リスボン郊外のロカ岬はヨーロッパの最西端であり、ユーラシア大陸の最西端でもあります。ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスはロカ岬を「ここに地終わり、海はじまる(ONDE A TERRA SE ACABAR E O MAR COMECAR)と詠みました。
ヨーロッパ最西端にあるポルトガルは、自国の発展のため大西洋に乗り出し、アフリカ西岸の探検を開始します。ポルトガルにとって輝かしい第一歩でしたが、アフリカや中南米、アジアの国々にとって、その船出は「植民地化」という悪夢の始まりだったかもしれません。
やがてヨーロッパ諸国は世界の8割を支配し、アフリカや東南アジアを植民地化していきました。今回は植民地の歴史を振り返り、SDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わりについて考えます。
植民地とは
植民地とは宗主国により軍事的・経済的に支配される地域のことです。
かつて、ヨーロッパ諸国は地球上の広大な地域を「植民地」として支配していました。もともとの植民地は、他の地域から移住してきた人々が新しく開拓した土地のことでした。しかし、16世紀以降は植民地の意味合いが大きく変化します。植民地の語源を探り、現在用いられる植民地の意味合いと比べてみましょう。
植民地の語源
植民地の語源はラテン語の「colonia」(コロニア)です。英語のcolony、ドイツ語のKolonieの語源です。コロニアは古代ローマ人が征服地に入植して作った都市のことで、同じような植民は古代ギリシアや古代フェニキアでも行われています。*1)
このような植民活動でできた都市としてはフランスのマルセイユ、シチリア島のシラクサ、チュニジアにあったカルタゴなどが有名です。アメリカの13州植民地もこうした植民地の一つといえます。
植民地の意味
植民地の意味が大きく変化したのは16〜17世紀にかけてです。このころ、ヨーロッパは大航海時代を迎え、優れた航海術と軍事力で周辺地域を軍事的に征服する動きが見られました。
スペインやポルトガルは強大な海軍力と火力で、南北アメリカやアフリカ、東南アジアの重要拠点を次々と征服したのです。特に中南米では、スペインの征服者たちがアステカ王国やインカ帝国などを次々と攻め滅ぼし、植民地としていきました。支配者であるヨーロッパ諸国は、植民地から物資や人的資源を収奪しました。
植民地の形態
植民地の支配国を宗主国と呼びます。宗主国によって支配された植民地は支配形式によりいくつかの形態に分類されます。
- 属領
- 保護国
- 租借地
- 委任統治・信託統治
それぞれについてみてみましょう。
属領
属領とは、宗主国に付随した領土のことです。*2)宗主国による完全な支配地であり、政治的・経済的自由はありません。そして、属領の最高行政官を「総督」といいます。総督の権限は国によって異なりますが、植民地の最高権力者といってよいでしょう。
戦前の日本においては、台湾に総督を派遣していました。また、イギリスはインド総督を派遣し、フランスはインドシナ総督を派遣しています。総督を派遣することで宗主国が植民地を直接支配していたのです。
保護国
保護国とは、国際法上は独立国でありながら保護条約などにより国家の主権を宗主国が握っている状態の国のことです。*3)保護内容は条約によって異なりますが、外交権・財政権・軍事権などを宗主国に握られているため、独立国家として外国と交渉することは困難でした。
イギリスはエジプト・アフガニスタンなどを、フランスは仏領インドシナになる前のカンボジアやベトナムなどを保護国化していました。
属領との違いは、現地政府の存在が許されていたか否かです。属領では、現地政府の存在は否定され、総督による直接統治が行われます。保護国とされた国の中でも、後に属領とされたケースも少なくありません。カンボジア・ベトナムなどは、保護国化された後にフランス総督が支配するフランス領インドシナとして属領統治を受けました。
租借地
租借とは国同士の土地の貸し借りのことです。特別な合意を行ったうえで、他国の領土の一部を一定期間、借り受けます。*4)租借された土地では、租借した側の法律が適用されます。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米列強は軍事力を背景に中国各地に租借地を作っていきました。
