神道は、森羅万象に八百万の神々が宿るとされる自然への畏敬の念と感謝の気持ちから生まれた、日本古来の宗教です。神道は文字の利用が始まる以前の昔に起源があり、日本の歴史や文化、そして日本人 の精神性に深く根付いています。
神道について知ることは、私たちが祖先から受け継いできた日本人の心をより深く理解することにつながります。神道への知識を広げて、日本の文化や歴史を探求しましょう!
神道の教派、教え、仏教との違いなどもわかりやすく解説します。
神道とは
【宮地嶽神社の玄界灘へ伸びる参道 福岡県福津市】
神道は、縄文時代ごろから始まったとされる、日本土着の民俗信仰に起源を持つ信仰です。はるか長い歴史の中で、仏教や儒教などの外来思想と融合しながら、日本人の生活文化に深く根付いてきました。
神道の特徴
神道には、明確な教義や教典がありません。むしろ、さまざまな民間信仰の集合体といえます。
その中で、信仰の根底にある考え方は、「森羅万象に神が宿る」という自然観と、「浄明正直」※を重視する倫理観です。また、神道では、氏神※を信仰することも特徴的です。
日本人にとっての神道
神道は、現代にいたっても日本人の生活や文化に深く根付いた信仰です。神社での祭祀や、正月の初詣、お盆の先祖供養※など、日本人の生活の中に神道の影響が色濃く反映されています。
また、日本の伝統芸能や年中行事にも、神道の要素が色濃く残されています。このように、神道は日本人の精神性の基盤をなす重要な存在なのです。
古事記の中の神々
古事記は、712年に完成した日本最古の歴史書です。神話、天皇の系譜、古代の出来事などが記されており、日本の神道における重要な文献の1つです。
神道の起源は古事記の成立よりもはるか昔ですが、古事記の研究は古代の神道の神話や信仰を理解する上で重要な鍵となります。古事記に登場する代表的な日本古来の神々を紹介します。
天之御中主尊(あめのみなかぬしのかみ)
日本神話の中で最も初めに登場する神が、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。古事記では、この神が別天津神の一柱として、天地創造の際に最初に姿を現したとされています。
天之御中主神は、その名の通り、天の真ん中を統治する最高の神格とされています。しかし、この神の事績については、古事記や日本書紀にほとんど記述がありません。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)
古事記において、伊邪那岐命と伊邪那美命は、天地創造に関わる神として登場します。天地未分であった頃、二神は高天原に降り立ち、矛(ほこ)を突き立てて海をかき混ぜます。
矛の先から滴り落ちた潮が積もり、淤泥(おどろ)と呼ばれる泥状のものが生まれました。これが大地の基盤となります。
二神は淤泥の上に立ち、夫婦神として契りを結ぶと、天之御柱と地之御柱を巡り、 淡路島 をはじめとする八島(日本の国土)を生み出します。その後は島々だけではなく、山川草木、そしてさまざまな神々までもが、伊邪那岐命と伊邪那美命によって生み出されます。
天照大神(あまてらすおおみかみ)
天照大神は、日本神話に登場する最高神であり、太陽神として知られています。古事記や日本書紀では、天照大神は高天原を統べる主宰神として描かれ、皇室の祖神とされています。
神武天皇をはじめとする天皇は、天照大神の血筋を受け継ぐと信じられてきました。そのため、天照大神は皇室の繁栄と日本全体の平和を守る神として、人々から深く信仰されてきました。
月読命(つくよみのみこと)
月読命は、古事記や日本書紀に登場する、月を神格化した神です。一般的にはツクヨミと呼ばれますが、ツキヨミと読まれる場合もあります。
月読命は、天照大神と双子の神であり、須佐之男命の兄神にあたります。月読命は、神話の中ではあまり目立った活躍をしていません。
しかし、その静けさゆえに、深い謎と魅力を持つ神様として、多くの人々を惹きつけています。
須佐之男命(すさのおのみこと)
須佐之男命は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、素戔嗚尊、などさまざまに表記される、日本神話に登場する代表的な男神です。荒ぶる神として知られ、八岐大蛇退治※などの神話で活躍しています。
須佐之男命は天照大御神の弟神として生まれました。しかし、高天原での粗暴な振る舞いから姉神に追放され、出雲へ降ります。
そこで八岐大蛇を退治し、櫛名田比売命を妻に迎えます。妻との間に多くの神々を生み、出雲の神々の祖神となったとされています。
また、平安時代以降は牛頭天王と習合し、疫病除けの神としても信仰されています。
大国主神(おおくにぬしのかみ)
大国主神は、日本神話に登場する最も重要な神の一柱です。国土経営、農業、医術、婚姻など、さまざまな分野で活躍した神として今も信仰を集めています。
出雲大社をはじめ、全国各地に大国主神を祀る神社が数多く存在します。大国主神は、江戸時代以降には仏教の大黒天と習合し、七福神の一柱となりました。
大黒天は、財福や商売繁盛の神として信仰されています。
次の章では、長い神道の歴史を紐解いていきましょう。*1)
神道の歴史
【楊洲周延作「本朝拝神貴皇鏡」】
神道の歴史は古く、縄文時代ごろに形成された自然信仰に遡ると考えられています。やがて大和王権によって国家の祭祀として整備され、律令時代には祭祀制度が体系化されていきました。
