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湾岸戦争とは?起こった理由や日本への影響をわかりやすく解説!

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今から30年以上前の1991年、連日、湾岸戦争のニュースが報じられていました。中でも印象的だったのが、精密誘導兵器による攻撃を報じた映像です。この戦争で、アメリカをはじめとする多国籍軍は、数々のハイテク兵器を戦場に投入しました。

ステルス戦闘機F-117Aや劣化ウラン弾など、最新兵器が戦場に投入された結果、イラク軍は100時間で戦闘能力を失い、クウェートを放棄せざるを得なくなりました。

今回の記事では、湾岸戦争の特徴であるハイテク戦争や戦争が起きた背景、戦争の流れなどをとりあげます。また、戦後のイラク情勢や湾岸戦争が日本に与えた影響、SDGsとの関わりについても解説しますので、ぜひ、参考にしてください。

湾岸戦争とは

湾岸戦争とは、1990年のイラクによるクウェート侵攻を受け、アメリカなどが中心となり結成された多国籍軍がイラクと戦い、クウェートを解放した戦争です。*1)。

多国籍軍

複数国の合同軍のこと。湾岸戦争時に国連安全保障理事会の決議で結成された多国籍軍が有名*2)。

多国籍軍による攻撃でイラク軍は大打撃を受け、イラク軍は占領したクウェートを放棄して撤退しました。冷戦終結後に起きた最初の大規模戦争でしたが、アメリカ軍の圧倒的な強さを印象づける戦いとなりました。

ハイテク戦争だった湾岸戦争

湾岸戦争の戦場には最新の軍事技術が投入されました。その象徴ともいえるものが精密誘導弾(PGM)です。レーザーやGPSなどを利用して目標まで正確に誘導されるミサイルや爆弾の映像は、当時のニュースで何度も報じられました。

また、湾岸戦争にはステルス攻撃機も参加しています。ステルスとは、軍用機などを敵のレーダーから隠す技術のことで、戦略爆撃機のF-117Aなどで使用されました*3)。

一方、イラク軍の主力はソ連製の戦車であるT-72やT-55、Tー62などでした。しかし、最新技術への対応が遅れていたことや制空権を多国籍軍に奪われていたことなどが原因で、次々と撃破されてしまいました。

このように、湾岸戦争はテクノロジーの差が戦闘結果に直結することをまざまざと見せつけた戦争となったのです。

湾岸戦争が起きた背景

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湾岸戦争は、なぜ起きたのでしょうか。そこには、国境紛争が絶えない中東独特の事情が存在します。ここでは、湾岸戦争の背景となったイラン・イラク戦争の影響やイラクとクウェートの国境紛争について解説します。

イラン・イラク戦争による影響

湾岸戦争の背景には、イラン・イラク戦争による軍備拡大や多額の債務があります。イラン・イラク戦争は、1980年から88年にかけて起きたもので、イラクによるイラン侵攻ではじまりました。戦争の原因は、スンニ派とシーア派の対立や石油資源をめぐる争いで、イランを警戒するアメリカはイラクを支援しました。

スンニ派とシーア派の対立

スンニ派はイスラム世界の多数派。イラクのフセイン大統領はスンニ派だった。一方、シーア派はイランを中心とした地域に信者が多い。イラク国内にも多くのシーア派信者が存在した。フセインはイラン革命でシーア派政権が成立した影響が、イラクにも及ぶことを恐れたといわれる。

イラクは戦争を通じて軍事力を強化しましたが、戦費調達のため多額の債務を負いました。加えて、原油価格が低下したことで経済的に苦しくなっていました。このとき、イラクに多額の融資を行っていたクウェートは、債務の返済を迫りました。これにより、イラクとクウェートの関係が悪化しました。

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イラクはクウェートが自国領であると主張

もう一つの背景は、イラクとクウェートの国境問題です。1961年にクウェートが建国した際も、イラクはクウェートの領有を主張して国境に軍を集結させました*4)。イラクはクウェート侵攻を行った際も、クウェートは自国領だと主張しています。

イラクがクウェートを欲しがった理由の一つに、ブルガン油田の存在がありました。

ブルガン油田

クウェート市の南方50kmの地点にある世界有数の油田*5)。

サダム・フセイン大統領はクウェートを自国に併合することで、長年の国境問題と油田確保の両方の目的が達成できると考えた可能性があります。

サダム・フセイン

イラクの政治家。1979年からイラクの大統領となり、イラン・イラク戦争を引き起こした。1991年の湾岸戦争や2003年のイラク戦争で敗北し、2006年に死刑となった*6)。

