2018年4月27日、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が会談を行いました。その場所が「板門店(パンムンジョム)」です。1953年、同じ板門店で朝鮮戦争の休戦協定が結ばれました。
朝鮮戦争は1950年から3年にわたって続いた戦争で、朝鮮半島のほぼ全土が戦場となり、半島全土が焦土と化した戦争です。この戦争により、韓国・北朝鮮の双方で軍民あわせて300万人以上が亡くなったといわれています。
では、朝鮮戦争とはどのような戦争だったのでしょうか。今回は、朝鮮戦争の概要や戦争の背景、朝鮮戦争の流れと戦後の朝鮮半島情勢、戦争が日本に与えた影響を紹介します。また、戦争とSDGsの関わりについても解説しますので、ぜひ参考にしてください。
目次
朝鮮戦争とは?
朝鮮戦争とは、1950年6月から1953年7月にかけて朝鮮半島でおきた戦争です。北朝鮮の侵攻によって始まった戦争で、アメリカ軍が主体となった国連軍と中国軍・北朝鮮軍が激しい戦闘を繰り返しました。*1)
朝鮮半島全域が戦場となった
北朝鮮の指導者だった金日成(キムイルソン)が、朝鮮半島を社会主義国家として統一するため、韓国に攻め込みました。状況を楽観視していた韓国軍や米軍は不意を突かれる形となり、各所で敗退を繰り返しました。
北朝鮮軍は、各地で韓国軍や米軍を撃破し、韓国南東部の釜山(プサン)に追い詰めます。その中で、当時日本の占領統治を行っていたマッカーサー元帥は、朝鮮半島西岸の仁川(インチョン)に上陸し、北朝鮮軍の補給路を断ち切りました。その後、米軍はソウルを占領します。
補給線を断たれた北朝鮮軍は北方に撤退しました。それを見た米軍や韓国軍は、北朝鮮軍を中国国境付近まで追い詰めました。すると、中国が”人民義勇軍”を派遣して戦線を北緯38度線まで押し戻します。
このように、朝鮮半島の北部から南部に至るまで、ほぼすべての地域が戦場になったため多くの民間人が犠牲となり、1,000万人もの離散家族を生み出しました。*2)
朝鮮戦争が起きた背景
ここからは、戦争勃発の背景である南北の分離独立と冷戦の激化について解説します。
南北の分離独立
朝鮮半島は、もともと一つの国(朝鮮王朝)としてまとまっていました。1910年、日本が朝鮮半島を植民地支配したときも、「朝鮮総督府」が設置され一体的に統治されていたのです。しかし、日本が連合国に降伏した後、朝鮮半島の北半分をソ連が占領し、南半分をアメリカが占領したことから、朝鮮半島の分断が始まります。
そして、米ソの対立による冷戦が激化すると、朝鮮半島は一つの国に統合されることなく、南北で別々の国が成立しました。
国名 | 首都 | 指導者 | 支援国 |
大韓民国(韓国) | ソウル | 李承晩 | アメリカ |
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) | ピョンヤン | 金日成 | ソ連 |
こうして、朝鮮半島の分断の歴史が始まったのです。
冷戦の激化
朝鮮戦争の背景には、冷戦の激化があります。冷戦とは、第二次世界大戦後の米ソ間の緊張を指す言葉で、戦闘のない敵対状態を意味します。ソ連の勢力拡大に対し、アメリカは「封じ込め政策」を展開して対抗したため、米ソの対立が深まりました。
冷戦中、アメリカを中心とした西欧諸国を西側、ソ連や東欧諸国を東側と呼んだため、東西冷戦ともよばれます*4)。
1940年代後半、アメリカ・イギリスの資本主義陣営とソ連率いる社会主義陣営は、世界各地で対立を深めていました。
たとえば、1948年にソ連は西ベルリンを封鎖し西側に強い圧力をかけました。それに対し、アメリカは「大空輸作戦」を展開して西ベルリンに物資を運び込み、ベルリン封鎖に対抗します。朝鮮半島による韓国と北朝鮮の独立も、こうした対立の一環とみなされした。
朝鮮戦争の流れ
1950年から1953年まで続いた朝鮮戦争は、4つの段階に分けられます。
- 北朝鮮軍の侵攻
- 国連軍の反撃
- 中国人民義勇軍の参戦
- 休戦
