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ホロコーストとは?なぜ起きたのか、どのように解決したのかをわかりやすく解説

ホロコースト

みなさんは日々の暮らしの中で、人種による差別や命の危機を感じたことはあるでしょうか。きっとほとんどの人が「ない」と答えるでしょう。

しかし過去には、たまたまある特定の人種や属性であったために、命を落とした人たちがたくさんいました。中でも人類史において最も大規模な虐待・虐殺が行われたのが「ホロコースト」です。

この記事では、ホロコーストの流れやポイントについて、詳しく解説しています。人権問題や、日々の暮らしと政治の関係にあまりピンとこない人、歴史に詳しくない人でも、一度ホロコーストの事実について見直せば、犯した過ちの反省が今の司法・社会のルールづくりへ活かされていることに気づくでしょう。

国際社会の常識であるホロコーストについて学び、すこし平和について考えてみませんか?

ホロコーストとは

ホロコースト(Holocaust)とは、1930~40年代にかけて、ナチスドイツ政権およびドイツ国内外の市民が行った、国ぐるみの組織的な大量虐殺・迫害のことです。

狭義では、特にその動きが加速した1941~44年の間に及ぶ虐殺や強制労働を指します。

独裁政権の下で、主にユダヤ人を対象とした残虐な行為の数々が記録されています。

ナチス政権によって虐殺されたユダヤ人は600万人を超えるといわれていますが、ほかにも約500万人の旧ソ連捕虜軍や、少数ながらポーランド人を筆頭とするスラブ系民族、遊牧民族のロマ(ジプシー)、宗教・エホバの証人の信者なども被害者に含まれます。

こうした事実から、ヘブライ語で「大惨事」を意味する「ショーア」と呼ばれることもあります。

首謀者について

ホロコーストの首謀者は、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)率いるナチス(ナチ)ドイツ政権です。

党の指導者だったヒトラーは、現在のオーストリア北部の町に生まれ、若いころは画家として放浪していた時期もありました。その後、第一次世界大戦の影響で軍隊に入り、1919年にはバイエルン軍事政権の情報部に所属します。

バイエルン軍事政権の指導教官となったヒトラーは、1919年10月、ナチ党の前身政党に入党しました。

その後、1921年にはナチス政党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首にまで昇りつめ、過激な人種差別論を含む演説を繰り返していきます。それでも当時の有権者や周囲の政治関係者によって評価され、徐々に国民からも人気を集めるようになりました。

というのも、第一次世界大戦後のドイツでは、ヴェルサイユ条約によって取り決められた損害賠償の返済が国民に重くのしかかり、さらに経済・政治的な面においても悲惨な状況にありました。

そうした状況の中、ヒトラーは「ドイツをこのような悲劇に陥れたのはユダヤ人のせいだ」と主張し続けてきました。そして「我々は戦前のドイツを再建する」とし、当時のドイツ国民の支持を集めていったのです。

1932年、ヒトラー率いるナチス政党が選挙の結果によりドイツ最大の政党となりました。ここで首相となったヒトラーですが、国民選挙によって大統領へ選出されたわけではありません。

ヒトラーが首相になった翌年、当時の大統領が死去したことで、ヒトラーが実質ドイツ国のトップとなりました。こうしてヒトラー率いるナチス党がすべての権力を手に入れ、独裁政権が始まったのです。

ジェノサイドとの違い

ジェノサイドは大まかに言えば、特定の集団(国民・民族・人種・宗教など)の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為を指します。

ジェノサイドとは、第二次世界大戦中の1944年にユダヤ系ポーランド人法学者ラファエル・レムキンによって生み出された合成語です。

彼がこの言葉を生み出したのは、ナチスドイツがユダヤ人を大量虐殺する「ホロコースト」を引き起こしたからでした。

ホロコーストのような悲惨なことを二度と繰り返さないため、ジェノサイド禁止条約が結ばれたといわれています。

ホロコーストはなぜ起こったのか?歴史を踏まえて説明

ホロコーストの首謀者であるナチス政権について学んだところで、次では時系列ごとにホロコーストが起こった経緯を説明していきます。

ホロコーストのはじまり:ナチス政権の誕生と第二次世界大戦の開始

ホロコーストの最初のきっかけは、ヒトラー率いるナチス政権の誕生に始まります。

1933年にヒトラーが政権を握るとすぐに、ユダヤ人への差別的な法律が次々に施行されました。

ドイツ国内でのあらゆる公共サービスから切り離し、生活を不便にさせただけでなく、ユダヤ人以外との結婚の禁止や、ドイツの市民権はく奪といった、普段の暮らしを害するようなルールまで制定したのです。

