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パレスチナ問題とは?概要や原因、世界・日本の動向、私たちにできること

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パレスチナ問題に関するニュースをご覧になったことはありますか?民族紛争の代表例としてよく取り上げられるため、耳にしたことがあるかもしれません。しかし、問題の詳しい内容や原因がよくわからないという人も多いのではないでしょうか。

この問題は2000年前から続く複雑な問題であるため、長い歴史を7つのパートに分けてわかりやすく解説します。パレスチナ難民の現状や解決に向けた動きやできごと、日本政府の活動、SDGsとの関わりについても取り上げているので、ぜひ目を通してみてください。

目次

パレスチナ問題とは

パレスチナ問題とは、アラブ人とユダヤ人が繰り広げている激しい争いを指します。

一言でまとめてしまうと簡単に聞こえますが、そこには複雑な事情が絡み合っています。パレスチナ問題を理解するために、まずは抑えるべき「パレスチナ」と「ガザ地区」について確認し、世界で最も解決が難しい紛争である理由について見ていきましょう。

パレスチナとは

パレスチナとは、地中海東岸一帯の地域名です。中世にはレヴァントとよばれ、地中海の交易によって繫栄しました。一般的には、現在のイスラエルヨルダン西部の一部ガザ地区をあわせてパレスチナといいます。*1)

ガザ地区について

ガザ地区はパレスチナ南西部の都市です。ガザ及びその周辺地域をまとめてガザ地区と呼んでいます。1948年の段階ではエジプト領とされましたが、第3次中東戦争でイスラエルが占領しました。

1993年、オスロ合意とその後に結ばれたパレスチナ暫定自治協定により、ガザ地区はパレスチナ暫定自治政府の支配下に入ります。イスラエル軍は2005年にガザから撤退しますが、2006年1月の選挙で原理主義勢力のハマスが勝利すると、イスラエルとの対立が激化しました。*2)

※ハマス

1987年の反イスラエル闘争であるインティファーダ(後述します)後に成立したイスラム原理主義組織のこと。イスラエルの存在を否定し武力闘争を展開している。2007年にハマスがガザ地区を武力制圧し、以後は実効支配を続けている。*3)

世界で最も解決が難しい紛争と言われている

今回取り上げるパレスチナ問題は、世界で最も解決が難しい紛争だといわれています。その理由の一つに「聖地」エルサレムの問題がからんでいることが挙げられます。聖地とは文字通り、民族や宗教にとって特別な意味を持つ聖なる土地です。

まず、イスラエルを建国したユダヤ人にとってエルサレムは、祖先が作ったヘブライ王国の都であり、ユダヤ教の神殿があった場所です。エルサレム旧市街の西側にある「嘆きの壁」は、ローマ軍が破壊したエルサレム神殿の一部で、ユダヤ教の聖地となっています。ユダヤ教徒は嘆きの壁に額を押し当て、神殿の荒廃を嘆き、回復と復興を願ってきたのです。*4)

そして、キリスト教徒にとってもエルサレムは「聖地」です。ユダヤ人だったイエスは、ローマの属州総督の命令により、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で十字架刑に処せられました。ゴルゴダの丘の跡地に建てられたとされるのが、エルサレム旧市街にある聖墳墓教会です。*5)中世にはイスラム教から聖地エルサレムを取り戻すための十字軍戦争が起きました。

また、イスラム教徒から見てもエルサレムは「聖地」です。これは691年、この地を支配していたウマイヤ朝のカリフ(指導者)が岩のドームとよばれるモスク(イスラム教の礼拝施設)を建設したことに由来します。岩のドームの中央には預言者ムハンマドが昇天したとされる伝説の岩があります。*6)そのため、エルサレムはメッカやメディナに次ぐ聖地と位置付けられました。

このように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教の聖地であるため、この地を巡る争いは妥協が成立しにくく、和平の機運が高まるたびに反対派が活動を激化させる要因となってきました。

パレスチナ問題の歴史

先ほど見てきたように、パレスチナ問題は宗教的対立を含んでいるため非常に複雑です。最初に関連年表で全体をとらえてから、7つのパートに分けてパレスチナ問題の歴史を解説します。