それでは、神道の歴史を縄文時代から見ていきましょう。
縄文時代(紀元前14000年頃~紀元前10世紀頃)
縄文時代の人々は、自然の力や精霊を畏敬し、豊作や安全を祈願する信仰を持っていたと考えられています。遺跡からは、太陽や月、山、川、動物などを模した土偶や岩偶が出土しており、これらは自然への畏敬の念や精霊信仰の表れと考えられています。
【八戸市風張1遺跡出土の合掌土偶】
祖先崇拝
縄文時代には、死者を埋葬する習慣がすでに存在していました。また、副葬品として土器や石器などが供えられたことから、死後の世界への信仰があったと考えられています。
これらの祖先崇拝は、神道における祖霊信仰の基盤となったと考えられています。
呪術・儀礼
縄文時代の人々は、呪術や儀礼を通して、自然の力や精霊と交流し、豊作や安全を祈願していたと考えられています。遺跡からは、祭祀が行われたと推測される広場や、呪術に使われたと思われる道具類が出土しています。
このような呪術や儀礼は、神道における祭祀や儀礼の起源と考えられています。
弥生時代(紀元前10世紀頃~3世紀中頃)
【鏡・剣・玉】
弥生時代は、日本列島における灌漑による稲作文化の普及と社会の変革が進んだ時代です。同時に、人々の精神世界においても大きな変化が起こり、後の神道の基盤となる信仰形態が育っていきました。
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と青銅器祭祀
弥生時代中期以降、方形周溝墓※と呼ばれる新たな墓制が各地に広まりました。これらの古墳からは、青銅製の祭祀道具や副葬品が出土しており、後の神社建築に通じる独立棟持柱を持つ大規模な建物跡も発見されています。
卜骨と鏡・剣・玉
弥生時代後期には、鹿などの骨を焼いて占う卜骨が各地で出土しています。また、副葬品として鏡、剣、玉など、後の神道において重要となる神器が用いられ始めました。これらの遺物から、弥生時代の人々が、霊的な存在や神々への信仰を深めていたと考えられます。
魏志倭人伝における「鬼道」
3世紀の中国の歴史書「魏志倭人伝」※には、邪馬台国の女王卑弥呼が「鬼道を事とし、衆を惑わすこと能ふ」と記されています。この「鬼道」は、呪術や占いなどを含むシャーマニズム的な要素が強い初期の神道を指すと考えられています。
古墳時代 (3世紀中頃~7世紀頃)
【仁徳陵古墳(大仙古墳) 大阪府堺市】
3世紀ごろ、大和王権が成立すると、宗像大社や大神神社などの最初期の神社で祭祀が行われるようになりました。4世紀後半には、これらの神社での祭祀がさかんになり、神道の原型が形成されたと考えられています。
5世紀以降は、大和王権の祭祀が、さらに日本列島各地に広がっていきました。
天孫降臨と神武天皇即位
古事記に描かれた天孫降臨と神武天皇の即位は、古代日本の神道の歴史において重要な出来事です。
古事記によると、天照大神の子孫である瓊瓊杵尊(邇邇芸命 ににぎのみこと)が、天から日本の地に降臨したと記されています。この天孫降臨の神話は、天皇家の神聖性と正統性を主張する上で重要な役割を果たしました。
この天孫降臨の後、紀元前660年に瓊瓊杵尊の子孫である神武天皇が即位したとされています。
【神武天皇 畝傍山東北陵 奈良県橿原市】
大和王権の成立と祭祀
3世紀頃、大和地方に大和王権が成立しました。大和王権は、自らの権威を強化するために、神道的な祭祀を積極的に取り入れました。特に、奈良県桜井市の箸墓古墳や纒向遺跡は、初期の大和王権の祭祀拠点として重要な役割を果たしたと考えられています。
宗像大社と大神神社
4世紀後半になると、福岡県宗像市沖ノ島の宗像大社や奈良県桜井市の大神神社で、国家祭祀が行われていたことが確認されています。これらの神社は、後の神道の重要な拠点となり、神道信仰の普及に大きく貢献しました。
飛鳥時代 (592年~ 710年)
【聖徳太子により法隆寺の鎮守社として創建された龍田神社 奈良県生駒郡斑鳩町】
飛鳥時代は、日本史において律令国家体制が確立する重要な時代であり、同時に神道も大きな変革期を迎えました。古墳時代の自然崇拝に基づいた信仰形態を受け継ぎながらも、大陸からの思想や政治制度の影響を受け、新たな祭祀体系や神殿、神職制度などが形成されました。
朝鮮半島や中国との交流が盛んになった飛鳥時代には、儒教や仏教などの大陸思想が流入し、神道にも影響を与えました。特に、儒教の影響は大きく、神道を道徳的な側面から捉える考え方が生まれました。また、仏教との習合も進み、神仏習合と呼ばれる独特の信仰形態が形成されました。
律令国家祭祀
中央集権国家体制の確立を目指した飛鳥時代には、国家的な祭祀制度が整備され始めました。この方針により、神祇官が設置され、天皇による国家祭祀が盛んに行われるようになりました。
代表的な祭祀としては、
- 祈年祭:年初めに天皇が主宰する、豊穣を祈願し、国家の安泰と民の幸福を祈る祭祀
- 月次祭:毎月の月初めに行われた、天体の巡行を祝福し、国家の平安を祈願する儀式
- 大嘗祭:新しい天皇の即位に際して行われる最も重要な祭祀の1つで、天皇が神々に即位の報告を行い、国家の繁栄を祈願する儀式
などが挙げられます。
大化の改新を推進した中臣鎌足は、神祇官の設置にも深く関与し、神道の国家祭祀制度確立に貢献しました。また、律令国家体制確立に尽力した藤原不比等は、神祇令の編纂にも携わり、神道の法制化に貢献しました。
