ワシントンD.C.にあるナショナル・モールの西端にアメリカ第16代大統領リンカーンを記念したリンカーン記念堂があります。記念堂では数々の演説が行われましたが、1963年にキング牧師が行った「I have a dream」の演説は非常に有名です。
キング牧師の演説の100年前、リンカーンはゲティスバーグで「人民の、人民による、人民のための政府」という演説を行いました。南北戦争でも最大級の戦闘となったゲティスバーグの戦いの後で行われた演説で、現在まで名演説の一つとされます。
では、リンカーンが戦った南北戦争とはどのようなものだったのでしょうか。そして、彼が発表した奴隷解放宣言は後世にどのような影響を与えたのでしょうか。今回は、南北戦争の背景や流れ、その後について紹介します。日本に与えた影響やSDGsとの関連についても解説しますので、ぜひ目を通してみてください!
南北戦争とは
南北戦争とは、1861〜65年にかけてアメリカで起こった内乱です。アメリカ合衆国を脱退した南部11州(アメリカ連合国)と脱退を認めない北部(アメリカ合衆国)が戦いました*1)。
奴隷制度をめぐる対立や貿易に関する対立が主な原因で、北部の工業地域と南部の農業地域が激しく争いました。戦争後、奴隷制度が廃止され、北部の勝利によってアメリカは統一国家としての基盤を固めました。
アメリカ史上最大の内戦
南北戦争の戦死者は、両軍合わせて61万人以上を超えました。第二次世界大戦中のアメリカ軍の死者が40万人余であったことを考えると、南北戦争がいかに犠牲者の多い戦いだったかがわかります*2)。
戦死者が多かった理由の一つに、最新兵器の実戦投入がありました。1846年に開発されたエンフィールド銃や1860年に開発されたスペンサー銃などが戦場で使用されました。また、実戦ではあまり活躍しませんでしたが、初期の機関銃やガトリング砲も開発されています。
南北戦争が起きた背景
アメリカ史上最大の内戦となった南北戦争は、なぜ起こったのでしょうか。南北戦争の背景には、南北で利害が対立していた当時のアメリカの事情と、奴隷制度に対する考え方の違いがありました。
南北で対立するアメリカ
南北戦争の直前、アメリカは大きく分けて南部と北部の2つの地域に分かれていました。
地域 | 中心産業 | 貿易 | 奴隷制 | 政体 |
北部 | 商工業 | 保護貿易 | 反対 | 連邦主義 |
南部 | 農業 | 自由貿易 | 賛成 | 州権主義 |
商工業が中心の北部は、イギリスなどから安い工業製品が輸入されるのを抑えるため、貿易を制限する保護貿易を求めていました。政治体制についても、中央集権を重視する連邦主義の立場をとっていました*2)。
一方、南部の中心産業は奴隷制を基本とした大農園(プランテーション)です。安価な労働力で、大量に生産した綿花をイギリスなどに売却することで利益を得ていたため、貿易に制限がかからない自由貿易を求めました。また、政治体制については各州の独自性が強い州権主義の立場をとっていました*2)。
北部と南部は、経済・貿易・政治など多くの分野で対立していたといってもよいでしょう。
奴隷制に対する考え方の違い
奴隷制度は、南北で考え方が大きく異なっているテーマです。黒人労働力が絶対的に必要と考えた南部は、奴隷制度を維持しようとしました。一方、北部は奴隷制度の廃止を主張します。
領土が西部に拡大し新たな州が成立する際に、
- 黒人奴隷を認める奴隷州とするか
- 奴隷を認めない自由州とするか
で、南北の対立が高まります。
1820年に成立したミズーリ協定では、北緯36度30分以北に新たな奴隷州を作らないことが決められました。しかし、1854年にカンザス・ネブラスカ法が制定されると、ミズーリ協定が破棄され、奴隷州か自由州かは住民の選択によって決められるようになりました*3)。
また、カンザス・ネブラスカ法の2年前である1852年、ストウ夫人は『アンクル=トムの小屋』を出版し、黒人奴隷の悲惨さを世界に訴えました。この本は、1年間で30万部も売れるベストセラーとなり、北部やヨーロッパで黒人奴隷反対の世論形成につながりました。
南北戦争の流れ
1854年、奴隷制度反対論者が中心となって共和党を結成しました。共和党の大統領候補となったのがリンカーン(リンカーン)です。
彼の当選に反発した南部諸州が独立を宣言したことから、南北戦争が始まりました。最初に、南北戦争の流れを見てみましょう。
1860年 | リンカーンが大統領に当選 |
1861年 | リンカーンがアメリカ第16代大統領に就任 →南部諸州はアメリカ連合国を形成 |