パレスチナ問題関連年表

パレスチナ問題を知るにはパレスチナ地域の過去の歴史を振り返らなければなりません。今からおよそ3000年前のヘブライ王国の建国から現代にいたるパレスチナの歴史を振り返ります。

6年パレスチナがローマ帝国の属州となる
30年イエスが処刑される
135年ユダヤ戦争でローマ帝国に敗北
 →パレスチナを追放され地中海各地に離散(ディアスポラ)
638年イスラム教を信じるウマイヤ朝がエルサレムを征服
 →岩のドームを建設
  以後、エルサレムはメッカ・メディナに次ぐ第3の聖地に
1099年第1回十字軍がエルサレムを征服しエルサレム王国を建国
1187年エルサレム王国滅亡
 →ふたたび、イスラム勢力の支配下となる
1517年オスマン帝国がエルサレム周辺を支配
19世紀末ユダヤ人国家の創設を目指すシオニズム運動が活発化
1914年第一次世界大戦がはじまる
 →オスマン帝国と敵対していたイギリスが秘密外交を行う
1920年パレスチナがイギリスの委任統治領になる
1933年ナチスがドイツで政権を獲得
 →ユダヤ人への迫害・殺害が本格化
  多くのユダヤ人が難民としてパレスチナに逃れる
  パレスチナ在住のアラブ人との対立が激化
1947年イギリスがパレスチナからの撤退を決定
国際連合でパレスチナ分割案が採択
 →ユダヤ人は賛成したが、アラブ人は反対
1948年イスラエル建国
 →認めないアラブ諸国と第一次中東戦争
  イスラエルが西エルサレムを占領(東はヨルダンが占領)
  イスラエルが勝利し、建国が確定
1950年イスラエルがエルサレムを首都と宣言
1967年第三次中東戦争
 →イスラエルがガザ・ヨルダン川西岸、東エルサレムを占領
  戦争後、パレスチナ=ゲリラが登場
1969年アラファトがPLO(パレスチナ解放機構)の議長となる
1973年第四次中東戦争
1979年エジプトとイスラエルが和平
 →以後、PLOとイスラエルの対立が主軸となる
1987年ガザ地区で「インティファーダ」がはじまる
1993年オスロ合意
 →PLOとイスラエルがパレスチナ暫定自治協定に調印
1994年パレスチナ暫定自治政府が成立
 →ヨルダン川西岸とガザ地区の自治がスタート
2000年第二次インティファーダ
2006年ガザ地区でイスラム原理主義のハマスが第一党になる
 →イスラエルと激しく対立
2008年イスラエルがガザ地区を空爆
2021年イスラエルがガザ地区を空爆し対立が激化

きっかけは2000年以上前

パレスチナ問題の発端は2000年以上前にさかのぼります。今から2000年前の紀元前6年、パレスチナはローマの属州となりました。

このころ、パレスチナでユダヤ教のあり方を批判するイエスが現れます。ユダヤ教の指導者は、イエスを秩序の破壊者であるとしてローマの属州総督に訴えました。その結果、イエスはゴルゴダの丘で処刑されてしまいます。後に、この場所に聖墳墓教会が造られます。

イエスの死後100年が経過したころ、ローマによるパレスチナ支配が厳しくなっていきました。これに対し、ユダヤ人たちは何度もローマに反乱を起こしました。(この戦いの最中にエルサレムの神殿が破壊されます。破壊された神殿の壁の一部が「嘆きの壁」といわれています。)

紀元前135年、ユダヤ人の最後の反乱が鎮圧され、彼らはエルサレムから追放されました。その後、ユダヤ人たちはローマ帝国各地に離散します。このことをディアスポラといいます。

イスラム勢力が中東を支配

ローマ帝国が衰退すると、パレスチナを含む中東地域は新興勢力であるイスラム教徒の支配地域となりました。次に触れる十字軍による一時的なキリスト教徒の支配を挟みますが、約1200年にわたってイスラム教勢力がパレスチナやエルサレムを支配します。

岩のドームの建設と十字軍

661年に成立したイスラム勢力のウマイヤ朝は、パレスチナ周辺地域を征服してエルサレムを占領します。そして、ムハンマドが昇天したとされる伝説の岩の場所に「岩のドーム」とよばれるモスクを作りました。岩のドームはイスラム教の聖地のひとつとして信仰を集めます。

