独立運動にも大きな影響を与えることとなりました。
参考
*1)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「アメリカ独立戦争」
*2)山川 世界史小辞典 改定新版「13植民地」
*3)山川 世界史小辞典 改定新版「タウンゼンド法」
*4)旺文社世界史事典 三訂版「代表なくして課税なし」
*5)デジタル大辞泉「ボストン茶会事件」
*6)改定新版 世界大百科事典「大陸会議」
*7)旺文社世界史事典 三訂版「われに自由を与えよ、しからずんば死を」
*8)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「レキシントン・コンコードの戦い」
*9)日本大百科全書(ニッポニカ)「コモン・センス」
*10)山川 世界史小辞典 改定新版「アメリカ独立宣言」
*11)旺文社世界史事典 三訂版「武装中立同盟」
*12)山川 世界史小辞典 改定新版「アメリカーイギリス戦争」
*13)旺文社 日本史事典 三訂版「東洋大日本国国権按」
*14)国立国会図書館サーチ「ベストセラーになった翻訳書」
*15)スペースシップアース「SDGs10「人や国の不平等をなくそう」の問題や解決策を徹底解説」