詳しい内容を確認していきます。
北朝鮮軍の侵攻
1950年6月25日、北朝鮮軍は北緯38度線に展開していた韓国軍を突破し、韓国領土に進撃を開始しました。戦争開始からわずか3日で首都ソウルが陥落し、韓国軍は南に敗走しました。
戦争序盤で北朝鮮軍が強かったのは、金日成が念入りに戦争準備をしていたからだと考えられます。金日成は、戦争開始前にソ連の指導者スターリンから戦争容認を取り付けたり、最新戦車のT-34を導入したりなど、入念に侵攻準備をしていました。*5)
そのため、戦争開始から70日間は北朝鮮軍の圧倒的優位が続き、韓国軍と韓国を支援する米軍は朝鮮半島南東部の釜山や大邱(テグ)に追い詰められます。
米軍主体の国連軍による反撃
朝鮮半島での米軍・韓国軍の苦戦を打開するため、総司令官マッカーサー元帥は大胆な作戦を考えます。首都ソウルに近い朝鮮半島西岸の仁川に部隊を上陸させ、北朝鮮軍の後方を遮断して補給線を断つ作戦です。
1950年9月15日、米軍は仁川上陸作戦を成功させ、奪われていた首都ソウルを取り戻しました。後方を遮断された北朝鮮軍は、南北から挟み撃ちされ12万5,000人もの兵士が捕虜となりました*7)。
中国人民義勇軍の参戦
1950年10月、韓国軍は北緯38度線を超えて北朝鮮領内に進撃を始めました。米軍も北朝鮮領内に侵入します。追い詰められた金日成は、ソ連に援軍派遣を求めます。しかし、スターリンはソ連による直接支援を断り、中国に支援を依頼するようアドバイスします。
スターリンは、アメリカの目を朝鮮半島に向けさせ、その間にヨーロッパで勢力を拡大しようとしていたといわれています。一方、中国の毛沢東は朝鮮戦争に巻き込まれることを予想し、戦争準備をしていました。
中国は人民解放軍を彭徳懐を司令官とし、「人民義勇軍」という志願兵の形で朝鮮半島に送り込みます。
彭徳懐率いる中国軍の参戦により、北朝鮮軍は戦線を南に押し下げ、両軍は北緯38度付近でにらみ合うこととなりました。中国の参戦を受け、国連総会では侵略者と非難する決議が採択されました*7)。
その後、戦線の膠着を打破しようと、マッカーサーは中国東北部の爆撃を主張しました。しかし、トルーマン大統領は中国との全面戦争を望んでいなかったため、1951年4月にマッカーサーを解任しました*8)。解任されたマッカーサーはGHQの司令官の任も解かれ、日本からアメリカに帰国します。
休戦
1951年6月以降、戦線は膠着状態となり互いに強力な陣地を築いて戦う消耗戦に移行しました。1951年6月に、ソ連が休戦を提案し、7月から休戦会談がスタートしました。休戦交渉は1953年7月まで断続的に行われましたが、その間も戦闘が継続していました。
1953年7月27日、国連軍(米軍)・韓国軍と中国軍・北朝鮮軍の間で休戦協定が板門店で結ばれました。
戦争における被害は甚大なものとなりました。韓国の戦死者は約25万7,000人で一般市民の犠牲者は99万人に達しました。また、北朝鮮側の死亡者は戦死者・疾病・飢餓をあわせて250万人に及びます。中国軍の戦死者も50万人を数え、軍民あわせて100万人以上が犠牲になったと推定されます*10。
しかし、この時成立したのはあくまでも「休戦協定」であって、朝鮮戦争が終戦したわけではありません。したがって、北朝鮮と韓国がいつ戦争になってもおかしくないのです。
朝鮮戦争のその後
朝鮮全土が焦土と化した朝鮮戦争は、その後、どのように変化したのでしょうか。朝鮮戦争後の朝鮮半島についてまとめます。
朝鮮半島の分断が固定化した
朝鮮戦争後、北緯38度線付近に軍事境界線が設置されました。
朝鮮半島の軍事境界線の場合、韓国軍と北朝鮮軍はそれぞれ2km後方に撤退し、その地域は非武装地帯となっています。
朝鮮戦争後、北朝鮮では金日成の政権が続きました。1994年に金日成が死去すると、長男の金正日が政権を引き継ぎます。金正日の死後は、金正日の三男である金正恩が北朝鮮の最高指導者となり、現在に至っています。