11世紀末、ヨーロッパのキリスト教勢力が聖地エルサレム奪還を目指して十字軍を結成し、エルサレムを征服しました。そして、パレスチナを含む東地中海沿岸に十字軍国家を作りました。

しかし、イスラム側の英雄サラディンの活躍もあって12世紀後半にはイスラム勢力がエルサレムを奪還します。以後、パレスチナはファーティマ朝やマムルーク朝、オスマン帝国といったイスラム勢力の支配が続いていきます。

シオニズム運動

ディアスポラでヨーロッパ各地に逃れたユダヤ人たちは、イエス=キリストを迫害した民族であるとしてキリスト教世界で迫害されます。ヨーロッパで土地の所有を許されなかったユダヤ人たちは金融・商業の世界で成功しましたが、それでも偏見や迫害はとどまりませんでした。*7)

その中で19世紀末、ユダヤ人の中に「パレスチナを回復し祖国を建設しよう」という運動がおこりました。この運動をシオニズム運動といいます。エルサレムの別名である「シオン」の地に戻ろうとする運動*で、ユダヤ人のパレスチナ国家建設の精神的支柱となりました。

イギリスの秘密外交で民族対立が激化

次にポイントとなるのが、第一次世界大戦でのイギリスの動向です。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは敵となったオスマン帝国を揺さぶる動きを活発化させます。

イギリスによる3つの秘密協定

戦争中、イギリスは矛盾する3つの秘密協定を結びました。

【イギリスの秘密協定】

年代協定名相手内容
1915年フサイン=マクマホン協定(書簡)*9)アラブ人オスマン帝国と戦ったらアラブ人の独立国家を認める
1916年サイクス=ピコ協定*10)フランスロシアオスマン帝国領を3国で分割パレスチナは国際管理
1917年バルフォア宣言*11)ユダヤ人ユダヤ人国家の建設を支持

この3つの協定は同時に成り立たない協定です。フサイン=マクマホン協定とバルフォア協定はどちらかしか成り立ちません。しかも、イギリスはどちらも守らず、サイクス=ピコ協定を守りました。ロシアが革命で離脱したため、中東地域をイギリスとフランスで山分けしたのです。

ユダヤ人のパレスチナ流入

そして第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となりました。

※委任統治領*12)

第一次世界大戦後、国際連盟がドイツとオスマン帝国の植民地や領土を特定の国にゆだねた仕組みのこと。パレスチナの場合は、実質、イギリスが支配することになった。

その結果、ユダヤ人はバルフォア宣言に基づいてパレスチナに流入し始めました。当初はすでに住んでいたアラブ人と共存していましたが、ユダヤ人入植者が急増した1920〜30年代になるとアラブ人とユダヤ人の対立が激しくなります。そしてパレスチナの最もよい農地がユダヤ人に買い占められると、ユダヤ人に対する反発が強まりました。*13)

1933年、ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ユダヤ人を迫害・追放する動きに拍車がかかります。迫害・追放されたユダヤ人たちはパレスチナを目指しました。入植者が増加するにつれ、ユダヤ人による農地買い占めが進行し、アラブ人農民との対立が深まります。*13)

イスラエル建国と中東戦争

第二次世界大戦後、イギリスは激化するパレスチナの統治をあきらめ、国際連合(国連)に処理を委ねました。国連はパレスチナ分割決議を採択しますが、それを認めないアラブ人と自分たちの国を作りたいユダヤ人が対立し、4度にわたる中東戦争が勃発します。

パレスチナ分割案と第一次中東戦争

1947年、国連はパレスチナ分割決議を採択し、翌年イスラエルが建国されました。パレスチナ分割決議は、パレスチナの57%をユダヤ人の国に、残りの地域をアラブ人の国にするというものです。パレスチナ人口の3分の1、土地所有率6%に過ぎないユダヤ人に、パレスチナの半分以上の土地が与えられたのです。*13)

このことにアラブ人側は激しく怒ります。周辺のアラブ諸国はユダヤ人国家イスラエルの建国を認めず、両者は戦争となりました。これが第一次中東戦争の始まりです。戦いはユダヤ人国家であるイスラエルの勝利に終わりました。