同年4月 | 南軍のリー将軍がサムター要塞を攻撃 →南北戦争の始まり |
1862年 | ホームステッド法成立 |
1863年 | 奴隷解放宣言 |
同年7月 | ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利 →ゲティスバーグの演説 |
1865年 | 南軍降伏 |
リンカーンの当選とアメリカ連合国の独立宣言
1860年の大統領選挙で共和党のリンカーンが当選すると、奴隷制の維持を主張する南部の11の州がアメリカ合衆国(以下、北部)からの離脱を宣言し、アメリカ連合国(以下、南部)と称しました。アメリカ連合国の首都はバージニア州のリッチモンドに置かれ、初代大統領にジェファソン・デヴィスを選出します。
南部は、工業力や人口の面では北部に劣っていましたが、リー将軍などの人材に恵まれていました。
開戦
1861年4月、リー将軍率いる南軍がサムター要塞を攻撃したことで南北戦争が始まりました。開戦当初、南軍は北軍を圧倒する勢いで戦局を優位に展開します。しかし、北軍の物量や海上封鎖により、南軍は徐々に後退を余儀なくされ、中盤以降の戦闘は南部の領域で行われることが多くなりました。
この時代を描いた長編小説が『風と共に去りぬ』です。この小説は、南部から見た南北戦争を描いたもので1937年にピューリッツァ賞を受賞しました*7)。
ホームステッド法
リンカーン大統領は南北戦争中の1862年に「ホームステッド法」を制定しました。これは、自営農家を育てることを目的とした法律です。
アメリカ合衆国市民、またはアメリカに帰化を希望する人(家長)であれば誰でも、160エーカーの国有地を手に入れるチャンスが与えられました。条件は、その土地に住み、開墾を5年間続けることでした*8)。
ホームステッド法を歓迎したのは西部諸州の農民たちです。ホームステッド法以後、西部の農民たちは北部を強く支持するようになります。
奴隷解放宣言
1863年、リンカーン大統領は奴隷解放宣言を発布しました。この宣言は、それまで南部の連邦離脱阻止を目的としていた南北戦争を、奴隷解放を目指す戦いへと大きく方向転換させました*9)。
リンカーンは、黒人奴隷の解放を戦争の大義として掲げることで、当時、綿花取引を通じて南部と密接な関係にあったイギリスが、南北戦争に介入することを牽制しようとしたのです。
ゲティスバーグの演説
1863年7月、ペンシルベニア州のゲティスバーグで南北両軍が激突し、ゲティスバーグの戦いが始まりました。戦いの発端は、リー将軍がペンシルベニアに攻め込んできたことです。3日間の激闘の結果、南軍はペンシルベニアから撤退します。
戦いの4ヶ月後の1863年11月、リンカーンは国立戦没者墓地の奉献式で演説を行いました。彼は式典で戦死者を悼むと同時に、戦いの意義を強調します。この演説の一節は「government of the people, by the people,for the people」です。日本語で「人民の、人民による、人民のための政治」と訳される一節は、現代にまで語り継がれています。
南部の敗北
1864年になると、物量に勝る北部が優勢になっていました。1865年、南部の首都であるリッチモンドが陥落し、同年4月にリー将軍が降伏することで、南部は完全に敗北しました。
南北戦争のその後
アメリカ最大の内戦となった南北戦争は、アメリカに何をもたらしたのでしょうか。2つの影響について解説します。
アメリカの統一が維持された
1つ目は、アメリカ統一の維持です。南北戦争で北部が勝利したことで、南部11州の離脱が阻止されました。外交的な働きかけも成功し、ヨーロッパ諸国は南北戦争に介入せず、統一国家としてのアメリカの形が保たれます。
しかし、南北戦争がもたらした分断は深刻でした。1865年4月、リンカーンはフォード劇場で観劇中に熱狂的な南部主義者だった俳優のブースによって暗殺されます。暗殺したブースは「南部の報復は果たされた」と叫んだとする説がありますが、南北戦争後の分断の深刻さを示した言葉といえるでしょう。
黒人差別は残った
2つ目は、黒人差別が残ったことです。1865年の憲法修正第13条で奴隷制度が廃止され、1868年の憲法修正第14条で黒人にも市民権が与えられ、黒人差別が解消されたかに思われました。
しかし、北部の占領軍が撤退した南部では、合法的な黒人差別が行われるようになりました。こうした合法的な差別をまとめて「ジム=クロウ制度(法)」といいます。南部では公立学校の人種差別や鉄道での人種差別などが公然と行われます。黒人への差別が解消に向かうのは、1960年代の公民権運動を待たなければなりませんでした。