日清戦争終結後には、清の国力が弱体化していることを知った欧米列強が清に強いプレッシャーをかけ、各地を租借していったのです。重要地帯を租借地にされた清は欧米列強の半植民地に転落してしまいます。
列強が租借した地域は以下のとおりです。
イギリス | 威海衛、九龍半島北部 |
フランス | 広州湾 |
ドイツ | 膠州湾 |
ロシア | 旅順・大連 |
租借地は中国の法律ではなく、欧米列強の法律が適用される治外法権の土地となります。これらの租借地は第二次世界大戦後に姿を消しましたが、九龍半島北部の租借は1999年の香港返還まで続きました。
委任統治・信託統治
委任統治とは、第一次世界大戦後に国際連盟が設けた植民地統治の監督制度のことです。第一次世界大戦で敗れたドイツとオスマン帝国の旧植民地・旧領土を統治するための仕組みと言えます。*5)イギリス・フランス・日本などの戦勝国が、国際連盟の委任を受けて植民地を統治しました。
第二次世界大戦後、委任統治は信託統治制度に引き継がれました。終戦直後は11の信託統治領がありましたが、1994年にパラオがアメリカの信託統治領から独立した結果、国連に設置されていた信託統治理事会が正式に活動を終了しました。
植民地の歴史
植民地が世界各地に広がったのは、ヨーロッパ諸国が海軍力と経済力で他の地域の国々を支配したからです。植民地に関する歴史はおよそ400年ありますが、大きく4つのパートに分けられます。最初に植民地の歴史について年表で整理し、それから詳細の解説に移ります。
植民地関連年表
ヨーロッパの歴史において、古代ローマ滅亡からルネサンスまでの時代を「中世」といいます。航海技術が発展したヨーロッパ諸国はアフリカや南北アメリカ、アジア、オセアニアに進出し、世界各地を植民地として支配します。
15~16世紀 | スペイン・ポルトガルの海外進出 →16世紀前半、スペインは「太陽の沈まぬ国」といわれた |
17~18世紀 | オランダ・イギリス・フランスの植民地戦争 |
18~20世紀前半 | 帝国主義による植民地拡大 →日本も植民地獲得に参加 植民地では抵抗運動が強まる |
20世紀後半 | 植民地の独立 |
大きく分けると植民地の歴史は4つの段階をたどりますが、今回はスペイン・ポルトガルの進出、植民地戦争、帝国主義、日本の参入、植民地の抵抗、独立による植民地の消滅の6つのパートに分けて植民地の歴史を解説します。
15~16世紀:スペイン・ポルトガルによる征服
大航海時代はヨーロッパの西端にあるイベリア半島から始まりました。イスラム教徒からイベリア半島を取り戻したスペイン・ポルトガルの両国は、大西洋に乗り出しました。
最初に海の彼方へと漕ぎだしたのはポルトガルです。1415年、ポルトガルはアフリカ大陸北西端にあるセウタを攻略しました。ここを足掛かりに、アフリカ大陸西岸の探検に乗り出します。
ポルトガルの航路開拓はアフリカ西端のヴェルデ岬を回り、赤道付近のギニア湾を通過します。1488年にバルトロメウ=ディアスが、アフリカ最南端の喜望峰に到達しました。そしてついに1498年、ヴァスコ=ダ=ガマの船隊がインドのカリカットに到達したのです。
その後、ポルトガルの航路はアジアへと伸び、1511年にはマラッカに、1517年には中国南部の広州に到達します。人口が少なかったポルトガルは重要拠点の支配に専念します。
一方、ポルトガルに先を越されたスペインは、コロンブスに新航路開拓を命じます。コロンブスの船隊はポルトガルと反対方向に進み、1492年にカリブ海のサンサルバドルに到着しました。
カリブ海に到達したスペインは積極的に「新大陸」の探索を進め、現地に住んでいたインディオと接触します。探索の過程で金や銀などの富が確認されると、スペイン人の征服者たちが武装した兵士を引き連れて乗り込みました。
1521年、スペイン人のコルテスは、銃で武装した兵士を率いて現在のメキシコを支配していたアステカ王国を滅ぼします。1533年には同じくスペイン人のピサロが、現在のペルーにあったインカ帝国を攻め滅ぼしました。
中南米を征服したスペインは、現地に総督を送り込み直接支配を行います。そして、金や銀、現地の農場で生産された砂糖などの産物を宗主国に運び込みました。さらに、現地にいたインディオたちに対し、キリスト教への改宗を行いました。