【大嘗祭が斎行された令和の大嘗宮】
神社の整備
この時代、国家祭祀の場として、各地に神社が建立されました。それと同時に社殿の形式や祭祀儀礼も整備され、この時期に神道の体系化が進んだと考えられています。
この時期の代表的な神社としては、
- 伊勢神宮:天皇家の祖先神である天照大神を祀る。
- 出雲大社:大国主命を祀る。国譲り神話の舞台としても知られる。
- 石上神宮:天皇家の守り神とされる布都御魂剣※を祀る。古代豪族、物部氏の氏神であり、武器庫としての役割も担っていた。
などが挙げられます。
また、この頃には神社に奉仕する神職の制度が確立されました。神職は中臣氏や忌部氏などの特定の氏族出身者が務めることが多く、祭祀や占卜、神事などを担いました。
古事記
古事記は、712年に太安麻呂の奏上により完成した、日本最古の現存する史書です。稗田阿礼の記憶を基に太安麻呂が口述し、太朝臣魚が筆録したとされています。
神代から推古天皇までの物語を漢文で記しており、神話、伝説、歴史などが混在しています。古事記は、神道の神話・伝説を体系的にまとめた書物として、神道の世界観や価値観を形成する上で重要な役割を果たしました。
特に、天照大神を中心とした神統思想や、天皇の正当性を根拠付ける役割を担いました。
日本書紀
日本書紀は、720年に元正天皇の勅命により完成した、日本最古の正史です。稗田阿礼の記憶を基に太安麻呂が口述し、太朝臣魚、小野竹良、石上正史らが筆録したとされています。神代から持統天皇までの物語を漢文で記しており、古事記よりも史実性が重視されています。
日本書紀も、古事記と同じく神道の神話・伝説を体系的にまとめた書物として、神道の世界観や価値観を形成する上で重要な役割を果たしました。特に、中国の歴史書を参考に編纂されたため、中国思想の影響が強く見られます。
このように、古事記は日本国内で読まれることを想定して編纂されましたが、日本書紀は海外から見た日本のイメージ作りを意識して編纂されたと考えられています。
平安時代 (794年~1185年)
平安時代は、日本の歴史において国風文化が大きく花開いた時代であり、神道もまた、飛鳥・奈良時代の基盤を継承しながら、新たな変容と多様化を遂げた時期です。仏教との習合が進展し、神仏習合と呼ばれる独特な信仰形態がさらに発展した一方で、民衆の間で独自の神道信仰も盛んになり、神道は日本の文化に深く根付いていきました。
神仏習合は、神道と仏教の相互理解を深め、日本の文化に大きな影響を与えました。これは、神道が柔軟で多様な信仰であることを示しています。
また、平安時代は、経済的に発展した時代であり、人々が精神的な豊かさを求めるようになりました。
神仏習合
仏教が日本に伝来して以来、神道と仏教は相互に影響を与え合い、平安時代には神仏習合と呼ばれる独特な信仰形態が形成されました。具体的には、神を仏として祀ったり、仏を神として祀ったりするなど、神道と仏教の境界線が曖昧になり、一つの信仰体系として融合するようになりました。
朝廷による神道祭祀の整備
平安時代には、朝廷による神道祭祀が盛んに行われました。これらの祭祀は、国家の安泰と繁栄を祈願するものであり、神道は国家祭祀としての役割を担っていました。
【1990年の大嘗祭の様子】
朝廷による神道祭祀とは別に、民衆の間でも独自の神道信仰が盛んになりました。具体的には、氏神信仰や山岳信仰などが挙げられます。氏神信仰は、地域の氏神を祀る信仰であり、山岳信仰は、山岳を神聖視する信仰です。これらの信仰は、人々の生活に密着し、神道は民衆の心の支えとなっていました。
鎌倉・室町・南北朝時代 (1185年または1192年~1400年頃)
鎌倉時代から室町・南北朝時代にかけて、日本は激動の時代を迎えました。政治体制の変革、社会経済の変容、そして文化の繁栄など、さまざまな変化が訪れました。神道も例外ではなく、この時代において新たな変容と多様化を遂げました。
鎌倉時代に入ると、源頼朝をはじめとする武士たちが神道を崇敬し、神社の保護や社殿の造営などに力を注ぎました。一方で、仏教の影響も強まり、神仏習合と呼ばれる思想が盛んになりました。
神社仏閣の建築様式や儀礼にも変化が見られ、神仏習合思想に基づいた絵画や文学作品も数多く創作されました。
民衆信仰の変化
民衆の間でも、神道信仰は盛んになりました。各地の人々は、地域の神々を祀り、日々の生活における安全と豊穣を祈願しました。
また、特定の神を信仰する個人信仰も広がり、神社への参拝や奉納が増加しました。
特に、
- 八幡神:武神として信仰され、源頼朝をはじめとする武士たちに広く信仰された
- 伊勢神宮:天照大神を祀る伊勢神宮への参拝が盛んになり、庶民の間で広く信仰された
- 天満宮:学問の神として信仰され、菅原道真を祀る天満宮が各地に建立された
- 稲荷神:五穀豊穣の神として信仰され、商売繁盛の神としても人気を集めた
- 熊野神:死者の魂を導く神として信仰され、熊野三山への参詣が盛んになった
などの神々が広く信仰されました。
戦国時代(1467年または1493年から1573年)
【流鏑馬の射手】
戦国時代は、神道が戦国大名の信仰に取り込まれ、さらに多様化が進んだ時代です。戦国大名は、氏神や産土神※を信仰し、戦勝祈願や領内の安泰を祈りました。
各地の戦国大名は、自らの守護神として神社を祀ったり、軍神信仰を奨励したりしました。代表的な例としては、織田信長が熱田神宮を崇敬したこと、豊臣秀吉が豊国神社を建立したことなどが挙げられます。