第三次中東戦争でイスラエルが領土拡大

パレスチナ地域の勢力図が大きく変化したのは、1967年の第三次中東戦争です。この戦いはイスラエル軍の圧勝に終わったため、六日間戦争の異名を持ちます。不意を突かれたエジプト空軍は飛び立つことすらできず破壊され、イスラエルにシナイ半島やガザ地区が奪われました。

この戦いでイスラエルは東エルサレムなども占領したため、100万人以上のパレスチナ難民が発生しました。

※パレスチナ難民

中東戦争で故郷を追われたアラブ人(パレスチナ人)のこと。第三次中東戦争でイスラエルの占領地が拡大すると、大量のパレスチナ難民が発生した。イスラエルは難民の帰還を拒否しており、パレスチナ問題の解決を難しくしている。*14)

その後、第四次中東戦争で盛り返したエジプトは、戦争後の1978年にイスラエルと電撃的に和平します。これにより、パレスチナ問題はイスラエルとアラブ諸国の対立からイスラエルとパレスチナ人の対立へと構図を変化させます。

PLOとイスラエルの対立

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4度の中東戦争でイスラエルが勝利すると、イスラエルと戦争しようとするアラブ国家はなくなりました。しかし、中東戦争で発生したパレスチナ難民たちはイスラエルとの戦いを継続します。この時、戦いの中心となったのがPLOです。

PLOとは何か

PLOとはパレスチナ解放機構の略称です。パレスチナ人の政治組織で、1969年にPLO内の最大組織であるファタハを率いるアラファトが議長に就任しました。1979年にエジプトがイスラエルと和平協定を結んだあと、イスラエルとの戦いの中心を担います。*15)

アラファトは隣国レバノンの南部に拠点を構え、イスラエルと戦闘を継続しましたがイスラエル軍がレバノンに侵攻すると北アフリカのチュニジアに脱出します。*15)

インティファーダによる抵抗

1987年末、イスラエルの占領下にあったガザにおいて、パレスチナ人が投石などで抵抗する抗議運動を開始しました。この運動をインティファーダといいます。投石やストによる抗議は、同じくイスラエルが占領していたヨルダン川西岸地区にも拡大しました。

イスラエルは激化する運動を武力で弾圧しようとしましたが失敗し、国際的な非難を浴びました。

パレスチナ和平の進展と破綻

1980年代後半から1990年代前半にかけて、PLOとイスラエルの双方に歩み寄りの姿勢が見られました。湾岸戦争後に中東で発言力を増していたアメリカが両者を仲介し、アメリカ主導の和平が進められます。しかし、和平プロセスは破綻してしまいました。その流れを確認します。

オスロ合意とパレスチナ暫定自治協定

湾岸戦争のとき、イラクのサダム=フセインは戦争に他のアラブ諸国を巻き込むため、イスラエルをミサイル攻撃しました。

アメリカがイスラエルの反撃を抑えたため、戦争にまでは発展しませんでしたが、地域の安定のためにはパレスチナ問題の解決が必要だという認識が関係国の間で深まります。そして、1993年に両者はノルウェーの仲介で話し合いをし、オスロ合意にこぎつけました。

※オスロ合意

イスラエルとPLOの間で合意した一連の協定のこと。ガザ地区やヨルダン川西岸がパレスチナ人の自治区となることが決まった。*16)

同年、オスロ合意に基づきパレスチナ暫定自治協定が締結され、翌94年にPLOを中心とするパレスチナ暫定自治政府が成立しました。*17)

対立の再燃

パレスチナ側では、和平を進めてきたPLO幹部への反発から、イスラム原理主義勢力のハマスが台頭し、ガザ地区を制圧してイスラエルとの闘争を行いました。イスラエル側では和平を推進したラビン首相が暗殺されたことで、和平反対派が力を強めました。

対決が決定的となったのは、2000年に右派政党リクード党首だったシャロン氏がエルサレムにあるイスラム教の聖域に立ち入ったことです。このため第二次インティファーダが発生しました。こうして、せっかくの和平の機運は立ち消えとなったのです。