そして1939年、ナチス政権の主導するドイツ軍がポーランドを侵攻、占領しました。この時からホロコーストの悲劇が始まったといわれています。

1941年、旧ソ連領への侵攻をきっかけに、ドイツ周辺だけでなくバルト三国など東欧の国々にも、強制居住地区や収容所といったユダヤ人を追い込むための施設を建てるようになりました。

この頃には、差別の対象がユダヤ人のみならず、ポーランドやスロヴァキアのようなスラヴ系の民族、旧ソ連捕虜軍などにも広がっていました。東欧に配置されたナチスドイツ軍による無差別な虐殺で、1945年までにおよそ200万人もの人々が命を落としたとされています。

「ユダヤ人の最終的解決」

これまでの反ユダヤ人思想に基づいた政策は、ナチス政権のベースではあったものの優先事項ではありませんでした。

そこでナチス政権の閣僚たちは、1942年に開かれたヴァンセー会議(Vannsse Conference)にて、それまで最優先事項として扱われなかった「ユダヤ人の最終的解決(Final Solution)」を確認し、本格的な実行へと段階を進めることになりました。

この「ユダヤ人の最終的解決」の合意があった1941年から終戦直前の1944年ごろまで、本格的な虐殺と強制労働が加速しました。

特にこの期間において行われた、国ぐるみの大量虐殺が「ホロコースト」と呼ばれます。

なぜナチスはユダヤ人を狙ったのか?

1933年1月、ドイツでナチス政権が誕生して以来動き始めたホロコーストですが、ナチス政権が持っていた反ユダヤ人思想は、ドイツ人の優生思想の考え方から来ています。

しかしそもそも、なぜナチスはユダヤ人を狙ったのでしょうか?

ヨーロッパにおけるユダヤ人差別の歴史を紐解くと、第二次世界大戦以前にもユダヤ人への迫害は欧州において何度も発生しています。

特に宗教的な観点から見ると、初期キリスト教において「イエスの死はユダヤ人に責任がある」とされ、古代からユダヤ人は迫害の対象となっていました。そのため、キリスト教圏の中心地であった西欧では、ユダヤ人は社会から隔離されていたのです。

中世の頃には既にユダヤ人は欧州に広く住んでいました。中でも一時ヨーロッパで勢力を拡大したリトアニア(のちのポーランド=リトアニア共和国)では、ユダヤ人を含むさまざまな民族が暮らしていました。

この頃のユダヤ人は、商人の役割を引き受けることが多くありました。ユダヤ人がこうした職種に多く就いていたのは、当時からすでに職業選択の自由がなかったからですが、それでも欧州において経済的に大きく貢献していたのは事実です。

こうした歴史から、欧州にはユダヤ人差別の思想が深く根付いており、ドイツや周辺国に住むユダヤ人たちは不当な差別を受け続けてきました。

その中で、ナチス政権の中枢を担う人物たちや、政党を支持する人々にとっての基盤は「反ユダヤ人思想」でした。彼らはドイツ人を優秀な民族とし、「ドイツ人の居住地・支配地域を増やすためにユダヤ人の排除が欠かせない」としたのです。

このように、ナチス政権は反ユダヤ人思想によって強く結束しており、ホロコーストを引き起こすまでの力を蓄えていきました。

ヒトラーが反ユダヤ人思想になったわけ

ナチス政権の指導者であったヒトラーがいつから反ユダヤ人思想を持ち始めたのかは、定かではありません。しかし若いころに絵描きとして活動していた時代があり、その頃に反ユダヤ人思想の影響を受けたと、多くの歴史研究者は推測しています。