戦国時代の人々は、日常の生活の一部として神社参拝や奉納、神楽などの祭祀を通じて、神々に感謝の気持ちを表したり、願い事をしたりしました。また、神道に基づいた倫理観や道徳観も大切にされました。
その後、日本各地で神道祭祀が盛んになり、地域社会の活性化に貢献しました。戦国時代は、神道が乱世の中で人々の精神的な支えとなり、さまざまな形で発展した時代と言えるでしょう。
剣道や弓道などの神道武芸が発展したのも、この時代です。
神道武芸
神道武芸とは、神道の思想や教義を基盤とした武術や武道のことを指します。神社の祭祀や神事に関連して発展してきた武芸は、単なる戦闘技術だけでなく、精神性や哲学的な側面も備えています。
代表的な例としては、剣道や弓道などが挙げられます。これらの武芸は、神社の祭祀や神事に関連して発展してきました。
例えば、弓道は古くから神社の祭祀で用いられ、的を射抜くことで神意を伝えると考えられていました。神道武芸は、単なる武術ではなく、精神的な成長や人格形成、そして神への奉仕という深い目的を持っています。
流鏑馬
流鏑馬の起源は、平安時代の軍事訓練の一つとして行われた「走馬射的(そうばしゃてき)」に遡ります。戦場での敵を追撃しながら射撃を行う訓練として、馬術と射術の技術向上に役立てられていました。
鎌倉時代以降、流鏑馬は単なる軍事訓練ではなく、神事や祭礼における神への奉納行事として発展しました。特に、源頼朝が鎌倉鶴岡八幡宮で行った流鏑馬は有名で、流鏑馬の普及に大きく貢献しました。
江戸時代 (1603年~1868年)
【歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」】
江戸幕府が開かれ、戦乱の世が終わると、神社行政も再編されました。具体的には、以下のような施策が行われました。
社領安堵と朱印地・黒印地の設定
各神社のその時点での社領を安堵※し、将軍の朱印状※を得たものは朱印地、領主の黒印状※を得たものは黒印地として、神社の収益権を認めました。ただし、土地の所有権は幕府のものとされました。
寺社奉行の設置
将軍直属の役職として寺社奉行を設置し、老中所管の町奉行や勘定奉行を上回る三奉行の筆頭に位置付けました。寺社奉行は神祇の故実や祭儀の典礼を研究して、寺社奉行の諮問に答える役職である神道方も設置されました。
特定神社への奉行の配置
伊勢神宮には山田奉行、日光東照宮には日光奉行など、特定の重要神社には個別に奉行※が配置されました。
諸社禰宜神主法度の発布
1665年(寛文5年)には諸社禰宜神主法度を発布し、位階を持たない一般の神職が狩衣や衣冠などを着用する際には、吉田家が発布する神道裁許状を取得しなければならないことを定めました。
これにより、吉田家はほぼ全ての神職の管理権を与えられました。ただし、神宮や賀茂神社、春日大社、宇佐八幡宮、出雲大社、伏見稲荷大社など、従前から伝奏を通じて朝廷から位階を授与されてきた社家は、従来通り吉田家を経由せずに位階を授与されることとなりました。
葬祭に関する規制
1672年(寛文12年)には寺社奉行支配の町で行う葬祭は仏式で行うことを義務付けましたが、吉田家や有力社の社家については寺社奉行の認める限り神式の葬祭が許可されました。
朝儀の一部復興
幕府は財政的に支援を行い、戦乱により中絶していた朝儀※の一部を復興しました。具体的には、後土御門天皇以来222年間中断していた大嘗祭が東山天皇の代に再興され、桜町天皇以降恒常化されました。新嘗祭も1688年(元禄元年)に再興され、奉幣使の一部も1744年(延享元年)に再興されました。神嘗祭に際しての朝廷からの例幣使発遣は、1647年(正保4年)に後光明天皇の特旨により再興されました。
国学
【国学の三哲 左から本居宣長、契沖、賀茂真淵】
国学とは、江戸時代に興隆した日本固有の伝統文化や思想を研究する学問です。国学者たちは、儒教や仏教といった外来の思想に頼らず、日本の古典文献に着目し、日本独自の文化や精神性の解明を目指しました。
代表的な国学者としては、本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵などが挙げられます。
庶民信仰の広まり
江戸時代に入ると、治安が回復し、交通網も整備されたことで、神道信仰は庶民の間にさらに広く広まりました。人々は講と呼ばれる結社を結成し、講員は毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行しました。
特に伊勢神宮への参詣を目的とした伊勢講をはじめ、富士山本宮浅間大社を目的とする富士講、金毘羅講、稲荷講、秋葉講などが全国に広く分布しました。
儒家神道
江戸時代には、仏教が寺請制度のもと国教的な地位に位置した一方、思想的には全体として停滞しました。思想界においては、幕藩体制を支える考え方として有効であり、江戸時代の世俗主義に適合する人倫を説く儒教が重要視されました。
儒家の中には、神道もまた理に基づいた思想であると考える者が出てきました。彼らは、神道の神々は理の具現であり、神道の祭祀は理に基づいたものであると考えました。これが、儒家神道と呼ばれる思想です。
明治時代 (1868年~1912年)
【靖国神社】
明治維新は、日本の歴史において大きな転換点となった出来事の一つです。政治体制だけでなく、社会や文化も大きく変貌を遂げました。