トランプ政権による露骨な親イスラエル政策

トランプ政権が露骨な親イスラエル政策をとったことも、和平を困難にした要因の一つとされます。

アメリカには政財界や学会などで活躍する多くのユダヤ人が存在します。彼らはアメリカの政策をイスラエルに有利にさせるためのロビー活動を行うため、民主党も共和党もイスラエルを無視することが許されません。*18)

アメリカ人の4分の1近くが信仰しているキリスト教福音派も、親イスラエルの姿勢をとっています。このため、もともとアメリカの政策は親イスラエル寄りでした。

トランプ政権は、歴代政権の中でも突出して親イスラエルの姿勢を取り、アメリカ大使館をエルサレムに移しました。これはイスラエルの首都はエルサレムという主張を受け入れたもので、パレスチナ側の激しい反発を買います。後継のバイデン政権もパレスチナ問題に消極的であるため、当面、和平は絶望的かもしれません。*18)

ガザ地区でイスラエルとハマスが戦闘

2021年、イスラエルはガザ地区からロケット弾が発射されたとして軍事作戦を展開しハマスと戦闘になりました。*19)

ガザや東エルサレムでの衝突の様子はSNSによって大きく拡散され、瞬く間に拡散されました。それと同時に、パレスチナ人少年がユダヤ人少年を平手打ちした動画も拡散するなど、両者の間で怒りの感情が高まりました。*20)

ガザ地区での戦闘は2023年も継続しており、多数の死傷者が出ています。*21)

パレスチナ問題によって現地の人々が受ける影響

イギリスの秘密外交から100年以上、イスラエルが建国した第一次中東戦争から数えても70年以上もの間、パレスチナでは紛争が続いてきました。この問題により、現地に住んでいる人はどのような被害を被っているのでしょうか。パレスチナ側とイスラエル側の双方の視点で被害を見てみましょう。

パレスチナ難民の困窮

パレスチナに住むアラブ人の多くが幾度もの戦争によって故郷を追われ、難民となりました。彼らのことをパレスチナ難民と呼びます。

第一次中東戦争が原因で生まれたパレスチナ難民は約80万人でした。1967年にイスラエルの占領地が拡大すると難民数は急増し、現在では580万人もの人々が難民として避難生活を送っています。*22)

難民たちの多くは生活に余裕がなく、偏った食生活とならざるを得ないため、糖尿病や高血圧といった生活習慣病にかかるリスクが増大します。*22)

最も困窮しているのはガザ地区です。これは、2007年にハマスが実効支配するようになってから、イスラエルとの戦闘が断続的に続いているためです。イスラエルはガザ地区を封鎖し、地区内は慢性的な燃料・物資・水の不足に悩まされ、経済が停滞しています。高い失業率や若者の自殺の増加も深刻な問題となっています。*23)

イスラエル人を標的としたテロの多発

パレスチナ問題ではパレスチナ人の犠牲が報道されがちですが、イスラエル側でもパレスチナ人のテロによって多くの死傷者が出ています。

イスラエル保安庁の統計によると、2022年中に発生したテロ攻撃により、31人が死亡し282人が負傷しています。ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地や、イスラエル兵が配置されている交差点、検問所などで銃器や刃物を使ったテロが発生しています。*24)

パレスチナ問題の解決に向けた世界の動向

オスロ合意が破綻し、パレスチナ問題の解決は暗礁に乗り上げてしまいました。そのような状況の中、アラブ諸国がイスラエルと国交回復するなど新たな動きが見られます。

アラブ諸国の動き

第一次中東戦争以後、イスラエルと周辺のアラブ諸国は対立関係にありました。イスラエルは1974年にエジプトと、1994年にヨルダンと国交正常化させますが、他のアラブ諸国との国交はないままでした。

2020年、トランプ政権はイスラエルとアラブ諸国の関係改善を仲介します。これによりUAE(アラブ首長国連邦)・バーレーン・スーダン・モロッコの4か国がイスラエルとの国交正常化に同意しました。

根本解決は難しい状況

アラブ諸国とイスラエルの国交正常化は、一見、パレスチナ問題の解決を大きく前進させたかに見えます。しかし、対立の根本であるパレスチナ人とイスラエルの和解ではないため、問題の解決としては有効ではありません。