このころのスペインの支配は過酷を極め、聖職者ラス=カサスは植民地先住民虐待の実態を報告するとともに、救済に乗り出しています。
17~18世紀:オランダ・イギリス・フランスの覇権争い
17世紀になると、スペイン・ポルトガルの力に陰りがみられるようになりました。かわって世界の海に進出したのが商人の国オランダです。オランダはスペインとの戦争に勝利して独立すると、持てる海軍力を使って世界各地に進出します。
オランダは東インド会社を設立し、アジアに進出しました。国力の衰えたポルトガルから香辛料貿易の主導権を奪い、現在のインドネシア一帯を植民地としました。このころがオランダの最盛期で、オランダ海上帝国の異名を持ちます。
しかし、オランダの栄光は長く続きませんでした。1588年にスペインの無敵艦隊に勝利したイギリスがオランダの前に立ちはだかったのです。そして、三度にわたる英蘭戦争によりオランダが敗北し、主役の座をイギリスに譲ります。
とはいえ、英蘭戦争に勝利したイギリスがそのままナンバー1になったわけではありません。イギリスの強力なライバルとなったのが隣国のフランスでした。
イギリスとフランスは、14世紀から15世紀にかけて百年戦争を戦った国同士です。17世紀末から19世紀初めまで続く、両国の植民地をめぐる一連の戦争は最初の百年戦争になぞらえて第二次英仏百年戦争とよばれています。
イギリスとフランスは3つの戦場で断続的に戦いました。一つはヨーロッパ宗主国での戦争です。諸国の王位継承に絡む戦争が多く、スペイン継承戦争やオーストリア継承戦争、七年戦争がこれにあたります。
二つ目の戦場はインドです。イギリスはマドラス(現チェンナイ)・ボンベイ(現ムンバイ)・カルカッタ(現コルカタ)を拠点としていました。対するフランスはシャンデルナゴルとポンディシェリを拠点とします。
三つ目の戦場は北アメリカです。イギリスが東部13州植民地を拠点としたのに対し、フランスはカナダやミシシッピ川流域を支配し、13州植民地を包囲しました。
これら3つの戦場で、イギリスとフランスは何度も戦いました。結局、1763年のパリ条約でイギリスはフランスから多くの植民地を獲得し、インドや北米の支配権を確立しました。
しかし、これらの戦争で戦費を使いすぎたイギリスは北米13州植民地に重税を課したため、植民地の人々が反発しました。背景には、13州植民地の人々がイギリスから移民した人々であったため、宗主国と対等だという意識が強かったことが挙げられます。そして、アメリカ独立戦争を経て、1783年に独立を達成しました。
18~20世紀前半:帝国主義による植民地拡大
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでは世界の歴史を大きく動かす大変革が始まっていました。のちに「産業革命」とよばれる一連の変革です。産業革命は、繊維工業などの軽工業から始まりました。石炭を動力とする機械の登場により、これまでよりも高い生産能力を獲得したのです。
製品の生産力が高まると、今まで以上に原材料が必要となります。そこで、ヨーロッパ諸国は競って海外植民地を獲得し、原料供給地にしようとしました。最も広大な植民地を獲得したイギリスの場合、宗主国面積の111倍に及ぶ植民地を支配していました。*7)
出来上がった製品は宗主国の消費だけでは足りず、海外植民地に輸出されました。つまり、植民地は製品の市場としても重要だったのです。
こうしたヨーロッパ諸国による海外植民地支配の思想や政策のことを「帝国主義」といいます。*8)他国の犠牲を顧みず、自国の利益を最優先する考えのことで、ヨーロッパ諸国は軍事力や経済力で海外を征服していったのです。
日本も植民地獲得に乗り出す
フランスとの植民地戦争に勝ち、インドの支配を強化したイギリスは、巨大市場である中国に目を付けました。1840年、イギリスはアヘンの密貿易を巡って、中国を支配していた清と開戦し勝利をおさめます。この戦争はアヘン戦争と呼ばれ、イギリスによる本格的な中国進出の幕開けとなりました。