明治政府は、神道を国家の正統な宗教として位置づける国家神道体制を確立しました。神社は国家の祭祀機関となり、天皇を頂点とする神道体制が整備されていきました。
しかし、第二次世界大戦後、GHQによって国家神道体制は解体されることになります。
王政復古と神仏分離令(神仏判然令)
1868年(慶応4年/明治元年)の王政復古大号令によって明治維新が始まると、神道は国家の中心的存在として位置づけられるようになりました。政府は神祇官※を復活させ、神道の祭祀や教育を盛んに行うようになりました。
1871年(明治4年)には神仏分離令(神仏判然令)が発令され、仏教と神道が厳然と区別されました。この法令によって、寺院の土地や財産が没収され、僧侶は還俗を余儀なくされました。
また、神道と仏教が混淆していた神社も整理統合されました。
国家神道
神仏判然令によって仏教の影響力が弱まった一方で、神道は国家的な思想として位置づけられました。政府は、神社を国家の祭祀機関として、神道を国民に教育するためにさまざまな施策を講じました。
国家神道体制のもとで、神道は単なる宗教ではなく、国家の統合と国民の精神的支柱となる役割を担うことが期待されました。政府は、神社を通じて国民に忠孝心や愛国心を育て、国家意識を高めることを目指したのです。
第二次世界大戦後
GHQ※は、国家神道が軍国主義の根源であると見なし、その解体を指示しました。1945年12月、神道と国家の関係を断ち切る「神道指令」が発令され、神社は国家機関としての地位を失い、宗教法人として再編成されました。
神社は宗教的な性格を持つ私的な団体として位置づけ直され、天皇の地位も「現人神」という神聖な存在から、人間であり政治的権限を持たない象徴天皇とされました。
しかし、神道は現代日本でも重要な宗教の一つであり、多くの人々に信仰されています。
このように、神道は時代とともに大きな変容を遂げてきました。天皇や貴族、武家、学者たちの影響を受けながら、常に日本の文化と密接に関わり続けてきたのが神道の歴史といえるでしょう。*2)
神道の宗派・教派とそれぞれの教え
【雲海に浮かぶ山頂部が広い御嶽山】
神道には確固とした教義や教典はありません。むしろ、自然崇拝や祖先崇拝といった民間信仰の集合体といえます。
森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神などの祖霊を崇敬する一方で、浄明正直を重視する倫理観も特徴的です。そのため、仏教やキリスト教などに見られる「宗派」というものはありませんが、神道を基盤とした宗教団体は存在します。
これらの宗教団体は教派神道と呼ばれ、それぞれ独自の教義や歴史を持ちます。また、これらの教団は神社神道とは異なり、布教活動も行います。
神道十三派
江戸時代から明治時代にかけて段階的に公認された、神道系の教派のことを神道十三派と呼びます。
- 伊勢神宮、出雲大社、富士山、御嶽山などの講組織や、新宗教の一部が含まれる
- 明治時代に神道を宣教する教団として公認されていった
- 最終的に13の教派が公認されたため、「神道十三派」と呼ばれた
- 神社神道とは対比される概念で、より組織化された教団的性格が強い
- 天之御中主神をはじめとする全ての神々を祭る包括的な性格を持つ
- 一部の教団は国学や復古神道の影響を強く受けている
などの特徴があり、神道十三派は、神社神道とは一線を画す、より組織化された教派神道の体系を成していました。ここではその中からいくつかの教派を紹介します。
黒住教
【開祖:黒住宗忠】
黒住教は、岡山県岡山市に本部を置く神道十三派の1つです。天照大御神を主神とし、日々の生活に活力を与える独自の教えと実践を通して、多くの人々に心の拠り所を提供しています。
黒住教は、1814年(文化11年)に黒住宗忠によって開かれた比較的新しい教派です。宗忠は、自らの体験を通して、全ての人々の心に神が存在するという考えに基づいた教えを広めました。
これは、当時の神道とは異なる画期的な思想であり、「心の神道」と呼ばれるようになりました。
黒住教の特徴
- 開祖:黒住宗忠(くろずみ むねただ)
- 成立:1814年(文化11年)
- 「日拝(ひはい)」:毎日朝日の出を拝み、感謝の気持ちと向上心を育む
- 「丸く、大きく、あたたかい心」:思いやりと寛容な心を大切にする
- 「神道の本義」:神道本来の教えを正しく理解し、実践する
- 神道十三派の中で最も古い歴史を持つ
出雲大社(いずもおおやしろ)教
【出雲大社 神楽殿大注連縄】
出雲大社教は、大国主大神を主神として祀る、古くから伝わる日本の神道を継承する教派です。島根県出雲市に本拠地を置く出雲大社を宗祠としています。
出雲大社教の信仰は、「おみくじ」や「お祓い」などの伝統的な神道儀礼に加え、「御神楽」や「神在祭」などの独特な行事も行われています。
出雲大社教の特徴
- 開祖:出雲国造(いずもこくぞう)千家尊福(せんげたかとみ)
- 成立:神代(かみよ)
- 本部:島根県出雲市大社町杵築
- 出雲大社を中心とした信仰
- 毎年11月に開催される「神在祭(かみありさい)」が有名
- 「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を主神として信仰する
- 「縁結び」のご利益があるとされる
- 「八百万の神々」への敬意を払う
御嶽教
【王滝頂上にある木曽御嶽神社王滝口頂上奥社本宮】