一方、韓国では李承晩の政権が続きましたが、不正選挙が問題となり1960年に辞職しています。李承晩退陣後、韓国では朴正煕(パクチョンヒ)・全斗煥(チョンドファン)・廬武鉉(ノムヒョン)など軍事政権の時代が続きましたが、1990年に文民政権に移行しています。
朝鮮戦争が日本に与えた影響
隣国でおきた朝鮮戦争は、日本にも大きな影響を与えました。ここでは、特需と警察予備隊の結成について解説します。
”特需”による好景気
朝鮮戦争において、日本は米軍の後方補給基地としての役割を担いました。アメリカは、日本企業に軍需物資や韓国復興用の資材を日本企業に発注したため、輸出が急速に伸びました。朝鮮戦争による需要の急増を「朝鮮特需」といいます。
これまで、日本企業は1,000億円もの過剰在庫を抱えていましたが、アメリカの注文によりそれが一気に整理され、企業利益は軒並み急上昇しました。米軍が朝鮮戦争の3年間で注文した金額は約10億ドルに及びました*10)。
警察予備隊の結成
朝鮮戦争の勃発は、GHQの占領政策を大きく変化させました。占領当初、GHQは日本軍の解体による日本の非軍事化を目指しました。その方針に沿い、日本は日本国憲法第9条において平和主義を掲げました。
しかし、朝鮮戦争が勃発すると日本にいた米軍(駐留軍)は朝鮮半島に派遣されます。空白となった日本の軍事力を増強する必要を感じたマッカーサーは、吉田首相に警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を指示しました。
朝鮮戦争とSDGs
朝鮮戦争は、多くの犠牲者を出す悲惨な戦争となりました。戦争は「誰一人取り残さない」ことを掲げるSDGsの立場から見れば、あってはならないことです。今回は、朝鮮戦争とSDGs目標16「平和と公正をすべての人に」との関わりについて解説します。
SDGs目標16「平和と公正をすべての人に」との関わり
SDGs目標16の「平和と公正をすべての人に」は、世界から紛争や暴力、差別を根絶し、国民を守るための公正な裁判が行われる社会の実現を目指す目標です。*14)
戦争が起きると、戦いに巻き込まれて命を落としたり、生活基盤を奪われたりするため、まともに生きることが困難になります。戦争によって住んでいる地域を追われた人々は難民となり、周辺地域に流出していきます。戦争が発生すると、以下の点が懸念されます。
- 貧困問題の加速
- 食料不足
- 衛生環境の悪化
実際、朝鮮戦争でも多くの人が殺され、安全な場所を求めて人々が半島内で避難先を探しました。戦争は、これまで築き上げたものを一瞬で破壊してしまうことを忘れてはならないのです。
まとめ
朝鮮戦争は1950年から1953年にかけて、北朝鮮と韓国の間で起こった激しい戦争でした。東西冷戦の影響を受け、朝鮮半島全域が戦場となり、多くの犠牲者と離散家族を生み出しました。
この戦争は日本にも大きな影響を与え、特需景気をもたらす一方で、警察予備隊の設立など国際情勢の変化に対応する動きもありました。
戦争の悲惨さを考えると、その予防が最も重要です。一度始まれば制御が難しくなるため、戦争を未然に防ぐ努力が不可欠です。平和な世界を維持するためには、国際社会全体で協力し、対話を重視する姿勢が求められます。
参考
*1)山川 日本史小辞典 改定新版「朝鮮戦争」
*2)山川 日本史小辞典 改定新版「金日成」
*3)山川 日本史小辞典 改定新版「李承晩」
*4)改定新版 世界大百科事典「冷戦」
*5)改定新版 世界大百科事典「朝鮮戦争」
*6)山川 世界史小辞典 「マッカーサー」
*7)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「朝鮮半島」
*8)デジタル大辞泉「彭徳懐」
*9)日本大百科全書(ニッポニカ)「朝鮮戦争」
*10)防衛研究所 赤城完璽著「朝鮮戦争ー日本への衝撃と余波ー」
*11)デジタル大辞泉「軍事境界線」
*12)日本大百科全書(ニッポニカ)「金正日」
*13)スペースシップアース「SDGs16「平和と公正をすべての人に」の現状と日本の取り組み事例、私たちにできること」