中国に目をつけていたのはイギリスだけではありません。中国進出に遅れを取っていたアメリカは、捕鯨船の基地や中国貿易の中継点として日本に着目し、開国を要求しました。そして1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約を締結し、日本を開国させます。
世界経済に組み込まれた日本は、1868年に明治維新を成し遂げ、西欧列強に追いつくため富国強兵を行います。軍事力・経済力を増した日本は1894年に日清戦争に勝利し、日本で最初の植民地である台湾を獲得しました。
台湾を軍事的に征服した日本は、台北に台湾総督府を設置します。総督の下で民政長官を務めた後藤新平は近代的な建造物を建て、鉄道や水道・電気などのインフラを整える一方、抵抗運動は武力で徹底的に弾圧しました。植民地となった台湾は日本に砂糖や米を移出し、日本経済を支えました。
台湾の植民地支配は、第二次世界大戦で日本が敗北するまで続きました。終戦後、日本は台湾を含む海外植民地の全てを失っています。
植民地側の抵抗
欧米列強に支配された植民地側も、黙って支配を受け入れたわけではありません。たとえば、イギリスの植民地になっていたインドでは、イギリスのインド支配を担っていた東インド会社の傭兵シパーヒー(セポイ)が、実権を失っていたムガル皇帝バハードゥル=シャー2世を担ぎ上げて大規模な反乱を起こします。
反乱の直接的な原因は、「シパーヒーに配られた銃の薬包に豚や牛の油が塗られているとのうわさ」です。イスラム教徒にとって豚は「不浄の動物」とされ、嫌悪の対象となっていました。(聖典コーランで食べることを禁じられているため)*10)
また、ヒンドゥー教徒にとって、牛は破壊神シヴァの乗り物であり神聖な動物とされています。そのため、牛を殺したり食べたりすることが禁じられていました。*11)
こうした事情から、インドに住むイスラム教徒もヒンドゥー教徒もイギリスは自国の文化を尊重しないと捉えられました。その結果が、イギリスに対する抵抗運動へとつながったのです。
このインド大反乱はインド各地に拡大しましたが、軍事力で上回るイギリス軍に大敗してしまいます。その後イギリスは、形だけ残っていたムガル皇帝を廃し、ヴィクトリア女王を君主とするイギリス領インド帝国としました。こうして、総督による直接統治が強化されるのです。
ここではインドの例を取り上げましたが、同様の抵抗は中国では義和団事件、エジプトではウラービー(オラービー)の乱、東南アジア各国の抵抗運動といった形で表面化しました。しかし、いずれも宗主国の軍事力によって鎮圧されます。
20世紀後半:植民地の独立
ヨーロッパ諸国は2度の世界大戦により大きなダメージを受けました。特に、第二次世界大戦がイギリス・フランス・オランダなど、広大な植民地を持つ宗主国に与えた打撃は大きなものがあります。宗主国が軍事的・経済的に弱体化したのを機に、植民地独立運動が活発化します。
中国・南アジア・東南アジアの動き
独立の動きはアジアから始まりました。中国ではアメリカが支援する蒋介石と、ソ連が支援する毛沢東が第二次国共内戦を戦い、毛沢東が勝利しました。その結果、1949年に中華人民共和国が成立します。
また、イギリスがインドの独立を認めるインド独立法を認めたものの、ヒンドゥー教徒のインド連邦とイスラム教徒のパキスタンが分離独立しています。さらに東南アジアでは、オランダからインドネシアが、イギリスからマレーシア・シンガポールが、アメリカからフィリピンが独立しました。
仏領インドシナでも、インドシナ戦争でフランスの植民地支配を終わらせました。しかしその後、南北ベトナムに分かれて戦うベトナム戦争に発展してしまいました。
アフリカの動き
アフリカでも独立の機運が高まりました。アフリカ独立の中心となったのはガーナのエンクルマです。エンクルマは、イギリス領の植民地であるゴールド・コースト(現在のガーナ)で生まれました。幼いころから優秀だったエンクルマはアメリカに留学しますが、イタリアのエチオピア侵攻を聞いて怒り、植民地の打倒を目指します。
エンクルマはゴールドコーストで独立運動を主導し、1957年にイギリスからの独立を勝ち取り、国名をガーナとしました。エンクルマは他のアフリカ諸国の独立を支援し、アフリカ諸国の連帯に力を入れました。このエンクルマの動きは、他のアフリカ諸国を刺激します。そして、多くのアフリカ諸国が一斉に独立する「アフリカの年」を迎えました。
植民地となることにメリットはある?