御嶽教は、木曽御嶽山信仰を起源とする教派です。長野県木曽町に木曽大教殿、奈良県奈良市に御嶽山大和本宮を置き、全国に約28,000人の信者がいます。
御嶽山を根本道場とし、山岳信仰に基づいた独特な教義と実践を持つ点が特徴です。御嶽教は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三柱の神様を御一体としている「御嶽大神」を信仰すると同時に、御嶽山そのものへの山岳信仰の要素も強くあります。
御嶽教の特徴
- 開祖:平清定(たいらのきよさだ)
- 成立:12世紀
- 本部:長野県木曽郡木曽町大字御嶽
- 「木曽御嶽山」を神体山として信仰する
- 「山岳信仰」と「修験道」の要素を取り入れている
- 「人倫の道」を重視する
- 登山や修行を通じて精神修養を積む
- 毎年7月に開催される「御嶽山夏祭り」が有名
金光教
【金光教の会堂】
金光教(こんこうきょう)は、1859年(安政6年)に赤沢文治(後の金光大神)によって開かれた、日本の新宗教です。黒住教、天理教と共に、幕末三大新宗教の1つにも数えられます。
金光教の特徴は、「取次」と呼ばれる独特の信仰形態です。信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場で、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、それぞれの願いや感謝を天地金乃神に伝えます。
金光教の特徴
- 開祖:金光大主(かねみつ おおぬし)
- 成立:1858年(安政5年)
- 本部:埼玉県深谷市本郷
- 「金光大神」を唯一の神として信仰する
- 「御神霊」と呼ばれる神聖な光の存在を信じる
- 「みろくの世」の実現を目指す
- 独自の「おふみ取り」と呼ばれる霊感体験がある
- 神道本来の教えを現代風に解釈したものとされる
- 積極的な布教活動を行っている
天理教(現在は神道ではないことを表明している。)
【天理教教会本部の神殿】
天理教は、1838年(天保9年)に中山みきによって開かれた、日本発祥の宗教です。陽気ぐらしと呼ばれる、人間が互いに助け合い、明るく楽しく暮らす世界の実現を目指し、独特な「おぢばがえり」と呼ばれる巡礼や、神への感謝の行為である「ひのきしん」など、独自の信仰形態を持っています。
天理教の特徴
- 開祖:中山みき(なかやま みき)
- 成立:1838年(天保9年)
- 本部:奈良県天理市
- 「天理王命(てんりおうのみこと)」を唯一の神として信仰する
- 「陽気ぐらし」と呼ばれる、人間が互いに助け合い、明るく楽しく暮らす世界の実現を目指す
- 「おふでさき」や「みかぐらうた」などの教典に示された教えに従う
- 独特な「おぢばがえり」と呼ばれる巡礼がある
- 積極的な布教活動を行っている
このように、教派神道は、江戸時代後期から明治時代にかけて登場した、より組織化された神道系の教団群です。これらの教団は、国学や復古神道の影響を強く受けており、天照大神をはじめとする全ての神々を祭る、包括的な性格を持っています。*3)
神道と仏教の違い
【日光東照宮の「見ざる 聞かざる 言わざる」 栃木県日光市】
古来より日本の心の支えとなってきた神道と仏教は、どちらも深い歴史と文化を持ち、人々の生活に密着している存在です。しかし、実はその本質には大きな違いがあります。
神道は「宗教」ではない?
神道は一般的に「宗教」とは呼ばれません。なぜなら、神道には明確な教義や経典、開祖が存在しないからです。
神道は、自然への畏敬と祖先崇拝を中心に、長い歴史の中で自然発生的に形成されてきた信仰体系です。そのため、「信じなければならないもの」が明確に定められていないのです。
一方、仏教は釈迦を開祖とし、経典に基づいた明確な教義を持つ宗教です。
世界観の違い
神道は自然や人間、生命体など、宇宙に存在する一切のものを神格化し、お祀りしたり、信仰したりします。一方、仏教は「悟りを開く」ことを目指し、心の迷いがなくなり安らかな境地に達することを求めます。
生前・死後の考え方の違い
神道には輪廻転生の概念はありません。死後、人は黄泉の国と呼ばれる死者の国へと旅立ち、そこで祖先と再び出会うと考えられています。
一方、仏教では輪廻転生を信じ、悟りを開くことで輪廻から解脱し、涅槃(ねはん)と呼ばれる理想的な境地を目指す考え方があります。
人生の捉え方の違い
神道は生きている今(今中)を大切にした森羅万象や宇宙などへの信仰です。この世での生活を大切にし、自然と調和しながら充実した人生を送ることが重要であると考えられています。
一方、仏教は来世重視の宗教です。仏教では、「人生は苦」という根本的な教えから始まります。
無常、無我、非苦という三つの真理に基づき、老病死や人間関係の悩みなど、あらゆる苦しみは避けられないものであると考えます。また、仏教は、苦しみの根本的な原因を明らかにし、苦しみから解放されるための具体的な方法を示します。*4)
神道に関してよくある疑問
【『日本略史 素戔嗚尊』に描かれた須佐之男命とヤマタノオロチ】
神道は日本の伝統と文化、そして人々の生活の中に深く根ざした信仰体系です。しかし、神道の起源は非常に古く、未解明のことや今なお研究中のことも多くあり、その本質や特性については、多くの人々がまだ理解していない部分があります。
ここでは神道についてのよくある疑問にお答えします。
宗教ではないの?