湾岸戦争の流れ

湾岸戦争の流れは4つのパートに分けて考えることができます。

  1. イラクのクウェート占領
  2. 国連安保理がイラクの撤退を求める決議を行う
  3. 多国籍軍の攻撃開始
  4. クウェート解放

上記のパートに分けて、湾岸戦争の流れを解説します。

イラクのクウェート占領

1990年8月2日、イラク軍は突如クウェートに侵攻。クウェート全土を数時間で制圧しました。この時、フセイン政権はクウェートに傀儡政権のクウェート共和国を成立させました。しかし、国際的に認められなかったため、8月8日にクウェートのイラク併合を発表しました。

傀儡(かいらい)政権

他国によって思いのままに操られる政権を傀儡政権という。多くの場合、占領軍が占領地域の行政を代行させるために成立させる*7)。

8月18日、フセイン政権はクウェートを脱出できなかった外国人をイラク国内に強制連行して「人間の盾」として人質にすると発表しました。

人間の盾

戦争時に、敵の攻撃対象となる施設の内部や周囲に人質にした民間人を配置して攻撃をけん制する行為。戦時の傷病者や捕虜に関して定められたジュネーヴ条約では、戦争犯罪とみなされる*8)。

このとき、200名以上の日本人も人質となりましたが、日本政府やアントニオ猪木参議院議員らの活動により開戦前に全員解放されました。

国連安保理がイラクの撤退を求める決議を行う

イラクのクウェート侵攻を受けて開かれた国連安全保障理事会(安保理)は、イラクに対してクウェートからの即時撤退を求めました

安全保障理事会

国際連合の主要機関の一つで、国際平和の維持や国際紛争の解決を目指す機関。アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5つの常任理事会は拒否権をもっているため、他の国よりも強い権限を持つ*9)。

1990年11月29日、安保理はイラクが1991年1月15日までに撤退しない場合、武力行使を容認する決議を可決*10)し、クウェートからの撤退を要求しました。その際、ソ連がアメリカを支持したことは、冷戦終結を象徴する出来事となりました。

安保理決議で撤退を求められたフセイン政権でしたが、決議の受け入れを拒否してクウェート占領を継続しました。これを受け、アメリカを中心とする多国籍軍が編成されました。

多国籍軍の攻撃開始

1991年1月16日、多国籍軍による軍事行動「砂漠の嵐作戦」が始まります。最初に攻撃対象となったのはイラクの防空施設と通信網、政府関係の建物、兵器工場、橋、道路などでした。2月にはクウェートやイラク南部のイラク軍にも本格的な空爆が行われます。アメリカ軍を中心とする多国籍軍は、圧倒的な技術力の差と物量の差でイラク軍を打ち負かしました。

クウェート解放

1991年2月24日、「砂漠の剣作戦」と命名された多国籍軍による地上戦が始まりました。これは、右翼軍がクウェート正面でイラク軍と戦っているうちに、左翼軍が側面に回り込む作戦です。戦闘は多国籍軍が優位に展開しました。

2月27日、政治的な配慮として同じイスラム圏の国々が結成したアラブ合同軍が先にクウェート市に進出し、クウェートが解放されました。

その後、2月28日に戦闘が中止されました。これにより、イラク軍はクウェートから撤退。イラクによるクウェート併合は失敗に終わりました

湾岸戦争のその後

湾岸戦争はイラクの敗北に終わり、クウェートは領土と独立を回復しました。湾岸戦争は、地域にどのような影響を与えたのでしょうか。

イラクへの経済制裁は継続

湾岸戦争が始まったとき、安保理はイラクに対する経済制裁を決議しました。経済制裁の目的は、イラクをクウェートから撤退させることでした。経済制裁の主な内容は貿易の禁止と金融資産の凍結です。医薬品や食料品などをのぞき、ほぼすべての貿易が困難となりました。

イラクは輸出の9割を原油や天然ガスの輸出に依存しており、経済制裁でこれらの資源の輸出ができなくなったのです。これにより、イラクでは外貨が不足する事態となって、外国から食料品を購入できなくなり、食料不足となります。

湾岸戦争が終結した後も、経済制裁は継続されました。その結果、イラクの経済は急激に悪化しました。

イラク戦争までフセイン政権が存続した

湾岸戦争の敗北後、イラク南部では反フセインの蜂起が発生しました。しかし、フセイン政権によって鎮圧されました。南部の反乱を鎮圧したフセイン政権は、北部のクルド人の反乱を抑え込むため、軍を向かわせます。クルド人は、化学兵器を使った弾圧を受けたことがあるため、フセイン政権軍から逃れるためトルコ国境から脱出しました。

