数年に渡ってウクライナへの侵攻を続けているロシアは、社会主義体制を敷く国としても知られています。
この社会主義体制をとるきっかけのひとつとなったのが「ロシア革命」です。
この記事では、ロシア革命が起こった経緯や流れを分かりやすく説明し、現在のロシアを知るためのヒントをお伝えします。
目次
ロシア革命とは
ロシア革命(Russian Revolution)とは、1917年に起きた2度にわたる革命を指します。
一度目の革命は二月革命、二度目の革命は十月革命と呼ばれることが多く、ロシア帝国時代からソビエト連邦社会主義連邦への移行期間において、どちらも重大な出来事として知られています。
ロシアでは1918年2月までユリウス暦を使用していたため、西暦上では二月革命は3月、十月革命は11月に起きています。
この記事では、現代の西暦に沿って示した年表を使用して説明します。
ロシア革命の前史
まずはロシア革命が起こる前の時代背景を知っておきましょう。
革命が起こる前までのロシアでは、長らく皇帝による支配が続いていました。
特に、直近300年ほどはロマノフ王朝が支配しており、強大な力を掌握していました。
しかし1917年当時の皇帝・ニコライ二世の評判はあまりよくありませんでした。その理由は、当時の歴史的な背景から探ることができます。掘り下げて見ていきましょう。
産業革命と食料飢饉
西洋では18世紀後半から産業革命が起き、社会システムの近代化が進んできました。一方ロシアでは、西欧から大きく遅れをとった19世紀末ごろのタイミングで産業革命が起こります。
この影響で、1890年から1910年までに、サンクトペテルブルグやモスクワのような都市では、人口がほぼ2倍に膨れ上がり、食料の供給が追い付かない状況になっていきました。
1891年からの1年間、飢餓で亡くなったロシア人は40万人ともいわれ、都市部では多くの人々が困窮に苦しんでいたといいます。
日露戦争と血の日曜日事件
1904年には、日露戦争が勃発しました。この戦争でロシアは敗北し、世界的にもロシアの立場が弱くなってしまいました。
さらに1905年、非武装の民間人が、よりよい生活環境を求めて平和的なプロテスト運動を行ったにもかかわらず、皇帝の軍隊によって何百人もの命が奪われる「血の日曜日事件」が発生します。
この出来事に怒った労働者たちは、大規模なストライキによって反抗し、社会に大きな混乱を招きました。
第一次世界大戦の勃発
1914年、セルビア人青年がオーストリア・ハンガリーの帝位継承者夫妻を殺害した事件をきっかけに、第一次世界大戦が始まりました。
ロシアは汎スラヴ主義の立場から、イギリスやフランスの支援をすることになり、ドイツなど協定国に対して宣戦布告を行います。
第一次世界大戦は、4年以上の長期戦になりました。ほかの国に比べ近代化が遅れていたロシアでは、農民が戦争に駆り出されます。これにより、農産物の生産性が低下してしまいました。
また都市部でも、鉄道の輸送が戦争優先で使用されたために穀物の供給が滞り、生活に困窮する国民が続出していきました。
さらにドイツに対し劣勢だったことから、当時の皇帝・ニコライ二世への不満が噴出していきます。
こうしたさまざまな歴史的背景が重なり、ロシアでは最初の二月革命へと発展していきました。
二月革命とは
二月革命とは、1917年3月(ロシアのユリウス暦では2月)、労働者による暴動とストライキを発端に起きた一連の出来事を指します。
この革命によって、ロシアでは数世紀にわたって続いていた皇帝による支配が終わり、次なる段階へと進んでいきました。
年表
年月 | 出来事 |
---|---|
1917年3月8日 | ロシアの首都・ペトログラードで、労働者による暴動とストライキが発生 |
1917年3月10日 | ペトログラード全土の労働者に広がり、一部の暴徒が警察署を破壊 |
1917年3月11日 | ペトログラード駐屯軍による鎮圧が行われるも失敗 ニコライ二世がその日のうちに議会を解散 |
1917年3月12日 | ペトログラードの守備隊が次々と亡命。革命が成功 帝国政府が退陣、兵士が結成した委員会の代表による臨時政府(ペトログラード・ソビエト)が樹立 |
1917年3月15日 | ニコライ二世が退位。弟のミヒャエルに譲位するも拒否されたため、皇帝による支配が終焉を迎える |
大規模な暴動とストライキの発生