神道は、一般的な宗教の枠組みには当てはまらないと考えられています。神道は、自然や祖先、そして日常生活に存在する神々を尊重し、感謝する信仰体系です。
神道には、一元的な神や教義、組織的な教会体制は存在しません。自然や祖先への畏敬の念に基づいた、長い歴史の中で自然発生的に形成された信仰体系と言えるでしょう。
天皇との関係は?
神道と天皇は、古代から深い関係にあります。天皇は、神道の神々、特に天照大神の直系の子孫とされ、国家の象徴として、また神聖な存在として尊重されてきました。
現代の天皇は、政治的な権力を持たず、象徴としての役割を果たしています。しかし、国家と国民の安寧と繫栄を祈る「宮中祭祀」を執り行うことは、今日でも天皇の重要な役目です。
主な行事は?
神道には、年間を通じてさまざまな祭りや行事があります。新年の初詣、節分、ひな祭り(桃の節句)、子どもの日(端午の節句)、夏越の大祓など、季節の変わり目には特に多くの祭りが行われます。また、地域や神社によっては、独自の祭りや行事が開催されることもあります。
土地の氏神とは?
土地の氏神は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のことです。 同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)といいます。
氏神信仰は、日本人の精神文化の中で重要な役割を果たしてきました。 氏神信仰は、地域の人々の共同体意識を育み、助け合いの精神を培う土台となってきました。
付喪神ってなに?
付喪神は、長い時間を経て霊力を得た道具や物が神となった存在を指します。これは、神道が自然や物事すべてに神々の存在を見いだすという考え方を反映しています。
【室町時代の『百鬼夜行絵巻』(作者不詳)】
付喪神は妖怪?
付喪神の中には、怪奇現象を引き起こしたり、人を脅かしたりする存在として、古くから妖怪として語られてきた存在も多くあります。百鬼夜行などの絵巻物にも、さまざまな付喪神が描かれています。
付喪神は、妖怪と精霊の境界線にある興味深い存在です。日本人の古道具を大切にする気持ちから、付喪神への信仰が生まれたのかもしれません。*5)
神道とSDGs
【厳島神社の大鳥居と社殿 広島県廿日市市】
神道とSDGs、一見異なる二つの概念ですが、実は深い繋がりを持っていると考えることができます。
神道の信仰の原点は、自然への畏敬と感謝の念です。八百万の神々が宿る自然と共に生き、その恵みに感謝し、調和を保つことを重んじる神道は、まさにSDGsが目指す持続可能な社会と深く共鳴します。
SDGsの17の目標は、貧困や飢餓の撲滅、環境問題への取り組み、ジェンダー平等の実現など、地球規模の課題解決を目指しています。神道における自然と共生する精神は、これらの目標達成に大きく貢献できるのです。
では、神道の精神がどのようにSDGsの目標達成に貢献できるのでしょうか?
環境保全
神道では、自然は神々の依り代であり、人間は自然の一部であると考えられています。そのため、自然を破壊することなく、持続可能な形で利用することが重要視されます。
神道による自然崇拝は、生物多様性の保全や森林伐採の抑制、持続可能な農業など、環境保全に繋がる行動を促進します。
平和と共生
神道は、争いを避け、互いを尊重する心を大切にしています。これは、SDGsが掲げる平和と共生の目標にも合致します。
神道で重要とされる調和と誠実・公正を重んじる精神は、多様な価値観を受け入れ、協調して社会を築くことを促し、紛争の予防や平和構築に貢献します。
地域社会の活性化
神道は、地域の神々を祀る神社を中心としたコミュニティを形成してきました。このコミュニティは、地域住民の交流の場となり、互いを支え合い、助け合う精神を育む役割を果たします。
神道に基づく地域社会の活性化は、SDGsの地域活性化や包摂的な社会の構築などの目標達成に貢献します。
このように、神道の信仰の中に息づく自然との調和や共生の精神性は、SDGsの目標達成において、重要な鍵となるでしょう。
>>各目標に関する詳しい記事はこちらから
まとめ
【岩木山神社入口 青森県弘前市】
神道とは、日本固有の伝統的な信仰体系です。その起源は古代に遡り、日本人の精神性の根幹を成してきました。一般的に、神道の中心思想は、自然への畏敬の念と感謝、万物の調和を大切にすることです。
神道は、日本の歴史と文化に深く根付いています。神社は長い日本の歴史の中で、地域のコミュニティの中心的な役割を担ってきました。
また、神道の祭祀や年中行事は、季節の移ろいや自然の恵みを感謝する機会として、また、私たちの生活の節目として重要な役割を担ってきました。このように、神道は日本人の文化と生活に密着した信仰なのです。
一方で、現代の日本は少子高齢化や地域コミュニティの希薄化、環境破壊など、さまざまな社会問題に直面しています。これらの課題を解決するには、神道が説く自然との調和や共生の精神が重要なヒントを与えてくれます。
また別の角度から見ると、文字が存在しなかった時代から人々の心に根付いてきた神道は、まだ解明されていない謎に満ちた奥深い世界と言えるでしょう。近年、考古学や科学技術の発展により、神道の歴史や信仰内容に関する新たな発見が続々と生まれています。
神道を探求することは、日本人のルーツを紐解き、日本人としてのアイデンティティを再発見する旅路でもあります。神道は、文字で記録されることなく受け継がれてきた期間も長い信仰ゆえに、今日でも探求の対象として非常に魅力的なのです。