またヒトラーが政治家を志す際、ドイツで既に活躍していた政治家たちが持っていた反ユダヤ思想を参考にしたともいわれています。

たとえばナチス党が政権を握った時、ウィーン市長で反ユダヤ人主義者のカール・ルエーガーが行ったように、反ユダヤ人思想と社会主義を掲げて多くの支持者を集めました。

力強いイメージと簡潔なメッセージで、当時のドイツ政府に不満を持っていた人々や、何か変化を起こしたいと願っていた若者を、次々に取り込んでいったのです。

このようにヒトラーは、若いころから既に反ユダヤ人思想に触れており、当時ドイツをはじめとする欧州では多く見受けられた差別主義者のうちの一人であったことが伺えます。

ヒトラーは政権を握ると、即座にユダヤ人への迫害を開始しました。その中でホロコーストに発展した大きな出来事のひとつが「ゲットーと収容所の建設」です。

次では、「ゲットーと収容所とは何か?」や、それぞれがホロコーストにおいてどのような役割を果たしたのかを見ていきましょう。

ゲットーとアウシュヴィッツ収容所

(アウシュヴィッツ収容所の外観:筆者撮影)

ナチス政権が力を持ち始めるとすぐに、ユダヤ人たちはゲットーと呼ばれる場所に押し込められました。そして、そこから更に強制労働所や収容所へと送られていきました。

ここでは、ゲットーと収容所について、詳しく説明していきます。

ゲットーとは

ゲットー(Getto)とは、ユダヤ人を強制的に住まわせた居住区です。最初はドイツ国内に作られましたが、他国柄の信仰が拡大するとともに、ポーランドやバルト三国・東欧の国々などにもゲットーが作られていきました。

ゲットーには多くの人々が住んでいたためスペースが狭く、食料や衣料へのアクセスが限られ、強制労働をさせられるといった劣悪な環境に置かれることとなりました。そのため、多くの人々は不衛生な環境による感染症や病気・飢餓によって命を落としています。

また、ゲットーでは過酷な強制労働はもちろん、訓練されたナチスドイツ軍・アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)によって銃殺が行われました。第二次世界大戦中、「銃弾によるホロコースト」ともいえるこの銃殺によって命を落としたユダヤ人は、約5,000人と伝えられています。

ホロコースト終盤に近付くと、いくつかのゲットーではユダヤ人の送還が完了したために「解体」と呼ばれる措置が行われ、閉鎖されました。この事実からも、それほど多くの命が奪われたことが窺えます。

ゲットーの中で誇りを保とうとしたユダヤ人たちの生活

ホロコースト時代、ゲットーに強制居住させられたユダヤ人たちは、自分たちの人権や尊厳を保とうと、さまざまな努力をしました。教育や文化に力をいれ、芸術作品の制作・子どもたちのための学校の運営などを行っています。

それでも、多くの子どもたちをはじめ妊婦や老人・病人は収容所送りにされ、若者はほとんどが強制労働に従事させられていたため、こうした活動の存続は常に困難な状況にあったといいます。

アウシュヴィッツ収容所について

ゲットーに集められたユダヤ人は、ドイツ国内外に点在する各地の収容所および強制労働所へと送られました。

中でもよく知られる場所が、絶滅収容所のひとつである「アウシュヴィッツ収容所」です。

ナチス政権の時代、はじめてユダヤ人収容所が建設されたのは1933年で、ドイツ・ミュンヘン付近のDachauという町に建てられました。

その後1941年になると、ポーランドに5つの絶滅収容所(Extermination campsおよびDeath camps)と呼ばれる、大規模虐殺を行うための施設が作られました。窓もトイレもない列車によって移送されたユダヤ人の多くは、これらの絶滅収容所で殺害されました。

移送の際、ナチスドイツ軍は彼らの意図を隠すため「再定住行為」「避難移送」と呼び、何も知らないユダヤ人を絶滅収容所へと送り込んだのです。

その中の1つであるアウシュヴィッツ(ビルケナウ)収容所は、ポーランド南西部の町・ビルケナウに位置する最大規模の絶滅収容所として知られています。もともと兵舎だった場所を、1940年から巨大なユダヤ人収容施設として利用しはじめました。