クルド人

トルコ・イラン・イラクの3国にまたがる地域に居住する民族。推定人口は2,500〜3,000万人とされる。1988年には、フセイン政権が約3,000人のクルド人を化学兵器で虐殺するというハラブジャ事件が引き起こされた*11)。

フセイン政権による反対派の弾圧を受け、アメリカ・イギリス・フランスなどはイラク北部に飛行禁止空域を設けてイラクの航空機の飛行を禁止しました。こうした国際社会に対する圧力は、イラク戦争まで続きました。

湾岸戦争が日本に与えた影響

湾岸戦争において、日本は110億ドルの経済支援を行いました。しかし、国内外から日本は資金提供だけしかしていないという批判が出たため、日本国内で国際貢献のあり方が議論されるようになりました。

自衛隊の海外派遣が議論されるようになった

湾岸戦争に際し、アメリカや近隣のアラブ諸国以外の国々も多国籍軍に参加していました。それに対し、日本の支援は経済援助にとどまりました。巨額の支援を行いながら、国際的な評価が高まらなかったことを背景とし、日本も人的な国際貢献をするべきではないかという議論が行われました

その結果、1991年6月にペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣する決定がなされました。

掃海艇

敵や味方が水中に設置した機雷を除去・破壊して航路の安全を確保するための艦艇*12)。

さらに、翌1992年に国連平和維持協力法(PKO法)が制定され、自衛隊を海外に派遣できるようになりました。その後、カンボジア内戦への自衛隊派遣イラク戦争での陸上自衛隊・航空自衛隊派遣などが行われるようになりました。

湾岸戦争とSDGs

戦争は、多くの人的被害・経済的被害をもたらす行為です。それと同時に、戦場となった地域の環境を大きく破壊してしまいます。今回は、湾岸戦争にともなう環境破壊について紹介します。

SDGs目標13「気候変動に具体的な対策を」との関わり

湾岸戦争時にはイラク軍の放火によって730本もの油井が炎上しました。この火災で、1日250万バレルの原油が燃え、大量の煤煙や硫黄酸化物、二酸化炭素が発生したとされています*13)。

現在、国際社会は二酸化炭素を含む温室効果ガスの削減に取り組んでいます。そのために、2015年にパリ協定が採択されました。しかし、一度戦争が起こってしまうと国際的な努力が無に帰してしまうようなことが起きます。湾岸戦争による二酸化炭素の大量排出もその一つです。

戦争は、人的な被害や経済的な被害だけではなく、地球環境にも大きな被害を与えます。そうした被害を引き起こさないためにも、戦争は避けなければならないのです。

【関連記事】SDGs13「気候変動に具体的な対策を」の現状と私たちにできることを徹底解説

まとめ

今回は、湾岸戦争について解説しました。イラクによるクウェート侵攻から始まった湾岸戦争は、比較的短期間のうちに決着しました。その理由は、多国籍軍とイラク軍の間にテクノロジーの圧倒的な差があったからです。

湾岸戦争後に続いた経済制裁や、イラク北部の飛行禁止空域の設定など、イラクに対する国際社会の圧力がかかり続けました。フセイン政権は湾岸戦争後も継続しましたが、2003年のイラク戦争により崩壊します。

日本では、国際貢献のありかたが議論され、自衛隊の海外派遣が行われるきっかけにもなりました。また、戦争による石油施設の破壊で、二酸化炭素や二酸化硫黄が大量に放出するといった環境被害が起こっています。現在のSDGsの観点からも戦争の回避が重要であることが再認識されています。

参考
*1)山川 世界史小辞典 改定新版「湾岸戦争
*2)山川 世界史小辞典 改定新版「多国籍軍
*3)百科事典マイペディア「ステルス
*4)改定新版 世界大百科事典「クウェート
*5)改定新版 世界大百科事典「ブルガン油田
*6)デジタル大辞泉「フセイン
*7)精選版 日本国語大辞典「傀儡政権
*8)デジタル大辞泉「人間の盾
*9)デジタル大辞泉「安全保障理事会
*10)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「湾岸戦争
*11)知恵蔵「クルド人
*12)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「掃海艇
*13)国立環境研究所「湾岸戦争に伴う環境破壊