大航海時代から始まった植民地支配は帝国主義の時代に最も強まり、2つの世界大戦を経てほぼ消滅しました。基本的に植民地支配は宗主国に大きなメリットをもたらします。一方で、植民地にされた側にはメリットがあったのでしょうか。ここでは植民地支配の遺産にスポットを当てて解説します。
インフラの整備が進む
実際のところ、外国の植民地になるメリットはほとんどありません。唯一メリットといえるのはインフラが整備されることです。イギリス領北ローデシア(現ザンビア)は、現在でも銅の産地として知られています。この地の銅をタンザニアの港湾都市ダルエスサラームまで運ぶため「タンザン鉄道」が敷設されました。
同様に、イギリスはインドでも鉄道網を整備しました。これは、綿花をはじめとする物資の輸送を効率化するためです。コルカタ・ボンベイ・マドラスなどでは大学を設立するなど高等教育も充実させています。
植民地のデメリット
植民地には宗主国の技術が持ち込まれ、整然とした街並みや各地を結ぶ鉄道網などが整備されます。しかし、これらのインフラ整備は、支配者である宗主国の利益を最優先していることを忘れてはいけません。ここからは、植民地になるとどのようなデメリットが出るのか、まとめていきます。
資源が収奪される
ヨーロッパ諸国がアフリカや中南米、東南アジアを植民地とした理由は、原料供給地を確保したかったからです。19世紀後半のヨーロッパでは、強大化した資本家(独占資本)が国家と結びついていました。
独占資本は、安価な原料調達先として植民地を確保するよう、国に対して働きかけます。植民地にされた地域では、不当に安い値段で原材料が買いたたかれ、宗主国に持ち去られました。
国内の経済成長が妨げられる
植民地では、宗主国が必要とする産物の生産が優先されました。最もわかりやすい例はオランダがオランダ領東インド(現インドネシア)で行った「強制栽培制度」です。
また、インドでは安価なインド綿を使って大量生産されたイギリスの綿布が逆輸入されました。これにより、インドの地場産業である綿布生産を廃業に追いやったのです。つまり、宗主国の原料・商品作物の調達が優先されることで競合する地場産業が衰退し、植民地経済が破壊されてしまうということです。
奴隷として労働力が流出する
流出するのは物資だけではありません。アフリカでは南北アメリカのプランテーションで不足する労働力を補うため奴隷狩りが行われ、人間が商品として輸出されました。
奴隷貿易によってアフリカから連れ去られた人の数は1,250万人以上と推計されます。このうち、約200万人が南北アメリカに向かう途中で亡くなりました。*16)労働力を奪われたアフリカの人的・経済的損失は計り知れないものがあります。
植民地だった国の現在
植民地だった国々は、段階を経て独立していきました。19世紀前半に中南米諸国がスペインやポルトガルから独立する一方、アフリカや南・東南アジアはイギリス・フランスをはじめとする欧米列強の植民地になっていきました。ここでは、20世紀まで植民地支配が続いたアフリカと東南アジアの現状を紹介します。
経済発展が遅れるアフリカ
アフリカ諸国は、1960年のアフリカの年の前後に相次いで独立しました。こうした国々の多くはアメリカを中心とする西側にも、ソ連を中心とする東側にも加わらず「第三世界」として影響力を行使します。
しかし、独立してもすぐに完全自立というわけにはいきませんでした。欧米諸国の都合により引かれた直線的な国境線は、民族分布を必ずしも反映していないため、しばしば紛争の原因となりました。
経済基盤が弱く、単一作物の輸出に頼るケースが目立つため、先進国との経済格差がなかなか埋まらない状態も続いています。こうした先進国と途上国の経済格差を「南北問題」といいます。
急速な経済成長を遂げた東南アジア
第二次世界大戦直後、東南アジア諸国は独立戦争などを経て、欧米から次々と独立を達成しました。東南アジア諸国はASEAN(東南アジア諸国連合)を結成し、経済的な連帯を強めました。
はじめは、自国で消費する工業製品を国内で生産する輸入代替型の工業が主体でしたが、やがて外資を積極的に導入し工業化を遂げました。
植民地に関してよくある疑問
ここからは植民地に関するよくある疑問について解説します。
植民地だった国一覧を知りたい
帝国主義の時代、ヨーロッパ諸国は世界各地を軍事的・経済的に支配し植民地化していました。第一次世界大戦がはじまる1914年には、ヨーロッパ系白人の支配地は8割を超えていたとされます。*17)そのため、ここでは欧米列強の植民地になっていなかった国をまとめています。
中南米 | ガイアナ、スリナム、仏領ギアナ |
アフリカ | リベリア、エチオピア |
東南アジア | タイ |
西アジア | サウジアラビア、イラン、アフガニスタン |
東アジア | 中国 ※中国は各地を租借され半植民地化 |
世界のほとんどが日本を含む列強によって分割されていたことがわかります。
日本も植民地だった?