入り口に「Arbeit Macht Frei(ドイツ語で「労働はあなたを自由にする」の意)」と掲げられた収容所には、今も多数の遺品や証拠が残されており、いかに無残な行為が行われていたかを物語っています。

(アウシュヴィッツ収容所の入口:筆者撮影)

1941年から本格的な稼働が開始し、およそ数か月後には隣接した場所に大規模なガス室を増設しました。

大量虐殺が集中して行われたアウシュヴィッツ収容所では、約110万人が命を落としたといわれていますが、そのうち100万人がユダヤ人でした。

その他、75,000人のポーランド人、 15,000人の旧ソ連捕虜軍、 25,000人のロマ・ジプシー、また同性愛者や宗教・エホバの証人の信者なども、アウシュヴィッツ収容所へ送られ命を落としていきました。

収容所で何が行われたのか?

収容所では、主に強制労働人体実験のほか、アウシュヴィッツ収容所のような大規模な施設では毒ガスを使った大量虐殺などが行われていました。

強制労働

ゲットーや収容所に集められたユダヤ人のうち、働き手になりそうな男性や若い女性は、施設の到着後すぐに強制労働に参加させられました。

ほとんどはドイツが戦争に使用する兵器や食料品などを生産させられ、工房の中で長時間働かされていました。多くのゲットーや収容所は、国営企業やホロコーストに加担する私営企業の工場が隣接されていました。

また収容所で、ドイツ軍によって健康かつ強靭だと判断された場合には、一部のユダヤ人がホロコーストに加担させられることもありました。殺戮作業の手伝いのほか、遺品の整理・遺体のガス室からの撤去作業など、心理的なダメージを伴うものばかりでした。

収容所の中には、わざと長い階段を作り、重い石などを運ぶ労働者を虐げるような設備もあったといいます。

こうして収容者は過酷な労働によって体力を削られていき、最後には力尽きて命を落としていきました。

人体実験

他にもナチスドイツ軍は、ドイツ国内の大学や医療機関と連携し、収容者に対して数々の医療実験を行っていました。

放射線を大量に照射して被ばくさせたり、被験者の同意なく臓器を取り出したりと、悲惨な実験が行なわれていたと伝えられています。

通常の人体実験では考えられないような残酷なものが目立ち、「医療行為」を通して多数の殺害を行なったといえます。

収容者の多くは男性でしたが、女性もまた、不妊治療や妊娠時の中絶・出産後の授乳に関する研究といった名目で、人体実験へ強制的に参加させられる人々がいました。

虐殺

収容所では虐殺も行われていました。

専用の列車に揺られて収容所に着いたユダヤ人は、まず性別や年齢によって選別され、労働力になるかどうかを判断されます。多くの老人や子ども・妊婦はこの時点で「使えない」と判断され、収容者番号を割り振られることもないまま、すぐガス室送りにされました。

(アウシュヴィッツ収容所のガス室:筆者撮影)

所有物や衣服をすべて没収された後、「消毒のため」シャワーを浴びるようにと指示された人々は、莫大な広さのコンクリートの箱の中に詰め込まれます。そこにあるシャワー口のような器具からは、水ではなく「Zyklon B」と呼ばれる有毒ガスが噴出されました。そして、ユダヤ人たちは何も分からないまま命を絶たれる運命にあったのです。

なお、ここに置いていったユダヤ人たちの私物のうち、金属製の歯の詰め物や金品・髪の毛などはナチス軍によって盗まれました。

このガスによる殺害方法は、それまで銃殺で行っていたユダヤ人の処分方法を、より効率よく、実行する側のナチスドイツ軍の負担を減らすために考案されました。

1939年、ポーランドを占領した際に囚われた、精神疾患を持つポーランド人を対象に、ガス室での殺害実験が行われ成功したため、大規模なガス室をアウシュヴィッツに建設したのです。

ホロコーストにおけるユダヤ人女性の存在

(あるユダヤ人家族が実際に隠居していた屋根裏スペース(再現) at Holocaust exposition in Vilnius, Lithuania:筆者撮影)