1917年3月8日に起きた大規模なストライキでは、ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)じゅうの労働者を巻き込みました。その数は9万人にも及んだといいます。
デモ隊はニコライ二世が率いる警察によって鎮圧が図られましたが、彼らが通りから立ち去ろうとすることはありませんでした。
これまでの食糧難や政治の手腕の悪さから、多くの市民がニコライ二世への不満を爆発させたのです。
臨時政府の樹立と方向性
労働者や兵士によってつくられた臨時政府は、すでに抱えていた食糧難や困窮への解決を図る一方、ロシアの第一次世界大戦への参加を容認しました。
しかし多くの市民が困窮する中で、莫大なお金がかかる戦争の容認は許されるはずもなく、人々の間でさらなる不満が増していくことになります。
人々の不安は治安の悪化にも表れ、都市部では暴動が増加し、農村部では農場の略奪が相次ぎました。
このような状況に置いて、次なる革命につながる重要な人物となっていったのが、ウラジミール・レーニンです。
ウラジミール・レーニンの登場
ウラジミール・レーニン(本名:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)は、ロシアの中級労働者家庭に生まれ、世界で初めての共産主義による国家を作った人物です。
大学在学中には、マルクス主義を唱え始めます。しかし当時のロシアでは、マルクス主義や共産主義といった思想は「急進的で危険」とされており、1890年代にはマルクス主義活動をしていたとして逮捕され、シベリアへ追放されました。
1905年に一度ロシアへ帰国し、ストライキに参加するも、事態の収束後には再度シベリアへ追放され、ドイツ、スイスへと亡命しました。
その間もレーニンは、共産主義がロシアの人々を救うのではないかと考え続けていました。
1917年、二月革命が起き、ロシアの困窮状態がさらに悪化していることを知ったレーニンは、ロシアへ帰国します。
その後、レーニンという偽名を使ってボリシェヴィキ党を結成し、労働者をはじめとした国民の支持を集めていきました。
なお、ロシアから国外追放を受け、亡命しているはずのレーニンが大きな問題なくあっさりと帰国できたのは、ドイツが自国の通過を黙認したからとされています。
その理由は、レーニンを帰国させることで、国内に混乱をもたらし、また反戦社会主義者である彼の登場によって、ロシアの戦争努力が弱体化することを期待したためでした。
当時のロシアにおける共産主義とは?
共産主義(Communism)は、カール・マルクスが唱えた思想のひとつで、マルクス主義ともいわれます。
共産主義思想の根幹は、所有物を国民みんなで平等に分割し、公正な社会を維持するものとされていました。
しかし実際のロシアで行われたのは、少数の支配者による大規模な殺戮でした。実際、レーニンの死後、支配者として立ったスターリンは、世界でヒトラーに次ぐ殺人者といわれています。
ボリシェヴィキの台頭
ボリシェヴィキは、共産主義をロシアに導入することを目的として組織されました。
スローガンには「Peace, bread ana land(平和とパン(=食糧)、国土をもたらす)」を掲げ、当時の革命派のリーダーとしてレーニンが活躍しました。
また、レーニン率いるボリシェヴィキは、確固として戦争反対を表明していたのも、多くの市民の支持を集めた理由と言われています。
二月革命後は臨時政府が政治を担っていました。しかし、結局は皇帝支配時代の兵士やブルジョワを中心とした政治で市民の声が十分に汲み取られていなかったことに加え、貧困問題が解決されずに戦争への参加も続いたため、国民の不満が消えることはありませんでした。
さらにレーニンとボリシェヴィキの登場によって政治の情勢が大きく変化し、十月革命へと発展していきます。
十月革命とは
十月革命とは、1917年11月6、7日(ロシアのユリウス暦では、10月24、25日)に起きた、ほぼ無血のクーデターを指します。
ロシアに帰国し、労働者を中心とした支持を集め大きな権力を持つようになったボリシェヴィキと、党のリーダーであるレーニンによって行われました。
年表
年月 | 出来事 |
---|---|
1917年10月 | ペトログラード・ソビエト議会で、ボリシェヴィキが議席の過半数を獲得 |
1917年10月 | ボリシェヴィキが秘密裏に会議。クーデターの計画を企てる |