幕末の日本は、欧米列強の植民地になる可能性がある国でした。イギリスとロシアは世界各地で衝突しており、日本周辺でも両国の緊張が高まりつつありました。そのため、江戸幕府の対応次第では、日本が植民地になっていたとしても不思議ではない状況でした。
しかし、明治維新後の日本は廃藩置県や富国強兵により中央集権化を達成し、急速に国力を増大させます。そして、明治維新から26年の時を経て日清戦争で勝利し、最初の植民地である台湾を手に入れるなど、世界における存在感を強めていきました。
植民地とSDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」との関わり
他国が軍事力や経済力で他国を支配する植民地は、SDGsの観点から見るとどのようなものなのでしょうか。今回はSDGs目標10「人や国の不平等をなくそう」から植民地をとらえます。
SDGs目標10の「人や国の不平等をなくそう」は国家間の不平等や国内での不平等の解消を目指しています。
【SDGs目標10の概要】
植民地になると、先進国の技術や資本により近代化が促進されるという考え方があります。この考え方は旧宗主国(宗主国)の立場から起こってきたもので「新植民地主義」といわれます。
たしかに、インフラ整備や教育の充実という点で一定の恩恵があったことは否めません。しかし、途上国は宗主国に成長機会を奪われ、経済的に搾取されてきたことを忘れてはいけません。
政治的な主権を奪われ、先進国が途上国を保護・指導するという考え方は国の平等に反する考え方であり、再考の余地があるでしょう。途上国で起きている諸問題の原因の中には、植民地支配も挙げられます。これを踏まえ、先進国は途上国に援助を行い、不平等の解消を行うべきではないでしょうか。
まとめ
今回は植民地の歴史や植民地化されることで起きること、植民地だった国の現在の様子などについて解説してきました。第二次世界大戦後、多くの植民地は独立しましたが、経済的に自立できている国は多くないのが実情です。
経済的な先進地域の多くは、植民地を支配する側でした。途上国の中にはASEAN諸国のように目覚ましい発展を遂げている地域がある一方、軍事独裁や経済的な困難で苦しんでいるアフリカ諸国のような事例もあります。
このような事実を踏まえ、先進国に住む私たちは適正な価格で途上国の産物を買い取るフェアトレードや寄付などで、格差を埋めるためのサポートをしてもよいのではないでしょうか。
参考
*1)日本大百科全書「植民地(しょくみんち)とは?」
*2)デジタル大辞泉「属領(ぞくりょう)とは?」
*3)日本大百科全書「保護国(ほごこく)とは?」
*4)デジタル大辞泉「租借(そしゃく)とは?」
*5)世界大百科事典 第2版「委任統治(いにんとうち)とは?」
*6)デジタル大辞泉「ラスカサスとは? 意味や使い方」
*7)浜島書店「アカデミア世界史」
*8)デジタル大辞泉「帝国主義(ていこくしゅぎ)とは?」
*9)デジタル大辞泉「後藤新平(ごとうしんぺい)とは?」
*10)朝日新聞GLOBE+「豚肉はなぜイスラム教でタブーなのか 食べてはいけない理由、中東で暮らして考えた」
*11)帝国書院「ヒンドゥー教徒の多いインドの牛肉輸出量が多いのはなぜですか。」
*12)旺文社世界史事典 三訂版「アフリカの年(アフリカのとし)とは?」
*13)山川 世界史小辞典「強制栽培制度(きょうせいさいばいせいど)とは?」
*14)旺文社世界史事典 三訂版「強制栽培制度(きょうせいさいばいせいど)とは? 」
*15)精選版 日宗主国語大辞典「プランテーション(ぷらんてーしょん)とは?」
*16)BBC「https://www.bbc.com/japanese/53550421」
*17)世界の歴史マップ「帝国主義 | 世界の歴史まっぷ」
*18)スペースシップアース「SDGs10「人や国の不平等をなくそう」の問題や解決策を徹底解説 – SDGsメディア『Spaceship Earth(スペースシップ・アース)』」