パレスチナ側は、ヨルダン川西岸を支配するファタハ(PLO主流派)とガザ地区を支配するハマスに分裂しています。イスラエル側はテロリストの侵入を防ぐため、ヨルダン川西岸地区に分離壁を建設するなど、対立・分離政策を行っています。*25)

パレスチナ問題の解決に向けた日本の動向

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世界で最も解決困難とされるパレスチナ問題に対し、日本政府はどのように動いているのでしょうか。ここでは日本政府の立場を中心に解説します。

イスラエルとパレスチナ国家が共存する二国家解決を支持

日本政府は、パレスチナを国家として承認していません。しかし、事実上は国家とほぼ同じ待遇で扱われています。そしてパレスチナ人とイスラエルの和平が停滞していることを憂慮し、両者に対し交渉を再開するよう、強く要請しています。*26)

日本政府はパレスチナに、イスラエルとパレスチナ人国家が共存する二国家解決を支持しています。エルサレムの扱いや難民問題は両者の協議で決めるべきとし、ヨルダン川西岸地区へのユダヤ人入植地の拡大には反対しています。

日本政府による具体的な支援策は以下の4つです。

  1. パレスチナ難民支援
  2. パレスチナ人向けの財政・金融支援
  3. ガザ地区への支援
  4. 「平和と繁栄の回廊」構想への支援

2023年1月、日本政府は国連パレスチナ難民救済事業機関を通じ、約740万ドルの支援を決定しました。これ以外にも食料・医療・教育の分野で約3,000万ドルの支援を決定しています。

イスラエルとハマスの戦闘で危機的状況にあるガザ地区に対しても、NGOなどと協力して無償資金援助や食糧援助を行っています。2022年だけでも約2,200万ドルの支援を行いました。

「平和と繁栄の回廊」とは、日本・パレスチナ・イスラエル・ヨルダン4者が共通してジェリコ・ヨルダン渓谷の開発を進める事業のことです。こうした取り組みで、イスラエルとパレスチナ人の共存共栄を目指します。*27)

パレスチナ問題の解決に向けて私たちができること

70年以上も続いているパレスチナ問題に対し、私たちができることはあるのでしょうか。ここからは、パレスチナ問題への支援策として寄付とボランティアについてとりあげます。

パレスチナ難民支援活動への寄付

できることの1つ目はパレスチナ難民支援活動への寄付です。難民支援団体の代表は1950年に活動を開始した国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)です。UNRWAはパレスチナ難民のため、保健・教育・社会サービス・保護・難民キャンプのインフラ支援などの分野で活動してきました。*27)

たとえば、UNRWAは5つの地域で702の学校を運営し、年間55万人のパレスチナ難民の子どもたちに教育機会を与えています同時に女性や子ども、障がい者、高齢者に対する支援や難民キャンプの生活を支えるインフラの整備も行っています。*28)日本は1953年からUNRWAの支援を続けてきました。

しかし、こうした幅広い活動を行うためには多額の資金が必要です。UNRWA以外にも多数のNGO・NPOがパレスチナ難民の支援を行っていますので、そうした団体に寄付することでパレスチナ問題への支援を行ったことになります。

ボランティア活動への参加

専門的な知識や技能を使い、ボランティアとして参加する方法もあります。土日や祝日のイベント支援や事務局での作業補助、手話通訳、アラビア語の翻訳、動画やチラシの作成、広報誌の発送作業の手伝いなど、NGO・NPOの活動をボランティアとして支援することも、パレスチナ問題への支援の一つとなるでしょう。

パレスチナの伝統工芸品を購入

パレスチナの問題の一つに経済的貧困があります。彼らが生み出した製品を購入することで、経済的自立を支援したことになります。

具体的にはパレスチナ人女性がつくった手刺繍製品やパレスチナ自治区で生産されたオリーブオイルなどの購入が考えられます。単純に製品を購入するより、売上がパレスチナ人に還元されることを明示している製品を購入すると、より直接的な支援となるでしょう。

パレスチナ問題とSDGs

sdgs

パレスチナ問題は70年以上にわたって続く紛争で、多くの犠牲者が出ています。しかも、未だに解決の糸口が見えず、ガザ地区での戦闘やイスラエル国内でのテロで多くの命が失われています。パレスチナ問題とSDGsの関わりについて考えてみましょう。