1917年11月6、7日 | ボリシェヴィキの武装兵(Red Guards)がペトログラードの要所を平和的に占領 |
1917年11月7日 | レーニンによって臨時政府の打倒が宣言される |
1917年11月8日 | ソビエト臨時議会が政権の移譲を行い、レーニンを議長とする新臨時政府が樹立。ソビエト社会主義国への準備が開始へ |
十月革命と二月革命の違い
十月革命における二月革命との大きな違いは、二月革命が大勢の労働者(市民)を中心とした革命であったのに対し、十月革命ではボリシェヴィキの中心メンバーという少人数のみによって行われた点です。
また十月革命は主に政治の場を舞台として起こったものであり、背後にはボリシェヴィキ以外の立場である複数の政治家の策略や意図が複雑に絡みあって起こったものだといえます。
それでも十月革命は、最終的にはボリシェヴィキを支持した大勢の市民のサポートがあってこその出来事でした。
十月革命からソビエト社会主義共和国へ
十月革命によって政権のトップに立ったレーニンは、世界で初めてマルクス主義の思想を掲げた国のリーダーとなりました。
1918年1月、レーニンはボリシェヴィキの武装兵を使い、それまで代表議会制だった憲法制定議会を閉鎖します。この出来事によってソビエト議会ではボリシェヴィキ(3月に共産党へ改名)以外の政党を禁止し、実質的にはレーニンの独裁政治へとなっていきました。
レーニンはマルクス主義の国づくりのため、工業の国有化や土地の分配など、共産主義に基づいた国策を進める一方、皇帝主義の勢力とも戦いを続ける必要がありました。
1920年には、皇帝勢力が敗北し、1922年にソビエト社会主義共和国連邦(USSR)が成立しました。
1924年、レーニンが死去すると後継者争いが勃発します。激しい争いの末、仲間である革命家ヨシフ・スターリンがレーニンの跡を引き継ぎ、当時のロシアを厳しい社会主義体制へと導くことになりました。
ロシア革命が世界に与えた影響
ロシア革命によって、当時まだ第一次世界大戦下にあったヨーロッパでは、さまざまな戦略や憶測が飛び交いました。
中でも敵対国であったドイツにとって、ロシアの戦争努力の弱体化は大きなメリットだったでしょう。
十月革命が起き、ソビエト連邦が成立したことによって、第一次世界大戦は収束に向かいました。とはいえ、第二次世界大戦やその後に続く冷戦のように、ロシア革命を発端としたソビエト連邦の動きが世界に与えた影響は大きかったといえます。
またレーニンは、ソビエト連邦を作る段階で欧州のマルクス主義者を集めた組織・コミンテルンを結成しました。
コミンテルンの結成によって、マルクス主義の思想を持った国家体制を世界へ発展させるのが目的だったようですが、実際はそこまでには至りませんでした。
ロシア革命とSDGs
最後に、ロシア革命とSDGsとの関連性について確認しておきましょう。
二月革命と十月革命はそれぞれ異なる性格を持ちますが、事の発端は食糧難にはじまる市民の困窮であり、SDGs目標1「貧困をなくそう」に関連するといえます。
目標1「貧困をなくそう」との関わり
本来のSDGs目標では、暴動やストライキによる貧困の解消の実現は明記されていないものの、それほどの大事態に至るほど貧困や食糧難は人々にとって重大であり、皇帝支配時の政府が市民に対して人権侵害を行っていたことにもなります。
そうした状況を改善するために、現代に生きるわたしたちは貧困の原因となる社会システムを見つめ直し、できることを考える必要があるでしょう。
【関連記事】SDGs1「貧困をなくそう」私たちにできることや取り組み事例を徹底解説
まとめ
今回はロシア革命について、歴史的な流れや背景を中心にお伝えしました。
世界の中でもとりわけ大きな国土を持つロシアですが、それゆえ政治的な混乱は多く、ソビエト連邦の誕生に至るまでにもさまざまな困難や衝突があったことが分かります。
現在のロシア情勢を知る上でも重要な出来事であるロシア革命について、ぜひ歴史を学び、どのような流れによって今のロシアがあるのかを理解しておきましょう。
<参考リスト>
文字と画像で見る | 第31回 ロシア革命 | 世界史 | 高校講座
Russian Revolution: Causes, Timeline & Bolsheviks | HISTORY
What was the Russian revolution? – BBC Newsround