南北戦争が日本に与えた影響
南北戦争は、遠く離れた日本にも大きな影響を与えました。ここでは、アメリカの東アジアからの後退と戊辰戦争への影響について解説します。
アメリカが日本から後退した
南北戦争以前のアメリカは、ヨーロッパの他の国々に先駆けて日本との関係を深めていました。1853年にペリーが日本に来航し、その翌年の1854年には日米和親条約が締結。さらに1858年には日米修好通商条約が結ばれるなど、日本への進出を積極的に進めていたのです。
しかし、1861年に南北戦争が勃発すると、アメリカは国内問題に集中せざるを得なくなり、日本に対する関与が薄れていきました。
その後、日本に大きな影響を与えるようになったのはイギリスとフランスでした。イギリスは薩摩藩や長州藩といった西南の有力な藩を支援し、一方でフランスは幕府を支持し、軍事顧問団を送るなどして支援しました。
このように、アメリカは一定の影響力を保ちながらも、その力を大きく低下させ、日本に対する影響はイギリスとフランスが主導する形となりました。
南北戦争の武器が戊辰戦争で使われた
南北戦争後のアメリカには、使い道のない大量の武器が残っていました。折しも日本では幕末の動乱期を迎え、新しい武器を必要としていました。 そこで、世界でも有数の武器市場となった日本に、アメリカからは余剰となったスナイドル銃などが大量に輸出されるようになったのです。
さらに、南北戦争中に南軍が発注していたものの、戦争終結により引き渡されなかった軍艦「甲鉄」も日本に渡りました。 この軍艦は、やがて戊辰戦争で活躍し、宮古湾や箱館湾での海戦で重要な役割を果たすことになります。
このように、南北戦争後のアメリカの余剰武器は、海を渡って日本の内戦にも大きな影響を与えたのでした。
南北戦争とSDGs
南北戦争は、アメリカ社会に大きな傷跡を残した戦争でした。それと同時に、黒人奴隷問題がクローズアップされた戦争でもあります。ここでは、南北戦争とSDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関連について解説します。
SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり
SDGs目標10は、国と国との不平等や国のなかでの不平等をなくすことを目指しています。目標10のターゲット10.2では「2030年までに、年齢、性別、障害、人種、民族、出自、宗教、あるいは経済的地位その他の状況に関わりなく、すべての人々の能力強化及び社会的、経済的及び政治的な包含を促進する」としています。
南北戦争の時代に見られたような、人種を理由とした差別や奴隷制度は、現代の持続可能な開発目標(SDGs)の理念と相反するものです。リンカーン大統領による奴隷解放宣言は、黒人差別撤廃への重要な一歩でした。
しかしながら、この宣言や合衆国憲法の制定後も、南部諸州では黒人に対する差別が続きました。これは、一度根付いた差別意識を取り除くことがいかに難しいかを如実に示しています。
残念なことに、人種差別は現代社会においても完全には解消されていません。そのため、私たちは引き続きこの問題に取り組み、差別のない社会の実現に向けて行動を起こす必要があります。過去の教訓を胸に刻み、互いの違いを尊重し合える社会を目指すことが、今を生きる私たちの責務なのです。
まとめ
南北戦争は、奴隷制度を巡る南北の対立が頂点に達し、アメリカ合衆国で勃発した内戦です。工業と自由労働を基盤とする北部と、農業と奴隷制に依存する南部は、経済・政治・倫理のあらゆる面で対立を深めていました。
リンカーン大統領の奴隷解放宣言は戦争の様相を一変させ、世界的な注目を集めました。激戦の末、北部が勝利し、奴隷制は終焉を迎えましたが、南北の分断は根深く、黒人差別はその後も長く続くこととなります。
南北戦争はアメリカの歴史を大きく転換させただけでなく、日本を含む世界にも大きな影響を与えた出来事だったのです。
参考
*1)山川 世界史小辞典 改定新版「南北戦争」
*2)日本大百科全書(ニッポニカ)「南北戦争」
*3)山川 世界史小辞典 改定新版「カンザス・ネブラスカ法」
*4)精選版 日本国語大辞典「共和党」
*5)旺文社世界史事典 三訂版「リンカン」
*6)山川 世界史小辞典 改定新版「リー」
*7)精選版 日本国語大辞典「風と共に去りぬ」
*8)百科事典マイペディア「ホームステッド法」
*9)山川 世界史小辞典 改定新版「奴隷解放宣言」