目標16「平和と公正をすべての人に」との関わり

SDGs目標16は世界中の全ての人に平和と公正をもたらすことを目指しています。

【SDGs目標16の概要】

パレスチナ問題には、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の3つの宗教がかかわっているため、いずれの勢力も妥協しにくい状況にあります。特に、パレスチナ地域で直接戦っているイスラム教のパレスチナ人とユダヤ教のイスラエルには妥協の余地が少ないように見えます。

しかし、両者の和解が行われず戦いが継続すれば、憎しみの連鎖が未来永劫続くことになります。解決に向けて動き出すには、両者と距離を取りつつ中立の立場で仲介する勢力の存在が必要です。

現実に困っているパレスチナ難民に対する支援はとても重要ですが、イスラエルの立場にも配慮しつつ、両者の妥協点を見出すための現実的な交渉が必要だといえるでしょう。そうすることで、はじめて、パレスチナに平和と安定がもたらされるのではないでしょうか。

まとめ

1990年代、パレスチナ問題解決に一筋の光明がもたらされました。しかし、双方の反対派の活動により和平の機運が遠ざかってしまいました。覇権国であるアメリカはイスラエル寄りの姿勢を示しているため、公正な仲介者になりにくい状況です。

こうした状況が続く限り、両者の対立は中々収まらないかもしれません。しかし、解決不可能とすら言われたパレスチナ問題が、一時とはいえ解決する可能性が見え、オスロ合意やパレスチナ暫定自治地協定が結ばれたのは、今後に向けてのわずかな希望といえるでしょう。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のいずれにも属さない日本は中立な立場で仲介可能な数少ない国の一つです。明確なイニシアティブをもって両者が共存共栄できるようパレスチナ問題に関与することが可能なのではないでしょうか。

参考
*1)デジタル大辞泉「パレスチナ(ぱれすちな)とは?
*2)デジタル大辞泉「ガザ(がざ)とは?
*3)デジタル大辞泉「ハマースとは?
*4)デジタル大辞泉「嘆きの壁(なげきのかべ)とは?
*5)デジタル大辞泉「聖墳墓教会(セイフンボキョウカイ)とは?
*6)山川 世界史小辞典「岩のドーム(いわのドーム)とは?
*7)山川 世界史小辞典「ユダヤ人(ゆだやじん)とは?
*8)知恵蔵「シオニズム(しおにずむ)とは?
*9)山川 世界史小辞典「フサイン‐マクマホン書簡とは?
*10)山川 世界史小辞典「サイクス‐ピコ協定(さいくすぴこきょうてい)とは?
*11)山川 世界史小辞典「バルフォア宣言(ばるふぉあせんげん)とは?
*12)山川 世界史小辞典「委任統治(いにんとうち)とは?
*13)合同出版「14歳からのパレスチナ問題」
*14)知恵蔵「パレスチナ難民(ぱれすちななんみん)とは?
*15)知恵蔵「パレスチナ解放機構(ぱれすちなかいほうきこう)とは?
*16)デジタル大辞泉「オスロ合意(オスロゴウイ)とは?
*17)ブリタニカ国際大百科事典「パレスチナ暫定自治協定(パレスチナざんていじちきょうてい)とは?
*18)NHK「1からわかる!イスラエルとパレスチナ(3)解決への道筋は
*19)外務省「イスラエル、ヨルダン川西岸地区及びガザ地区の危険情報【危険レベル継続】(内容の更新)
*20)世界史の窓「中東問題/パレスチナ問題
*21)BBC「ガザ地区の武装組織とイスラエルが停戦、5日間にわたる攻撃後
*22)JICA「「世界難民の日」パレスチナの現場から深刻化する世界の難民問題を考える
*23)パレスチナの子どものキャンペーン「ガザ地区を知ろう|パレスチナ子どものキャンペーン
*24)外務省「イスラエル テロ・誘拐情勢
*25)ARAB NEWS「建設から20年、イスラエルの分離壁がパレスチナ人の生活に与える大きな影響
*26)外務省「中東和平についての日本の立場
*27)外務省「我が国の対パレスチナ支援
*28)UNRWA「UNRWAの活動
*29)スペースシップアース「SDGs16「平和と公正をすべての人に」の現状と日本の取り組み事例、私たちにできること