ホロコーストでは多くのユダヤ人の命が犠牲になりましたが、歴史学者の多くは「ユダヤ人の中でも男性と女性で異なる経験をしている」と指摘しています。

伝統的なユダヤ人コミュニティの中では、男性と女性の役割がはっきりと分かれていました。男性は経済面で家族を支え、女性は家事や育児によって家族のケアをしていました。

当時、ユダヤ人の女性は男性に比べて高等教育の機会を受ける割合が少なく、ユダヤ人コミュニティ以外の人間関係がほとんどありませんでした。そのため、ホロコーストが始まった時、身近に助けてくれる存在がなかったのです。

またホロコーストが始まった初期において、ユダヤの人々の間でまず「捕虜になるリスクが高い」とされたのは男性でした。強制労働などに連れていかれることが懸念され、女性よりも積極的に隠居や避難が行われたのです。

そうした状況があり、ユダヤ人女性たちは家族やコミュニティの筆頭として、ゲットー内で家族や周りの男性たちをケアする存在として活躍しました。

しかしナチスドイツ軍は、町やゲットー内で捕えたユダヤ人女性に、自分の下着で道を掃除するように命令したり、セクシャルハラスメントに当たる行為を強要したりと、様々な差別をしていました。

男性の多くは労働力として収容所送りにされていましたが、女性たちもまた過酷な生活を強いられていたのです。

収容所に入れられた女性に対しても、同様の行為が横行していました。

一方、ポーランドに住むユダヤ人女性は、1930年代ごろから文化の変化を受け入れる人々が増えていきました。彼女たちの子ども、特に女児は積極的にポーランドの学校でポーランド語を学び、ビジネススキルを身に着けたのです。

このような女性たちの中には、ホロコースト中でも周りの協力を得てゲットーの外へ避難することができたり、衣服や食糧を交換してもらえたりするケースもあったと言います。

しかし一度つかまれば多くの場合、ナチスドイツ政権の目指す「ユダヤ人全体の絶滅」に沿って、移送先の収容所で男性よりも先に虐殺の対象となってしまいました。

ユダヤ人を助けた人々

ユダヤ人狩りに協力した地元の人々がいた一方で、人情や正義感からユダヤ人の救出・食料などの調達に尽力した人々もいました。

見つかれば自らも処罰・殺害されるリスクを背負いながらも、近くに住む人々が協力しあって、収容所まで食べ物を届けたり、ユダヤ人たちを自宅にかくまったりと、さまざまな形での救済が行われていたのです。

また、ある程度の権力を持つ立場の人々の中には、ビザの発給という形でユダヤ人の命を救った人物も存在しました。最も有名な人物のひとりとして、杉原千畝(すぎはら ちうね)が挙げられます。

(元・在カウナス日本領事館を改装した杉原千畝記念館。書斎の右側写真立てに杉原千畝:筆者撮影)

リトアニアの都市カウナスに駐在し、外交官として活躍していた杉原は、リトアニアから安全な国外への脱出を試みる大勢のユダヤ人たちが、日本領事館の前で懇願する姿を目の当たりにし、当時の日本政府の指示に背いてビザの発給を開始しました。

戦争への加担ではなく人道的な救済を選んだ杉原は、自らがリトアニア国外へ避難する直前までビザを発給し続け、約6,000人ものユダヤ人を救ったといわれています。

ホロコーストの終わり

1944年の終わりごろになるとドイツの敗北が確実になり、1945年には第二次世界大戦が終焉を迎えました。

時代の背景を合わせて、ホロコーストがどのように終わったのかを見ていきましょう。

第二次世界大戦の終焉

1944年、旧ソ連軍が西側への勢力を取り戻し、ドイツ側の敗北が濃厚になると、ナチスドイツ政権はホロコーストの証拠隠滅に精を出し始めました。

書類・証拠品の償却や施設の爆破、残ったユダヤ人の徒歩移動などが行われるも、完全に消し去ることはできず、1945年にはポーランドへ侵攻したソ連の軍隊によってアウシュヴィッツ収容所と生き残った数千人の収容者が発見されました。