神道について理解を深めることで、あなたの身近な場所の神社など、古来から信仰を集める場所を訪れる楽しみが大きくなります。あなたもぜひ、まずは自宅に一番近い神社を訪問してみてください。*6)
<参考・引用文献>
*1)神道とは
WIKIMEDIA COMMONS『View of toriis and sando of Miyajidake Shrine』
神社本庁『神道とは』
神社本庁『国生み』
神道国際学会『神道とは何か?』
東洋経済オンライン『「神道」が1300年も生きのびてきた本当の理由 世界でも珍しい「古代以前の神々」と「神仏習合」』(2022年5月)
全国在日外国人教育研究集会『渡来人と神道』
全日本民医連『神々のルーツ “お稲荷さん”と秦氏』(2022年6月)
日経XTECH『第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議』(2009年4月
佛教大学『日本 にお ける市民宗教としての神道』(2007年3月)
國學院大学『古事記』は日本を学ぶ楽しい入り口!』(2023年4月)
九州大学『新井白石の古代觀と神道觀』
國學院大學『『古事記』あらすじ』
日本経済新聞『古事記「国生み」のオノコロ島どこ?(もっと関西)』(2018年12月)
*2)神道の歴史
WIKIMEDIA COMMONS『Meiji-tenno among kami and emperors』
WIKIMEDIA COMMONS『Late Jomon clay statue Kazahari I Aomoriken 1500BCE – 1000BCE』
WIKIJMEDIA COMMONS『三種の神器 1200×1200』
WIKIMEDIA COMMONS『NintokuTomb Aerial photograph 2007』
WIKIMEDIA COMMONS『Tomb of Emperor Jimmu, haisho.』
WIKIMEDIA COMMONS『Tatsuta-Jinja, haiden-1』
WIKIMEDIA COMMONS『Emperor Akihito Daijōsai(1990)』
WIKIMEDIA COMMONS『Yabusame00』
WIKIMEDIA COMMONS『Ando hiroshige miyakawanowatashi』
WIKIMEDIA COMMONS『契沖、賀茂真淵、本居宣長対座画像』
WIKIMEDIA COMMONS『Yasukuni Shrine 2012』
文化庁『宗教年鑑』(2019年)
立命館大学『国家神道論という言説』中牧 弘允『神道の成立』
國學院大学博物館『考古 [第5章] 王権と「神道」の形成―古墳時代―』
宗教法学会『最近の動向を踏まえた「国家神道」研究の再整理』
森岡 良二『国家神道の成立と展開』
日蓮宗 現代宗教研究所『明治維新以降の神道についての研究』(2009年3月)
文部科学省『明治初期における宗教行政』
日本思想史学会『神道の形成と中世神話』
京都大学『帝国神道的キリスト教の形成と三位一体論的な神道理解』(2022年3月)
*3)神道の宗派・教派とそれぞれの教え
WIKIMEDIA COMMONS『Mount Ontake from Nomugitoge ski resort 2008-04-25』
黒住教『教祖神』
WIKIMEDIA COMMONS『Izumo Taisha Kagura-den Hall 002』
WIKIMEDIA COMMONS『Mount Ontake Shinto shrines on Otaki peak』
金光教『施設あんない』
天理教『聖地「ぢば」』
神社本庁『宗派神道』
鴻徳神社『神道の種類』(2020年11月)
日本経済新聞『皇居で厳かに大嘗祭 14~15日、内部は「秘儀」』(2019年11月
日本経済新聞『大嘗祭、皇居で営まれる 首相ら510人参列』(2019年11月)
國學院大学博物館『神道[第1章]神道祭祀の淵源』
黒住教『黒住教について』
御嶽山大和本宮『御嶽山について』
金光教『教祖の教え』
金光教『教祖の生涯』
天理教『天理教について』
天理教『概要』
*4)神道と仏教の違い
WIKIMEDIA COMMONS『The Three Wise Monkeys, Nikkō Tōshō-gū; April 2018』
日本仏教学院『仏教と神道の7つの違い』
文化庁『令和4年版 宗教年鑑』
文化庁『令和5年版 宗教年鑑』
宗教新聞『聖徳太子における神仏習合』(2022年5月)
藤田 清『習合思想から見た憲法十七条』
京都大学『皇道仏教という思想』
大島 一元『日本の近代化と廃仏毀釈』(2012年)
東白川村役場『廃仏毀釈と民衆の動き』
*5)神道に関してよくある疑問
WIKIMEDIA COMONNS『Susanoo-no-Mikoto-slays-Yamata-no-Orochi-in-Izumo-By-Tsukioka-Yoshitoshi』
WIKIMEDIA COMMONS『Hyakki-Yagyo-Emaki Tsukumogami 1』
*6)神道とSDGs・まとめ
WIKIMEDIA COMMONS『Itsukushima Hiroshima』
WIKIMEDIA COMMONS『Iwakiyama Jinja Torii』