ホロコーストは誰の責任になったのか

国ぐるみでの大量虐殺が行われたホロコーストには、実際は非常に多くの人が関わっています。

まず第一に、ホロコーストの実行を承認した指導者であるアドルフ・ヒトラーが挙げられます。しかし彼は1945年に行方不明となっており、真相も分からないままです。

次に挙げられるのは、ヒトラーと同じナチ党に属し、数々の政策を実行した閣僚・中枢の人物たちです。

具体的には、国家元帥を務めたヘルマン・ゲーリング、国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒといった人物たちです。

彼らのほとんどは、戦後最も大きな国際軍事裁判といわれる1945~6年のニュルンベルク裁判にて、死刑または終身刑に処されました。

ほかにも、ナチスドイツ政権と連携・協力体制を取った医療機関や企業、それ以外にユダヤ人の差別に加担したドイツ国内外の一般市民など、挙げればきりのないほど多くの人々がホロコーストに参加しました。

一部の犯罪者は裁判によって有罪となり処罰されましたが、裁かれないまま普通の生活に戻っていった人たちもたくさんいます。

一方、生き残ったユダヤ人には居場所がなかったため、大半はイスラエルやアメリカなど、ほかの国へ移民として渡っていきました。欧州に残ったユダヤ人の中には、また迫害のリスクがあるのではないかと恐れ、難民キャンプでの生活を選ぶ人もいたといわれています。

ホロコーストが遺した傷跡は深く、今もユダヤ人たちの心に刻まれたままとなっています。

ホロコーストとSDGs目標16「平和と公正をすべての人に」と関連

最後に、ホロコーストとSDGsの関係について確認しておきましょう。

2015年、国連によって採択されたSDGs(持続可能な開発目標)は、すべての国や地域で取り組まれるべきゴールが17つ制定されています。

今回は特に、平和な世界の実現を掲げる目標16「平和と公正をすべての人に」とのかかわりを紹介します。

SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」では、誰もが司法にアクセスできる状態をつくり、平和な世界に向けた取り組みを促進することを呼びかけています。

ホロコーストは人類史の中で最も残虐な出来事であり、二度と繰り返してはなりません。

未だにホロコーストがあったこと自体を否定する声もありますが、まずは「ホロコーストとは何か、どんなことが起こったのか」を学ぶことが大切です。

そのうえで「歴史の事実を基に、わたしたちが平和な世界に向けて出来ることは何か」を考え、みんなで話し合い、誰もが差別なく生きやすい世界の構築を模索する必要があるでしょう。

まとめ

今回は「ホロコースト」について、歴史の流れや重要なポイントを踏まえながら説明しました。

国際社会では、ホロコーストのような残虐行為はもちろん、ホロコーストの発生要因となる差別思想や独裁政権といった非民主的な社会を繰り返さないよう反省し、政府や各国の首脳が平和な道に向けたルールづくりを模索・構築しています。

またホロコースト自体、政治家だけでなく実際には多くの一般市民が、意識的あるいは無意識的に差別行為へ加担したことで、大規模な残虐行為に発展してしまったことが原因であると、わたしたち個人も認識する必要があります。

過去の歴史を振り返り、いち市民であるわたしたちが「平和や自由は司法の下に成り立っている」「政治と暮らしは繋がっている」ことを意識し、周りの出来事に関心を向けながら毎日を過ごすことが大切なのではないでしょうか。

参考リスト
The Holocaust | The National WWII Museum | New Orleans
ホロコーストについて | ホロコースト百科事典
How the Holocaust happened in plain sight|National Geographic
Auschwitz: How death camp became centre of Nazi Holocaust – BBC News
Why did Hitler hate the Jews? | Anne Frank House
アウシュビッツ・ビルケナウ アウシュビッツ・ビルケナウ その歴史と今|Auschwitz-Birkenau State Museum
Medical experiments / History / Auschwitz-Birkenau
Women in the Holocaust | Jewish Women’s Archive
杉原千畝とは – 【NPO 杉原千畝命のビザ】NPO Chiune Sugihara. Visas For Life
目標 16 公正、平和かつ包摂的な社会を推進する|国連広報センター
Holocaust exhibition – Vilna Gaon Museum of Jewish History
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